2013/12/28

魔法の風船


ふとしたはずみのことだった。
魔法の風船が、ほわん、と僕の手許を離れてしまった。
「あっ、いかん、戻れ、こら!降りてこい!」と僕は飛びついてみたが、そうするとなおのこと、魔法の風船はどんどん高く高く舞い上がっていった。

やがて、冬晴れの青空、高く小さく紅一点、遠く向こうへ見えなくなった。



「ねえ先生、魔法の風船について教えて!」 
「ああ、それはね……いや、教えない、君に教えてみたところで、分かるような話じゃないからな」
「分かるよ、あたしだって!」
「分からないよ、無理むり……こら、そんなにムクれた顔するな。よし!じゃあ君にも教えてやろう!あくまで教育の一環として、だ」
「うん!教育の一環」
「茶化すんじゃない。いいか、よーく聞けよ。魔法の風船の秘密は…」
「秘密は?」
「…つまり!恋を求めている者のもとへふわりと降りてくる性質があるということなんだ」
「ふぅーん」
「驚いたか?」
「別に~」
「つまりだな、あの秘密の風船の飛んでいく先には、恋を求めている誰かさんが居るってこと」
「ふぅーん」
「分かったか!?分かっても分からなくても、この話はもうおしまい。だから君には難しいって言ったろ、はい、おしまい」


「……ねえ先生?」
「なんだ?」
「どうして先生がそんな魔法の風船を持ってたの?ねえ~」
「ほらな、どうしたってそういう質問になっちゃうだろ。だからこの話はしたくなかったんだよ、俺ァ」
「要するに、先生が恋を求めていて、だからその風船が舞い降りてきたの?」
「さぁね」
「…ねえ、せんせー~~」
「まだ何か有るのか?!」
「もしも、もしもね、その魔法の風船が、持ち主のところを去って、別の人のところへ飛んでいったら、その場合にはどういうことになるの?」
「なになに?持ち主を去って、別の人のところ?…ねえ、君、つまらないこと考えるんじゃないぞ」
「その場合、二人は結ばれるの?」
「分からん。なあ、もうやめようよ、この話は」


突然、その娘は脱兎のごとく駆け出した。
おい、待て!と僕は咄嗟に呼び止めたが、その娘は何かケラケラと笑ったり歌ったりしながら一層軽やかに疾走してゆくのであった。
待てよ、おいっ!
ふぅふぅと彼女を追いかけながら、僕は心中でおかしいな、おかしいな、と反芻していた。
そうだ、確かに俺は、魔法の風船によって恋の精神を取り戻したんだ…しかし、しかし、そうして俺の内に再び宿った恋心が、こんなつるっつるの顔の小娘に対するものであったはずがない。
それならば…どうして俺は今こんなふうに、この小娘を追いかけているんだろう?
もしかしたら ─ 
それは、それは。
あの魔法の風船が舞い降りた先の誰かが、この小娘の行き着く処で俺を待っていてくれるのだ、と。
そんな馬鹿げた小娘の空想を、当の俺自身が信じ込んでいるが為なのではないか。
だって、ほら!
今や、もうすぐ先の曲がり角から、彼女が息せき切ってこんなふうに叫んでいるのが聞こえるじゃないか。

「お母さん!お母さん!
その風船の秘密が分かったよ!
大切な人が、もうすぐそこまで来ているよ!
よかったね!よかったね!
お母さんも幸せになれるんだよ!なっていいんだよ!」



おわり

2013/12/17

【読書メモ】 憲法とは何か

(本ブログ記事はもともと前半部と後半部に分けたものでしたが、トータルな啓発力が極めて強い書籍の紹介となったがゆえ、一括投稿とします。)

本書は2006年に岩波書店から発刊(僕が読んだものは2012年6月の第6刷版)著者は我が国を代表する憲法学者の一人、東京大学大学院の長谷部恭男教授で、ひろく一般読者層向けに憲法ほか法律論にかかる著作を数多く発表されています。
(確か昨年度の駿台予備学校のHPでも法/政治学への誘いのメッセージを受験生向けに発せられており、僕としても以前から親近感を抱いておりました。)

今回この本を取り上げたのは、これからの憲法改正議論にさいし、問題の再定義をしておかねばとの念もあってのこと、そんな折にたまたま本書を書店で見かけたので購入した次第。

さて、これまで僕は本ブログにおいて、経済学と法学について概して懐疑的な捉え方を一貫してきました ─  それは、経済学や法学(まして政治学など何をか言わんや)における用語便法の暫定性に便乗し、「自由競争vs民主主義」などなどズボラな枠組み設定を以て、個別の特性(spec)ではなく全体における約数(rate)を争っている風潮がどうにも嫌いであったため。
事実、此度成立の特定秘密保護法において、長谷部氏が同法の基本的な必要性に賛意を示したところ、氏がリベラルな市民派から強圧的な国政派に転向した云々と中傷する声も少なからず上がったようで…
そのように非学術的で蒙昧な扇動を続けるくだらない自称:政治通や自称:経済通の人たちが全く我慢がならない。

しかしながら、本書において長谷部氏が判然と展開される憲法解釈論はむしろ、法体系というものの暫定性を踏まえつつも、表層の諒解から必然解釈へと帰納的に濾過させ純化させていればこそ、実に理知的です。
思想文化論も虚飾も利害得失論も取り去った冷徹な分析に終始されているがゆえ、実に読み易い!判りやすい!特に「多元的」などなど語彙の用法において僕と妙に相性がよく(失礼)、よってこれほど一気に読み抜いた本はほとんどありません。
或いは、高校教育における政治経済科および現代社会科、とくに政治分野の参考書としても素晴らしい一冊たりうるかもしれぬ、と察します。

