自己紹介

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東京都立川市出身、慶應義塾大学卒業、某電機メーカ勤務にてソフトウェアシステムの海外プリセールス等を経て、現在は教育関連に従事

2012/08/01

勝つは偶然、負けるは必然

(1) どこかで読んだことがある名言なのだが─

「勝つ」ためには必然を超えた何かが無ければならず、一方で「負ける」のには相応の必然的な理由がある、と云う。
人智なるものを説明した、極めて理知的な言葉だと思っている。

難関の入試のような厳しい競争試験において、面倒みてきた学生が 「合格した」 と聞くとこっちとしてもビックリすることが多々あるが、「落ちた」 と聞いて驚くことはない。
ある生徒がなぜ合格出来たんだろう?と訊かれると、その勝因の完全な説明など出来ないが、その同じ子が落ちてしまった場合の敗因説明は10でも20でも出来る。

スポーツのように極めて短時間の試合で結果が出てしまうものは、それだけ残酷で、それも格闘技ならなおさらだが、でも、もし負けたのならその負けた理由を必ず見出すことが出来る。 


(2) つまり。
人間は一定の上限を設定して、その範囲内にある実体の構成要素や変動要因を分析することは得意な反面、その上限を「超えた世界」を予測することは出来ない。
「勝ち」はその上限を超えた未知にあるのだから、そこから論理的に帰納される「負け」をいくら集めても新たな「勝ち」を定義することはできない。
別の言い方をすれば、「勝たなければ負け」 が成り立つ反面、「負けなければ勝ち」 は成り立たない。
経済学なども、変動する諸要素の上限を設定した上で、需給一致とか損益分岐とか許容範囲などと定義しているのだろう。
それも、一番普遍的に演算しうる財、つまり通貨を基軸に据えて。


(3) しばらく以前に、我ながら奇妙な 「ファウルボール」 というエッセイを書いた。
我々が未知の世界を予測することが出来ないのは、我々が有限の存在だからじゃないかな。
無限に生き続けることが出来ないのだから(いや、きっと宇宙すらも有限だから)、既知の素材をいじくりまわしても、未知の結合を完全に演繹する知恵などありそうもない。
どんな既知の科学をもってしても。


(4) さて。
オリンピック柔道で、勝敗判定が一斉にひっくり返った。
判定に関与した人たちがどこまで必然的な判断を働かせていたのか(いるのか)、さっぱりわからない。
上に記したとおり、なぜ「勝った」のかは判定関係者にも完全には説明出来ないにせよ、「勝たなければ負け」 なのだから、その「勝者」に至らなかった「敗者」については説明が出来るはず。
とくに、有効や技有りといった得点制が採用されているのだから、なおさら。

そういう得点は、減点法じゃなくて加点法だろう、その加点の集積として 「勝ち」 だって積極的に定義出来るだろう、というかもしれない。
でも、違う。
あくまでも、技を食らってしまった方から減点する代わりに、かけた方を加点しているのである。
つまり、やられた方から減点し続けるとマイナスに陥る場合があるので、代わりにかけた方に加点をしているのである。
技そのものを評価して加点しているわけではない。

だいたい、どんな試験でもスポーツでも、無限大に加点をする競技はない。
理由は絶望的なほど簡単で ─ つまり、我々には無限のゲームなど出来ないし、無限に続くゲームがあったとしてその勝敗判定など出来ないからだ。
だから、我々が勝敗を決しなければならないゲームは、すべて必ず時間制限がある。

大抵の人は同意するだろうが、僕なりに判定しても、此度の勝敗逆転判定は日本選手の健闘の結果として当然だとは思う 
─ そうは思うが、でも何度も揺れて揺り戻しさえあった今回の判定そのものが、納得出来ないね。
そこへもってきて、試合直後の 「とにかく勝ちは勝ち」 というNHKの発言が、なおさら割り切れない。
これじゃまるで、勝利が必然であると言うに等しいはないか。
仕組まれた勝負でもない限り、勝利が必然であるわけがない。
「とにかく、相手に及ばなかったのですから、負けは負けですよ」  というのなら理解出来るけどね。


(5) もうちょっと飛躍した話をするが。
まず僕には、いわゆる高等数学のプロセスは分からない。
理念的に「何をしようとしている」か、そこは何となく分かるが、いったい何をやってんのか、そのプロセスの文法というかマナーとなると、捕捉出来ない。
そんな僕だからこそ、言う。
数学にせよ他の理論体系にせよ、アナログに完成した実体を前提に、それをデジタル分解し「希薄化」している学術であろう。
だから、既存のアナログの実体を超えることは出来ない。
しかし、だ。
むしろ逆に、デジタルな諸要素を練り上げて、新たな粒子のアナログコンテンツを編み上げることこそが、本当の数学のスリルなのではないか。
もしもパラドックスの美学なるものが有り得るのなら、これほど華麗なチャレンジもあるまい。

(昔々の学生時代、微分だの積分だのを学んだ ─ いやいや学ばされた時、「微積を学ぶのはバラバラをまんまるくまとめるためなんだよ」などと教わった記憶がある。
まぁね、その時は、なに言うとんじゃ先公が、などとふてくされて聞いていたもんですよ、そんな白けた学生だったから一橋大学にも東京外国語大学にも入れなかったんだ、ははは。)

ともあれ。
あらゆる現実、あらゆる失敗や敗北…上限を超えられなかった諸々、それらのアナログの実体はデジタルに分解・解析が出来、集積も出来るだろう。
しかし、その「上限を超えた勝利」は、全く新たなアナログコンテンツではないかと考えてみたりする。
そういう哀しくも美しい未知への挑戦が楽しみで、スポーツをずっと見つめている。

以上

謝辞

ここに提示の記事は、いずれも私自身の判断責任のもと編集・投稿したものです。

大半の投稿は学生など若年層向けを意図してやや平易な表現にて、通俗性は極力回避しつつ、論旨の明示性を重視しつつ書き綴りました。あわせてまた、社会人の皆様にお読み頂くことも想定しつつ、汎用性高い観念知識を相応に動員しながら記した積もりです。

私なりの思考着想によるささやかな閃きが、皆様の諸活動にて何らかの光源たり得れば、望外の喜びであります。

山本