2012/04/19

独立

いつかは事業で独立してみたい、という人は多い。
でも、「独立」 という言葉を、どういう意味で使っているんだろうか。
常々、判らなくなる。


持論。
本当の 「独立」 とは、世の中において 「他の誰一人も開発・供給していないような財やサービス」 の事業者になることでしょうね。
独占的な財やサービスを創造・開発・提供して、はじめて 「俺は独立した事業者だ」 と自己主張すべきでしょう。
で、一流のスポーツ選手や芸術家などは、すぐに 「独立」 することが出来るけれど、それは彼や彼女の技量が極めて複製しにくいオリジナリティとして完結しやすいからですよ。



かつて、「独立して釣具屋になりたい」 と始終ぶつぶつこぼしていた上司がいた。
「で、どういう釣り具を売るつもりですか」 と訊くと、「アメリカで売れている最先端のファイバーの釣竿などを、輸入するんだ」 と言う。
「それで、そういう製品をどうやって売るのですか」 と訊くと 「そんなの決まってるだろう、似たような店がたくさんあるところに出店すれば売れるんだよ」 と言う。
はーて、これで、どこが独立なのか。
そんなのは便乗事業者に過ぎず、市場における同業者や顧客の余計な手間を発生させるだけでしょうに。
むろん、値下げで踏ん張ればある程度までは売れるかもしれないけど、でも値下げ競争を続けたら模倣オンリーの事業者が先にくたばり、元祖・独立事業者は別の製品をすぐに出してくる。
自分だけの商材を新規考案し、自分だけで市場展開し、自らが元祖になって新しい風を興してこそ、独立なのでは。
まあ、そうはいっても、もちろん独立だけが能じゃありませんけどねー。
あっははは。
……と、言ってやったら、この上司は真っ黒な顔になって立腹していた。
それでも僕に指一本触れるどころか怒鳴り飛ばすことも出来なかったんだから、ダメなんだよな、ああいうやつは。

同仕様・同規格製品の競争相手がたくさん居るうちは、独立したことにはならない。
そんなもの、市場における 「複製・分業」 を請け負っているだけ、もっと現実的にいえば元祖・独立事業者の 「下請」 になっただけでしょう。
いくら稼ごうが、それを新規開発に回さないのなら、自分から新規産業や市場をつくることは出来ない。
どこが独立なのかしら。

だから 「独立」 なんて普通の才覚では出来ようはずもないのだが、それにも関らず往々にして 「独立しろ」  という声が企業内で横行することがある。
また、中途採用希望者どころか新卒の学生に対してさえ、こういうことを言ったりする。
その真意は、「あんたの給料は負担できない」 「社会保険も負担できない」 「あんたと一緒に居たくない」 ということでしょうな。
アメリカで 「独立」 という言葉が金科玉条のごとくもてはやされている(いた)のも、人種・宗教のるつぼであったことと大いに関係あるんじゃないのかな。
もし、ある労働者に圧倒的な創造力や供給力があったなら、そんな労働者にむかって 「独立しなさい」 などと言うはずがない。
「ずーーっと、一緒に、やろうよ、なんでも面倒みるからさ」 と言うに決まっている。
そう言われても独立するっていうのなら、見上げたもんだよ、尊敬するよ。

起業件数と法人税・所得税などの相関について、仔細に調べたデータがあれば、確かめてみたいもの。
日本の起業件数はけして少ないとはいえないけれど、それが税収とどう関っているのか。
かつ、独立支援に乗じてカネを貸しつけるのは、いい商売なのかな?
そういうことみんなふまえての政策・政党が、あるのだろうか?