そこで。
今回の僕なりの【読書メモ】として、とりあえず以下、自分なりに概括しおきました。



・ある領域における特定の人々が、自らの資産(土地)を積極的に運営しその価値を効率的に維持するためには、共同管理を超えた積極性が求められ、そのため、人々が政治的に組織されていなければならない。
また、政府は本来は全地球人の権利をあまねく保障すべきともいえるが、そこまでの実効力は無いため、特定の人々の人権保障を特定の政府が為すことになる。

…という特定の組織状態が国家であるといえ、ゆえに国家はどこまでも功利主義的に成立しており、また普遍的な人権に対して相対的な存在でしかない。
が、それでもあらゆる領域の人々がこの状態を守るからこそ、地球全体も国家群として維持されている。

・ホッブスの社会契約論にどこまでも則れば、人間の私的権利の争奪を抑制するために人為的に国家が必要、だからそれら国家同士の「敵対的な分立」もやむなしということになる。
が、ルソーはこれを批判 し、そもそも国家を人為的に造ったからこそ戦争が大規模化する、と説いた。
そしてルソーは、国家が人為的な存在であればこそ、人知によって戦争を終結させることも可能と説き
─ 実際に1980~90年代の冷戦終結は東側陣営諸国の国家の在りよう(つまり憲法)を変えさせることによって、大戦争の回避に成功したといえる。

・ちなみに、ホッブスの国家存立論を継いだとされるカント『永遠平和のために』によれば、あらゆる国家間の敵対的な分立はそもそも人間世界の宿命ではない。
各国における常備軍の廃止や共和制の採用と人民武装化によって、国家間の勢力均衡を維持しうるとし、よって戦争は避けることが出来るとしていた。
(なお近代ヨーロッパが共和制に拘っていたのは、古代ローマ以来ヨーロッパ各国で公益実現のための理想政体が共和制であるとされていたため。
アメリカ合衆国成立時も、またフランス革命も共和制が理念の基本線であった。)

・さて現実の世界はいまや、国境を超えたテロ戦争、環境問題や疾病とそれらへの予防自衛の局面にあるともいえ、国際機関や国際的な協調が求められる。
そうなると、国家が行使する正当化=権威が、国境を超えて効力を持たざるを得ない。
英哲学者バーナード=ウィリアムズによれば、「国境をいかに引くべきかについて、あらゆる場合に妥当する原理的な正解は無い」とされる、が、だからといって既存の国境(論)そのものが自己目的とされてはならない。 



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・憲法とは、それが機能している限りにおいて、国家の政治秩序の基本的な構成原理である。

・憲法の必要性を説く有力な見解としては、憲法を公権力自身のプレコミットメントと捉える見方がある。
これつまり、能力行使において非理性的な行為で自己の不利益をもたらさないよう、権力自身の能力を拘束的に制限する設定、とするものである。

・国家の憲法を平和的に成立させ運用させるなら、たとえ人間の本性に反してでも、多元的な(相互に比較不能な)価値観や理念を許容し、理性的な審議と決定プロセスを経た公正な合意にとりあえずは依らざるを得ない
…という発想を「立憲主義=リベラル・デモクラシー」、あるいはヨリ包括的にリベラリズムと呼ぶ。
現代の世界における民主主義の実現形態として、立憲主義による憲法制定と存続が多勢である。
なお、これは価値の相対論(価値の永遠のバラつきの容認)を指すわけではない。

・立憲主義を貫く以上、各主体の「権利」を私的な領域と公的な領域に分けて規定しつつ、後者において全構成員共通の利害とコストを公正に配分することになる。
この切り分けによってこそ、私人である各主体の権利も、また公共利害の意思決定も明確になる。
それを補完すべく、マスメディアの存在、知る権利も保証されている。

・アメリカ合衆国憲法の成立推進者として知られるマディソン(のちに第4代大統領)は、この憲法の正当性を各州に推す理由として、州の小規模な直接民主制のみでは派閥政治に左右されがちだが、大規模な代表制の共和国結成によって小さな利害対立を収斂出来、理想的な民主政治を実現できると唱えていた。
だが実際には、むしろ合衆国憲法によって、共和制の公益追求論を超えた大規模な民主政治の実現に向かったとも言え、そこから現行の世界主流の立憲主義が始まったと見ることが出来る。



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・戦前の日本型ファシズムは、公的領域と私的領域の切り分けに対する日本人の文化的嫌悪感と多元性放棄から興ったもので、天皇すらも伝統的価値秩序におかれており、日本において自由意思を持った主体が皆無となった ─ と丸山真男は説明した。
(但し本書では、これが日本人のみの特性であるなどとは全く書かれていない。) 

・ワイマール共和国時代のドイツ憲法学者シュミットによれば ─ 真の公益の追求を目的とした教養財産階級によるリベラルな議会制は、(彼の時代に)既に過去の理想に過ぎなかった。
現実の議会制は、戦争とともに大衆参政化が進み、政党による大衆組織化と競合を経つつ、暫定的な私益の調整に留まるものとなっている、とした。
そういう議会制の暫定性が、国内における全主権者における敵味方の「政治的」な拮抗を、国家同士の正統性の戦争へと発展させてしまうこと必然、そうなると理想的な議会制リベラリズムなどでは対処出来ず、全主権者による直接民主政、つまりファシズムか共産主義を以て戦争にあたるしかない ─ とシュミットは唱えた。

・しかし現実には、たとえリベラルな議会制民主主義の憲法に則った国家が、公益と私益を分けざるを得ないとしても、公益調整のため暫定的な偽善妥協に陥ろうとも…それでもリベラル陣営が第二次大戦においてファシズム選択国家を打倒し、今日に至る。
とりあえずドイツは、議会制民主主義国家と、共産主義国家に分断されることになった。

・ちなみにハーバーマスによれば、たとえ議会政治が組織政党に支配されるとしても、その政党間の討論が一般国民への語りかけの効果を有する。
ゆえに、このプロセスが延々と続けば、時間も空間も超えた長期的な利害調整に「公論を誘って」いることになり、つまりは民主主義の理想的な追求形態たりうる、と説く。
(著者の長谷部氏はここまで拡大解釈はせず、議会政治における討論の論題を限定させつつ、むしろ議会外でこそ自由な表現形態の討論がなされるべきであるとされている。)

・もちろん、体制論がすべての現実を正当化するわけではない。
戦略論の専門家バビット教授によれば ─ 戦争は国家の憲法の在りよう、つまり国家の正統性の争いである。
たとえば第二次大戦時に、ファシズム国家が核兵器を保有してリベラルな民主主義国家への脅威となることもありえた ─ かかる緊急事態を事前に排除するため、リベラル陣営による日本への原爆投下もやむを得なかった、という論法が成立する。
しかし、政治哲学者ウォルツァーによれば、たとえ一般市民への空爆が戦時の「究極の緊急事態」に即したやむなしの行為であったとしても、一方では日本はナチスドイツ同様の邪悪な拡張国家ではなかったとする。

・この両者の見解を勘案しつつ、更に実践的に考えを詰めれば ─ 
第二次大戦後に勝ち残った東西二極の核による相互抑止も、その破壊殲滅力を考慮すれば、やはり「究極の緊急事態」の継続である。
さらに、仮に日本が勝ち残り、三極による継続的な緊急事態となっていたとしても、現実的な脅威は本質的に変わるものではなかったろう、との見方も出来る。
よって日本への原爆投下は、リベラル陣営対ファシズム陣営間の戦争における緊急事態抑止論のみでは説明出来ないということになる。



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・憲法が守ろうとするものは、その憲法自身の定義によってその時点で成立している(と見做される)国体であり諸主体に過ぎない。
普遍的に存続してきた民族性や文化性のすべてではない。
ゆえに、一定の条件下における最善の国制は、多元的な価値観の合意としてではなく、常に最適な一つの秩序としてしか存在し得ない、として憲法を運用する場合もありえる(レオ・シュトラウス引用など)。

・だがそうなると、たとえばテロ国家への武力行使という形で、むしろリベラリズム自体の否定にすらつながり得る。
しかしながら、欧米諸国(の理想)と同様、日本も立憲主義=リベラル・デモクラシーを堅持するならば、日本は経済力や軍事力において「欧米以上に」寛容な(非攻撃的な)社会のモデルを構築する、という選択肢も有効である。
そのさいに、日本はやはりリベラル立憲主義の原理に則った国家と長期的に提携していくことが国際関係の基本たるべきで、これは軍事戦略論以上に、広範な日本人の活動範囲にかかる課題。
ここに、今後の日本国憲法の在り方が懸かってくる。



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・立憲民主政(リベラル=デモクラシー)は権力分立に則っている。
たとえば、古典的な権力分立論として、モンテスキューが当時の英国議会政治を参考に説いたとされる三権分立論がよく知られる。
尤も、これは「三権の分離による均衡と抑制」を説いたものではあっても、それらを別々に「特定機関に独占させる」旨を説いたものではない。
司法権を随時の陪審制として立法・行政から分離せよとは説いたが、これを完全に独立した権力機関にしろとは記さなかった。
また立法機関の権力独占を抑えるべく、行政機関は自身の立法阻止権を行使し、むしろ積極的に立法に参加すべきと説いた。
フランス革命においても、またアメリカ合衆国憲法(大統領による立法拒否権)においても、モンテスキューが多大な影響を与えた。


・さて、権力分立の状況に則りながら、世界のリベラル・デモクラシーを「再分類」すると (アッカーマン教授の引用例) ─

まず、アメリカをはじめとする大統領制では、議会と大統領が別々に選出され、さらに実際の業務においても両者の交渉や調整の機会がほとんど無い。
まさにそれゆえに、立法と行政の両者ともに特定の党派のみで占められる場合もある。
或いは、もし両者が異なる党派で占められると、利害の一致に到達しにくく、国政が閉塞する例が(途上国などで)散見される。

この国政閉塞のリスク回避策として、立法と行政の相互の「交渉・調整機会の確保」があげられ、それを機能させ続けてきたのが、イギリス型の議院内閣制で、議会を占拠する最大多数与党が政府との利害も一致させやすい。
が、反面では、議会と政府において同じ党派が同時に権力独占に陥るリスクは、やはり残る。

さらに。
この権力独占リスクまでも回避しうる政治システムが、違憲審査権などを通じて立法府と行政府の権限を相互に制限しうる、ドイツや日本の議院内閣制である。

・以上から、今後の世界におけるリベラル・デモクラシーの権力分立形態としては、このドイツ・日本型の立法/行政の相互制限関係における議院内閣制こそが最も望ましい。
さらに、特定の党派勢力が権力の独占を図り易い新興途上国においても、ドイツ・日本の議院内閣制に倣うことこそ最も望ましい。

逆に、最良の制限力を機能させている日本の議院内閣制に、首相公選制を導入すると、むしろ首相と議会党派を選抜段階から分断させ、相互の制限力を奪う方向に機能してしまうので、勧められない。



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・さらに。
アッカーマン教授の引用によれば、国の根本原理を変革する政治過程を「憲法政治」と呼び、一方で日常の利害調整における政治過程を「通常政治」と呼ぶ。

イギリスは憲法典が無く、イギリス議会が多数決によってほぼ万能な権限を行使するため、そもそも「憲法政治」と「通常政治」の区別が無い。
これを「一元的民主政」と称すべきである。 

一方で、硬性憲法を有するアメリカ・ドイツ・日本などでは「憲法政治」と「通常政治」の過程がはっきり区分されており、これを「二元的民主政」と称す。
二元的民主政の方が、立法・行政は現実的な通常政治に集中出来る。