それで、おまえは、なんなんだ?おまえは独立した大人と言えるのか?
…と、問い質されることもある。
今実際に僕自身が手がけている仕事について、こんなところで詳らかに記すことは避けるようにしているので、ぐっと抽象的に書く。

僕は、たとえばマンションや団地などで、未だ住人の居ない部屋を探し出し、そのドアの「鍵穴」 にぴったり合う鍵をなんとかつくりあげるような、そんな役回りが好きなんだな。
その鍵をもってドアをバーーンと開け放って、そこで僕の役回りはおしまい。
あとは皆さんで入室して、中で談笑するなり、仕事や研究を進めるなり、あるいは団結するなり陰謀を図るなり、好き勝手にどうぞ。
こんなたとえがすぐに浮かぶのは、子供の頃ずっと団地住まいだったからかな。
車道をブーーンと走っていても分からないのだが、マンションや団地を縦横に貫く小歩道を夜半に歩いてみれば、各部屋から漏れてくる温かな光がささやかな街路樹とのコントラストでちらついて、とても落ちつくもの。
あまりウロウロしていると、警察に通報されちゃうけどね。

随分以前から知り合いの女性がいる。
仮に 「ねこどん」 と呼んでおく。
「ねこどん」 は、僕がドアを開けるまではろくに近寄ってもこないくせに、ドアが開くとドタトタっと部屋に入っていく。
仕事を終えた僕が去って行っても、「ねこどん」 はほとんど意にも介さず、部屋にこもって紅茶を沸かしたり園芸誌を読んだりしている。
かなり育ちの良い女性なので、こっちにも不快感はない。
僕は夕闇の中、ちょっと離れた小歩道から、「ねこどん」 の部屋をそっと臨む。
やがて、ぽっと灯りがともるのを見届けて、僕は去っていく。
こういうのを独立精神というのかもしれないなあ。
ほとんど一銭にもならんかもしれんけど、でも誰かの為にドアだけは開け放ってやったわけで、かつ、誰の損失にもならず、貶めることもなく、諍いもない。
とぼけた喩えだが、でも少なくともここまで割り切れないのなら、独立なんかしないほうがよいでしょうなぁ。

以上

2012/04/16

ファウルボール

最近は滅多に行かなくなったが、暫く以前にはプロ野球を観戦に行くことが多かった。
贔屓のチームがあったわけでもなく、観客でどよどよと混雑しているのも嫌いな性質なので、客席がスカンスカンの試合を狙って足を運んだものだ。

と、書いていて思いだしたのだが ─
そういえば、高校生のころにも、学校に禁止されているにも関らず帰宅途中に球場に出かけたもの。
そこで売り子のバイトしていた先輩からただでビールを分けてもらって、ガブガブやってたよ。
後ろの席に陣取っていた酔っ払いのおっさんたちに 「コラッ!ガキがビール飲んでいいと思ってんのかッ!俺たちの分が無くなるだろうが!さっさと消えろこのガキャァ!」 などと怒鳴られて別の席に逃げ回ったり、あははは。

さて。
今でもそうなのだが、実は僕は観客席に飛び込んでくる 「ファウルボール」 が怖くなることがある。
理由は、何をどう納得すればよいのか、時々わけがわからなくなってしまうからである。

野球を知らない人たちのために一応説明しておくが、ファウルボールとは打者の「打ち損ね」た打球のこと。
野球の打者というもの、規定のフィールド内にボールを打ち放ち、守備側がもたもたしている間にベースを踏んで一周して帰ってくるというのが本来の仕事。
ところがこの打撃という行為は、相手の投手が手を変え品を変えつつ投じてくるボールを 「いちかばちか」 打ち返すという、もうじつに不自然なチャレンジなのである。
そのため、どうしてもフィールド外への打ち損じということは起こるわけ。
そういう打ち損ないの打球を、ファウルボールと呼ぶ。
しばしば、ファウルボールはおかしなドライブ回転でうなりをあげて観客席に飛んでくる。
観客席に飛び込んでくるくらいだから、まともにまっすぐな打球であることは、まずない。
したがって、避けにくい。
グィーングィーンと宙空を曲がりながら、ドカーーンと客席に飛び込む。
客席に飛び込んできてから、場内にアナウンスが響く。
「ファウルボールには、十分にご注意ください」