・なお、アメリカ合衆国の歴史において、「憲法政治」のレベルの調整が挑まれた時期は ─ 独立戦争から合衆国憲法の制定に至る時期、南北戦争と復興期、ニューディール政策期の三度だけである。
つまり、「憲法政治」に直面することは稀であり、また、そのさいに硬性憲法の文面を書き換えるとも限らず、また書き換えからといって国の在り方が大きく変わるとも限らない。

以上から。
二元的な民主政に則りつつ、かつ、立法府と行政府の権限を相互に制限しうるシステム、つまりドイツ・日本の議院内閣制こそ、権力分立システムとして最も望ましいといえる。 




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・さて。
憲法の改正にはどんな意義がありうるのか。
シカゴ大学のストラウス教授によれば、政治体制が成熟した国家において、ほとんどの問題は通常の法律に則って解決しうるため、憲法典そのものの改編には意味がなくなっている、という。
憲法改正にエネルギーを奪われることなく、通常の政治司法のレベルでの解決に注力することが望ましいと。

アメリカ合衆国憲法の改正実績として、南北戦争後に人種差別の是正を目的として改正された第13~15修正が挙げられる、が、これらが事実上の効力を有するのは約100年後の公民権法によってであった。

逆に、実際の状況を追認したかたちでの憲法改正としては、女性の選挙権を定めた第19修正や、上院議員を各州の直接選挙で選ぶこと定めた第17修正が挙げられる。

なお1971年のフランスでは、憲法を改正することなく、1789年革命当初の人権宣言を再解釈することによって、憲法保障の結社の自由を国民の権利として制度的に再設定した経緯がある。


・現在の日本国憲法を鑑みても、憲法そのものの文面がそのまま法的な効力を発するわけでもなく(環境権など)、逆に憲法に文面無くとも個別の制定法や具体的判例に依って効力を有する権利もある(プライバシーの権利など)。
「国を守る権利」も同様で、個別の制定法で定めない限り憲法条文をいじっても実効力は無い。

・憲法九条の狙いは、軍と政治が権力を共有しないよう、権利行使の幅に制限を設けていること。
この憲法九条の改正自体が、それ自体が軍と政治それぞれの権限を具体的に改編しうるわけではない。
現行の政府解釈に依る自衛のための実力保持にせよ、こんごの集団的自衛権の行使容認議論にせよ、政府と軍の権能の制限を別段定義が必須である。
(軍の実力を永遠絶対に排除しろ、などとは言っていない。)



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・オクスフォード大学の法哲学のハート教授は、法と道徳の違いに着目し、法は意図的に変更されうるが道徳はそうではないと説いた。
もともと、人々には権利や義務を定める社会的慣行が法として存在していたのだが、近代化が進み社会生活が可変的となると、あらためて人為的な規範(ここでは憲法)が生成され、あわせて司法の専門家も求められるようになる。
つまり、憲法は全国民の真理ではなく、様々な慣行を再認定するための便宜的な中核機能と捉えるべきである。

したがい、憲法もその認定や改正も、国民のみならず専門家の力量に大きく依るしかないし、憲法のテキスト文言を変えたところで実社会の道徳規範が全て変わるわけでもない ─ と見るべきだろう。



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・ところで。
専門的な能力や運営力を行使すべき官僚機構や日銀などは、立法や行政と異なり、政治党派間の交渉や調整過程から離れた「中立性」が求められる。
とりわけ、現代社会の先進国においては、立法のみならず行政も社会の隅々の需要を反映しつつ、サービスを提供する能力が必須である。
これも現状の大統領制では困難であり、政権党を問わず中立に職務を遂行出来る議院内閣制の下でなればこそ、実現可能である。

・日本の最高裁裁判官の人事権は、憲法上は内閣が有するが、実際は最高裁長官の意見を徴するのが普通。
また、実際の日本の立法は多くが内閣提出法案によっており、それは起草段階で法律のプロ集団である内閣法制局の審査を経ている。
これらを鑑みても、最高裁が内閣に従属しているとはいえない。

むしろ、最高裁が内閣に従属せず自主的な司法判断力を有していればこそ、最高裁は議員提出立法や旧憲法下の規定に対する違憲審査に挑む余裕が有るといえる。 
(因みに、イギリスは2009年から、それまで上院=高等法院に担わせていた司法権を、新たに設置の最高裁に移した、がこの最高裁は依然として違憲審査権は有していない。)


以上

2013/12/04

Asymmetry


① 数学のちょっと幻惑的な問題で、こんなのを考えついたことがある。
『以下の(1)と(2)は同じ場合数となるか?それとも異なるか?
(1) 有力新聞8社それぞれが5人の候補者のいずれかを支援する場合数
(2) この5人の候補者それぞれに8種類のキャッチフレーズのいずれかを割り付ける場合数
(どちらの場合においても、計算を簡単にするため重複選択はナシとする)』

さて。
数学のセンスの高い人ならば、これは(1)も(2)も同じ 58 通りとすぐさま解るだろう。
つまり8つの新聞社あるいはキャッチフレーズそれぞれが、5人の候補者のいずれかに「付く」、よってどちらも 5 x 5 x 5 x 5 x 5 x 5 x 5 = 58 通りとなる(ホントに同じだろうな?!などと、数学のセンスの低い僕などは自分で考案した問題にドギマギしている。)

と、油断させておいて…。
ではちょっとだけヴァリエーション。
(3)この5人の候補者それぞれ「が」8つの政策のどれか「を」公約する場合数は幾つか?
数学センスの高い人ならば、「これは85通りになるね、さっきとは違うよ」とたちどころに閃くだろう、これはさっきの問題と異なり…いや、もういちいち書かない。

ここで例示したかったことは、(1)と(2)の条件では実践の選択数が等しいが、(3)の条件においては実践の選択数がずっと少ない、つまり大雑把な選択になるということ。
この紛らわしさは、日本語の「が」とか「を」といった助詞が論理的な厳密性に乏しいため。
のみならず、いや寧ろ、何が何に対してどういう条件で対応するのかについて、案外ズボラな思考に慣らされているためではないかな、と察する。

数学通の人によれば、「対称性の数学」などという範疇があるらしいが、いったい我々の接する選択肢はその諸条件が対称の関係なのか、或いは非対称の関係なのか、こだわりをもって考える習慣を身につけたいものである。 

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② さて何ゆえにこんな話をしているのかと言えば。
それは僕が若かりし学生時代に数学を愛することが出来なかったからそこいらの一橋大学とも結ばれなかったというほんのちょっとの不運を今さら切歯扼腕しているからではなくて…
人間の政治が数学ほどに真面目な条件設定の下には存在し難く、どうしても非対称、ゆえに有権者には不満の残る結果を導きやすいのではないか、と考えたりするからである。
むろん、この旨を指摘している諸説学説など幾らでも在ろうことは承知の上で、それでもバカな僕なりに話を続ける。

ある候補者に対して、有権者は自分の直面している条件に則り、「政治的意思決定の中長期的な権利」を委任する。
だが候補者の側は、有権者に対して「一瞬の多数決の権利」しか委任していない。
ここで、中長期的な意思決定の委任と、一瞬の多数決の委任は、権能において非対称である。

本当は候補者の側も、有権者に対して何らかの中長期的な意思決定権限を委任するようにして欲しいものだ
たとえば ─ 私が当選したら、鉄鋼産業と農業の従事者に国会議員の議席を5つ提供致します、…私が当選したら中年女性たちに国会議員の議席を3つ提供致します、などなど(笑)。
だったらそもそも代議制なんか必要無いじゃないか、というだろうが、たとえばこういう方向へと権能の対称性シフトを追求してみることで、有権者と候補者間における権能の非対称性は調整されていくのではないか。

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③ 尤も、実社会はそもそもどんな主権者、事業者、個々人同士の権能関係であれ、非対称にあるようだ。
たとえばAがBにプロダクツの仕様品質を保証する、といい、BがAにプロダクツの代金支払いを保証する、という。
もちろん、プロダクツの品質保証と代金支払い保証は全く異なる権能。
しかしながら、「責任」というずるい日本語があり、何かといえば相互に責任を負うなどと云う。
が、責任という語の意味が各経済主体の権能に限られるとすれば、相互に同価の責任を負う人間関係は、完全に同等品質のプロダクツの直接交換においてしかない ─ そんな交換行為、論理的に無いだろうけど。

いやー、だからこそ経済活動においては、権能の交換性や流動性の最も高い決済システムが主流なのですよ、つまりカネですね、などという。
でもね、品質も製造工程も基本設計すらも直接保証する権能の無いカネの決済、一体どこがシステムなんだろうか。
むしろ、カネが介在するからこそ、「カネ対それ以外」という具合にどんどん権能が非対称になっていくのではないかしら。 

…なんて書くと、「じゃあおまえは、物々交換の時代が良かったのか?」と気色ばむ人も多いだろうが、僕は「物々交換が良かった」などと過去を理想化しているのではなく、いずれ技術進歩によってありとあらゆる商材が「物々交換で済むようになる」と考える。
遠いとおい未来、だが着実にそちらに向かい、そちらの未来では権能の非対称性も今よりぐっと解消されているのではないかな。
と、ここまで書いてやっと考えがまとまったが、要するに、各経済主体の権能が対称な条件におさまる、とはみなが精神的に納得するということ。

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④ そういえば。
選挙区間における有権者と議員定数の一票の格差が、法の下の平等を損ねているとされて久しい。
つい先ごろの参院選が高裁で違憲判決、かと思えばつい昨年末の衆院選も最高裁の違憲判決のままなされており、これからも国政選挙における事情判決が法理として適用され得るのかどうか問われている。

有権者数と当選議員数の人数比も、なるほど選挙区間で非対称であり、この人数比の格差を選挙区の改編で完全無欠に解決するのなら ─ いっそ全国をたった一つの選挙区としてしまうか、或いは有権者数=議員数(つまり代議制の廃止)とするか、どっちかしかない。
しかし、こんな調整も、どうもむなしい。
選挙区をどのように調整しようとも、上に記した有権者と立候補者の権能の非対称性は解決しない。

以上

2013/11/24

【読書メモ】 生命はどこから来たのか? ─ アストロバイオロジー入門

『生命はどこから来たのか? ─ アストロバイオロジー入門』 松井孝典・著、文春新書版。

アストロバイオロジーとは聞き慣れない学術分野ではあるが、とりあえずは Astro-Biology (あるいは一続きに Astrobiologyと記すほど普遍的な分野か) つまり宇宙生命論の類だろう ─ だからきっと難度の高い本に違いない。
…と想定しつつ、今夏に出たばかりの本書を手にとって読んでみたところ、化学や物理学についてのやや専門的な記述もさることながら、なんといっても引用されまた展開される個々の論理そのものが実に理知的、これだけの「密度の濃い」コンテンツが廉価の新書版で出ているとは。