アメリカ大リーグの有名な話。
ずいぶん昔の試合で、フィラデルフィアの選手が打ったファウルボールが、高名な新聞記者の夫人を直撃、大怪我をしたその夫人が担架で運ばれている途中、またも同じ選手のファウルボールが直撃したという。

そのファウルボールが…どういうわけか 「僕をめがけて」 飛んでくるような気がしてならない。
うわ、来るぞ!来るぞ!
…という予感が働くことがままあり、そうすると本当にこっちへ飛んでくるのである。
スライスしながら、まるでおいかけてくるように、飛んでくる。
こっちは素手なんだから、直接キャッチするのも憚られる、だって痛いんだもん。
だから、すんでのところで、避けたりする。
しばらくすると、また飛んでくる ─ ような嫌な予感がする。
ほらきた…ドカーン!
とっさに、打っている奴の名前を電光掲示板で確かめる。
ああ、あいつか ─ あいつ、俺に恨みでもあるのかな、と訝しい気持ちになったりする。


今でも覚えている、不思議な日。
数年前に客の入りの乏しい球場でぼやっと観戦していたら、数段上の席で観戦していたおっちゃんが 「おーい、○○、まっすぐ打てよ!こっちに打つなよ!」 と野次を飛ばしていた。
ちょっと嫌な予感がした。
すぐさまファウルボールがシュルシュルとイヤな回転をしながら僕めがけて飛んできて、身をかがめたすぐ背後の座席を直撃した。
「おーい、○○!前に打てねぇのか!ファウルしか打てねぇのか!」 と、さらにおっちゃんの声があがる。
余計なこと言いやがって!あのオヤジ!と僕はいらつく。
続く打球も、やっぱりファウルボールとなって、僕の傍にドカーーンと飛んでくる。
すかさず、おっちゃんが。
「ほーらほら、次もまたファウルじゃねぇのかぁ?」
そして。
本当にまたしても僕のすぐ目の前にファウルボールが、ドカーーン。
さすがに三度も続くと、これはただの偶然ではないのだと、あのおっちゃんの思念と打者の雑念と僕の悪寒がすべてどこかでぶきみに重なってしまったのかと、いやな感じ。
よし、それなら今度来たら素手で捕ってやろう、全部断ち切ってやろう、と身構えていると ─ 
突然、大雨が降りだした。
それはそれは、ものすごい勢いの雨で、たちまち真っ暗になった空のすぐ上を、雷鳴がごごごーーん。
すかさずおっちゃんがカン高い声で。
「おーいおい、ひどい雨だなこりゃぁ!まさかこっちに雷が落っこちてこねぇだろうな?」
あのオヤジ!もう許せん!と僕は歯ぎしりしながら、それでも何かすごくイヤな予感にさいなまれて、裏通路の奥へと避難する。
いっしゅん、周囲がぴかっと光ったかと思うと、バリバリバリ!とものすごい稲妻が。
いかな野球場に避雷針が建っているとはいっても、やっぱり、こわいものはこわい。

試合は雨天中止となってしまった。
すぐに帰る気にもならなかったので、売店でコーヒーをすすりながらタバコを吸っていると、背後から 「わりぃけど、火を、貸してくんねぇかな」 と声が。
なんともイヤな感じがして、僕は無視していた。
すると、またしても、「なあ、あんちゃん、火だよ、火を貸してくれよ」
いやいやながら僕が無愛想に振り返ると、ああ。
ああやっぱり、さっきのおっちゃんがそこに居るじゃないの。
僕はむかっとして、ぶっきらぼうにジッポのライターを突きだした 「どうぞ」
「あんがとよ」 おっちゃんはシュッ、シュッ、と数回着火してみたが、点かない。
「しっけてんのかな、これ、点かねぇぞ」
「そうですかね」
「ほら……な、点かないよな、これ」
「そこの売店でライター売ってますよ」 と、僕は顔はそっぽを向いたままで答えた。
「しょうがねぇな」 とおっちゃんは僕にジッポライターを突っ返すと、売店に向かってのらくらと歩いていった。
ほっとした僕は、別のタバコを引っ張り出すと口に咥えて、このジッポライターで着火。
そのとたん。
ボワッ!
びっくりするほどの火柱が眼前におこり、前髪か眉か、よくわからないが確かに焦げたにおいが。
これはもう、あのオヤジだ、あいつは疫病神だ、あいつから離れよう、と。
それで急いで帰路についた。