本書の著者の松井氏は、ひろく宇宙も生命も(人間の文明でさえも)システム系として探求を継続されている第一人者として知られる。
本書のベーシックスとしても一貫されているであろう、これらの「システム」について、その本源的な意味(つまり科学)まで理解しようとすれば、諸要素について相応の知識が不可欠だろう。 
それでも、一定以上の素養さえ有れば、どの年代職業の読者がどこから読んでも存分に「思考の冒険」を楽しめるのではないか。
(さらには、多くのSF仮想世界にみられる一見大胆なヒラメキにしても、それらの源泉を本書引用の宇宙生命論のうちに再確認出来ようか。)
但し、第4章の以下の項目あたりから、少し込み入った化学や物理学の素養を問う内容となってくる。
「生化学反応」「代謝経路」「同化反応」「異化反応」「高分子」「エントロピー」「エンタルピー」「自由エネルギー」「古細菌」「真正細菌」「真核生物」「塩基(コドン)」などなど。
これらはいずれも、著者によれば生命現象を理解するのための基本的な知識とのことだが、これらのタームを学術的に捕捉出来そうもない僕のような科学素人の皆さんには、第1章、第2章、第3章の読解をとりあえずはお勧めする。

さても、本ブログにおける読書メモとしては、これまで通り僕なりの要約に留まるところご容赦頂くとして、本書における第1章と第3章の内容のみを集約し、かつ、宇宙における生命存在の必然性を明かしていく仮説論証プロセス紹介がずば抜けて面白かったので、そこに力点をシフトしつつ以下僕なりに総括し措く次第



(1) 宇宙における(なんらかの)生命の誕生が偶然であったのか、それとも宇宙における必然であったと捉えるべきであるのか、深遠な問題である。

たとえば、生命の誕生はこの宇宙における寂しい偶然に過ぎなかった、という論拠。
これまでの生命の遺伝子における核酸分子の配列からみて、それにピッタリの分子生成の確率は限りなくゼロに近い、というもの。
たとえ宇宙の広さや137億年の時間を考慮したとしてもこの確率は限りなくゼロに近い、ゆえに生命の誕生は偶然といっていいと。

パンスヘルミアという学説があり、これは地球の生命が宇宙からもたらされた、とするもの。
生命が宇宙の「どこか」で極めて偶発的におこったものに過ぎない、との前提による。
なお、この学説を逆にとれば、たとえば地球からの宇宙船に付着した微生物が宇宙に運ばれても、それら微生物が火星や土星衛星タイタンなどで生き延びる可能性があるといえる。

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(2) 一方で、生命の誕生は宇宙の必然的な経緯であり、だからどこでも起こり得る、という論拠。
たとえば、地球生命の核酸の分子構造は、隕石における有機物質と立体的構造が異なっている。
またコレステロールは、同じ分子式でも立体構造は256通りが考えられるというが、地球の生命はそのうちたった1通りしか使っていない。
こうして生命素材の在り様を考慮するならば、その材料物質が(我々のまだ知らない)宇宙のどこかに在るということにもなる。

宇宙の進化の無機的な過程のどこかで、アミノ酸や核酸などの材料分子が頻繁につくられ(化学進化)、それがたまたま地球のような天体では特別な選択効果が機能して生命細胞の構造となる(生物進化) ─ という見方もある。
尤も、両方とも地球で起こるともいえるし、さらに、宇宙に地球のような天体がたくさん有ったなら両方ともたくさん起こりうるともいえる。

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(3) アストロバイオロジーは、地球を含めたあらゆる宇宙の環境や天体を「システム」として捉える。
むろん、システムとは、複数の要素の関係性によって動的な復元や平衡が維持できる系のこと。
システムとしての天体にこそ、システムとしての生命が在る。
地球上で確認出来る生物の代謝反応を確かめれば、我々生命というシステムが宇宙システムと切り離せないことは明らか。

光合成など(炭酸同化反応)を単純化すると、植物葉緑体が太陽の光エネルギーを吸収し、水や二酸化炭素と反応してADP(アデノシン二リン酸)とリン酸をもとにATP(アデノシン三リン酸)が合成され、そのATPに「蓄積される」エネルギーからグルコース化合物の合成が行われる。
一方、動物細胞の呼吸(異化反応)を単純化すると、この植物葉緑体が生成のグルコース化合物が酸素によって分解され、二酸化炭素と水を生成する、かつ、この過程で「取り出される」エネルギーによってやはりADPとリン酸からATPが作られ、取り出されたエネルギーがそのATPに「蓄積され」、それが少しづつ生命活動のエネルギーの源泉となっている。
呼吸など異化反応において細胞内の複雑さが増し=秩序が減り、これは熱力学第二法則に則ればエネルギーが減ることを意味しており、よってエネルギーが常に必要とされる。
また、一度に爆発的な燃焼が起こらないようにATPがエネルギー を徐々に蓄積している。
(…以上が本書に要約されている生命とエネルギーの初歩解説 ─ と思うが勉強不足の僕にはあんまり自信無し…とりわけ、エネルギーをATPから取り出すとか逆にATPに蓄積とかいうところがどうも分かりません。)

つまり、太陽光線エネルギーも同化反応や異化反応における物質も、宇宙システムから独立したものとはいえない、だから我々生命システムと宇宙システムは同一の系にあるといえる。

宇宙も地球もわれわれ生命も、全体が(或いは一部が)連環した「必然的な」システムである、との解釈からすれば、たとえば地球上の恐竜を絶滅させたとされる天体衝突にしても、地球の「応答システム」が機能したがゆえにこそ、地球は長期復元し…だからこそ現在の我々の存在に必然的に至る、と理解出来る。
(じっさいに天体衝突は宇宙ではいくらでも起こっている。)

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(4) 生命の存在は宇宙の必然である、とする論拠としては、いわゆる「人間原理」もある。
「人間こそが宇宙を認識し、観察、記述し、宇宙の形も大きさも年齢も進化の法則も定めてきた」、そして人間の計算(アインシュタインの宇宙係数など)に則ればこそ、人間が観測する宇宙が存在しているといえる
─ のだから、宇宙はわれわれ人間のような観測者(計算者)を生みだす「ように出来ている」はずである、という。

ただし、これらは「人間自身の尺度」に限定した上で、たまたま人間が知っている宇宙について論じているに過ぎず、仮に「思弁的に捉えて」他にも宇宙が存在するとするのなら、そこではわれわれ人間の現行の尺度は「普遍的な意味」をもたない。
と、すると、宇宙が我々人間に至る生命進化を必ずもたらすとは断定出来ない。
実際、精度の高い観察に依れば、現行のわれわれ人間の宇宙定数は厳密には完結しない ─ つまり他に宇宙があってもおかしくないということになる。

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(5) 微生物(細菌およびウィルス)の多くは、地球のどのような温度、圧力、乾燥度、水素イオン濃度、放射線環境においても生存する適応性を持つ。
地球どころか、どのような惑星環境においても生き延びうる、とされる。
ゆえに、生命がどこで本当に発生したのかを判別することは極めて難しい。
いや、それ以前に、我々人類は今のところ地球生命しか確認していない ─ だから宇宙レベルで生命を定義することは出来ていない。
(なお、ウィルスが生命か否か、生命進化との関わり合いは何か、まだ定義は終わっていない。)

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(6) アストロバイオロジーに則れば、地球とは水が地表を循環している「システム」の星、そこに生命が存在する。
ならば ─

火星にも生命が存在してもおかしくない。
火星で堆積岩が既に見つかっているが、堆積岩は水の循環や侵食が無ければ生成され得ない。
また、火星の堆積岩の構造も水の流れを示すものである。
さらに火星の地層からはヘマタイト鉱物の球粒も見つかっているが、この球粒は二価の鉄イオンが酸化した水に溶け込まないよう三価に変わって堆積したもの、よって間接的には火星に水が存在する(した)事実を示す。
火星にはバイオマーカー(生命と周辺環境の相互作用の痕跡)も見つかっている。
また、火星からの隕石には生物化石らしきものの付着が確認されており、地球上の最古の生物化石に似ている。

地球の何千メートルもの海底には、熱水噴出孔があり、その付近に地表とは異なる原始的な生物が棲んでいる。
これは太陽光すら利用しない特殊な生態系である。
ところで、木星の衛星エウロパは木星の周りを楕円形の軌道で周回するが、木星からの巨大な重力による変形圧力によってエウロパの「内部」に熱がおこり、表面の氷の下に「海」が出来ている、とされる。
この「海」が地球の海底と似ているのでないか。

土星の衛星タイタンは、メタンやエタンが零下200℃の環境下でも液体から気化して雲になる。
それが雨になり、川となり、湖となるという循環が既に確かめられている。
つまり衛星タイタンでは、いわばメタンによる循環システムが成立機能していることになり、そこでたとえばリンを素にした生命が存在するのでは、と問われ続けている。

金星の大気中の濃硫酸の雲の中でも、微生物は存在するかもしれない。

以上

2013/11/09

留学するなら

なぜ大学生は留学に憧れるのか。
受け入れ側の国からすれば、日本人学生がホイホイとカネを落としていってくれるので、これはもうホクホク顔でウェルカム、ではあろう。
しかし日本の大学生は、なぜ留学したいのか?
と、考えてみることがある。

日本で育ったのに、わざわざ海外まで出て行っていったい何を学ぶのか、まともな目的意識を持っているのか
─ となると、そういう学生はあくまで特定の技量分野に限定されていること、当たり前である。

日本で育ったその自己の知識能力を全否定して、海外の先進国で人生のすべてをやり直したい、という学生がいるものか。

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いや。
日本が我慢出来ないから、海外に出て行くんだ、日本人としての人生を捨てるんだ、それが留学の目的なのだ、としよう。
それならば、むしろ留学だけでは足りない。
将来的には現地に「帰化」するくらいの心構えが欲しい。
そこまでの本格的な覚悟が無ければ、現地の人々と同等の人間になることなど出来まい。
つまり、日本脱出が目的の留学であれば、留学自体が目的ではなく、将来の帰化のための手段と措くくらいで丁度いい。

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いーや、そんな暑苦しい志なんか無いんだ、どこまでも日本人としての自己を貫いたまま、海外に居住すればそれでいいんだ ─ 
というのなら、そんなのは自らが新規の技量を生み出すにあらず、あくまで日本と現地で二股をかけての「情報交換媒体」を自ら任じているに過ぎず、つまりは既存のビジネスの経費節減プレイヤーに過ぎない。
それなら、むしろネットを活用すればもっと経費節減になる。
わざわざ現地に居住する必然が無い。

そんな経費節減プレイヤーを自身のキャリアの売りとするのなら、それもまた確かに効用は期待されよう。
だから就職時に若干のアピールにはなる。
が、しかしそういうコストカットのスキルだけでは、海外オリジナルの異種スキルを獲得したことにはなるまい。

(じっさい、経費節減の能力を買われてヨーロッパ駐在してきた人も多々知っているが、現地の「産業センス」に欠如しているためか、€と£をしばしば間違えて周囲を迷惑させたり、と、お粗末な人も多い。)

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少し話をスライドさせるが。
超大手の受験予備校が、海外在住の日本人学生の学力増強を図っている云々と喧伝している。
そういう学生の教育担当者を募集中、とも。
ほほぅ、と、ちょっと興味を惹かれたので、そこの教務担当者と面談したことがある。
さて。
そういう海外在住の日本人学生が、大学に進学後、どういう技量をもって、どのような就職進路を選択しているのか、…と訊くと。
いやいや、そういう出口調査など「全くしていません」、それ以前に「出来ません」、とのこと。
これは喧嘩腰の口論の末に聞き出しており、向こうさんも相当ムキになって、「出来るわけないでしょう!」などと主張していましたから、多分真相でしょう。

近く、今度は留学斡旋の業者をヒアリングしてみるつもりだが、どうも似たような回答しか得られないような気がしている。
つまり、「海外育ち」の学生が既存の実務上のコストカットの効用を有する、というくらいのことはこういう業者にも分かるのだろうけれども、その学生が新規に何を生み出し得るかとなると、以上のことは知りようがないと。