このおっちゃんにそっくりの初老の男性が自動車に撥ねられて死んでしまった、という記事を確認したのは翌朝のことだった。
本人だったのかどうか、それは知らない、あえて知りたくもない。
記事の写真がたまたま似ていただけかもしれない。
それでも…とりあえず僕はそのジッポライターを捨てて、試合のチケット半券も捨てて、それ以来その野球場には出かけていない。
なにかすんでのギリギリのところで、ファウルボールが僕の頭のすぐ上をかすめていったような気持ち。


おかしなものにやたらと出っくわす人がいる、という。
幽霊をよく見る人もいるという。
そういうのに、近いのかな。
ファウルボールがくるぞ、くるぞ、と予感がムズムズとわき起こるのも、何かのしるしか。
なにかが、どこかで、バランスを保ちつつも、みなが違うサイクルで動いているので、どこかの重力やロジックの間隙をぬって、ずれが生じて。
それが僕の場合には、ファウルボールのようなかたちで、絶妙な警告となって飛んでくるのか。
油断するな、危機はすぐそこにあるんだぞ、って。
そういえば、学生時代に格闘技を「かじった」こともあるが、大した怪我も無かったし。
もっと思いだせば、国内外で結構危ない目に遭いかけているわりには、ヒヤリ、ドキリ、ばかりで大怪我はない。
中東の或る国に出かけた時も、僕の到着のほんの数日前にテロ事件で内務省のビルが爆破されたとか。
その残骸を見せられて、本当にぞっとしたけどね。
つまり。
自身には認知し得ない巨大で遠大な何かが、どこかで影響し合っていて、自分はそのどこかの狭間にいる。
そんな自分は、運命というタイトルの悲壮な本のどこかのページを、「しおり」 のようにヒョイヒョイとスキップしているだけなのでは。

しかし。
英国史上最高の哲学者と称されるヒュームは仰っている。
「因果律は先験的にはけして与えられず、原因と結果を決定するのはその両者の距離関係であって、その距離関係が近いほど人は自己の経験則によって因果関係を理解しうる」
そうで、あるのなら。
Nothing is written !
直近の事の運びに執心せよ、わけのわからない事象を無理に説明するな、すぐ傍にいる神のみを信ぜよ、ということか。
なるほど、こちらの方がたくましい。
ファウルボールを予期して怯えたり悩んだりすることもない、というわけ。
何もかもが常に変わっているからこそ、一緒に変わっていけばいいわけだし、むしろそういう生き方しか出来んのよ、人間は。
ミサイルが飛んでこようが、どこで原発を再開しようが、どんな地震が起ころうが、わけのわかっている事にしか対処しようがない。
その知力のセットを経験則と呼ぶか、まあ、大体そんなとこじゃないのか?

(こんなもんでいいか?)

以上

謝辞

ここに提示の記事は、いずれも私自身の判断責任のもと編集・投稿したものです。

大半の投稿は学生など若年層向けを意図してやや平易な表現にて、通俗性は極力回避しつつ、論旨の明示性を重視しつつ書き綴りました。あわせてまた、社会人の皆様にお読み頂くことも想定しつつ、汎用性高い観念知識を相応に動員しながら記した積もりです。

私なりの思考着想によるささやかな閃きが、皆様の諸活動にて何らかの光源たり得れば、望外の喜びであります。

山本