以上

2013/11/07

世界史科を抜本的に組み直したい



① 古代ギリシアを代表するポリス(都市型国家)として知られる、アテネとスパルタの比較論。
アテネは民主主義で世界史の本道をいき、スパルタは侵略型で世界史の亜流であった…というのが、従来の世界史教育が押しつけてきた先入観だろう。
しかし、アテネは概してカネカネカネで外部との交換効率化をはかりつつ、多数決を常に最優先とし=美しく表現すれば民主主義に則っていた。
だから、主流派と称して万物の所有を独占する市民と、異端派とされて所有から占め出されたであろう非・市民(奴隷)がいつも対立していた。
それは共和政ローマの歴史、近世イングランドやネーデルラント、また独立戦争から連邦形成までの合衆国の歴史パターンにそっくり。

一方で、各市民がひとりひとり、自己の資産を独立自尊で守りぬくとしたスパルタの方が、むしろ非・市民(奴隷)は少なかったという。
それは内戦期を卒業して価値と武力の一元化を進めたパックス=ロマーナ、パックス=ブリタニカの時代に通じ、現在までのアメリカによる平和的な世界制圧にも通じる。
さらに、オスマン帝国や江戸幕府にも通じる。
だから我々は、スパルタの方に美学や郷愁をおぼえても、おかしくはない。

なんだそれは?融通の利かないスパルタ型文明は外圧に屈して滅びたじゃないか、徳川幕府が外圧で倒れたのだって同じじゃないか
…というだろうが、しかし外圧に屈して衰退したのはアテネ型の文明も同じ。
むしろ、アテネ型の文明が内部抗争と外圧によるダブルパンチでコスト増大し、それで内部崩壊してこそ、残った強者たちがスパルタ型文明を構築して強靭な長期安定に移行していく。
いわば、スパルタ型の文明は大きくガッチリと型にはまったギアであり、アテネ型の文明はそのギアチェンジの過程でしかなかったのでは?
─ というのが僕なりの考え方である。
(ついでに言えば、中華文明圏などはほとんどの時期でスパルタ型の長期安定文明に移行出来なかったところに悲劇性がある。) 

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② さて、ここでちょっと面白い思考実験をしてみよう。
たとえば ─
「もしも」現在のテクノロジー(マテリアル)が古代ギリシアに存在していたのなら、それを活用して勝者になったのはアテネであっただろうか、それともスパルタだったであろうか。
きっとスパルタだろう。
アテネではビジネスは発達しただろうが、テクノロジーを使いこなすことは出来なかったに違いない。
だが、古代ギリシアにおいてそもそも現在のテクノロジー(マテリアル)が存在し得たであろうか。
…もっとも、この仮説が正しいかどうか、従来の世界史科では模索のしようがない。

そんなこと、想定して何になるのか、何の成果があるのか、と反論されることは百も承知の上。
だが、それでも言いたい。
歴史の勉強における本当の意義は、「ある時代のある領域・民族において、何が必然であり、何が偶然であったのか」を見極めること
つまり、「論理的な可変性」の模索である。
もし、すべては必然であったのだ、(だから、たとえばアテネの歴史が世界のベーシックデザインとなったのだ) とするのなら、世界史などいちいち勉強する必要が無いのですよ。
分かりますか?いや、このくらいの理屈は分かるでしょう。

この「論理的な可変性」は、「多様性」の尊重とは異なると考える。
どこかで書いたことの繰り返しになるが ─ 
およそ高校教育の社会科は、いわゆる多様性を価値観という美辞麗句で礼賛している「ように見える」。
しかしなにが必然的な現実で、なにが偶然の作用であったのか、そこを見極めずして、価値観もその多様性も検証する意味がない。

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③ それでは、少なくとも学校で教える(そして大学進学で問われる)世界史はどうか。
その学習において、「論理的な可変性」の追求が顕在化されていない。

たとえば、民主主義こそ世界史だ…という必然論をおくのなら、民主的とは見做されていない中国が世界経済の躍進者だ、とはどういう意味か(真実といえるのか)。
また法律の歴史についてほとんど教えていないのは何故か?

市場経済こそが世界史だ…という必然論に沿うならば、産業と貿易と金融と人口論についてアングロサクソンまわりしか触れていないのは何故か?
それ以前に、富、経済、生産、会計、産業についての定義が世界史教育で全く為されていないのは何故?
(かつ、資本主義という言葉だけが近代以降の悪徳の権化のごとく定義されているのも妙だ。)

科学技術こそが世界史だぞ…というならば、我々は利便性と衛生と暴力をこれすべて科学技術「のみ」から突然獲得したことになる。
が、科学技術の進展において地域差が発生し今も厳然と在る理由をどうして説明しないのか?
それに、数学や錬金術や料理や衣服や武器の進歩についてほとんど記述が無いのもおかしい。
(英語の入試問題ではこれらについて幾らでも出題されているのに…。)

いやいや、道徳と文化こそが世界史の根源だ…というかもしれない、それに本当はこれが真相のようにも考えられる。
が、道徳と文化こそが人知の最も根源的な必然であるならば、どうしてある道徳や文化が普遍し拡大し、別の文化道徳は黙殺され退廃消失していくのか?

「全てには何の意味も方向も無かったのですよ、我々の祖先たちは皆が天使でありまた罪人なのですよ、世界史は不条理に嘆息するための学問なのです」 などと教えてよいはずがない。
人間性の短期的な、あるいは長期的な不条理の属性については、学校ではなく、実社会で学ぶべきであろう。

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④具体的には;

(1) 道徳と文化の歴史
(2) 生産技術と科学の歴史 (地理科と連携)
(3) 市場と国家の歴史 
(4) 法と権利の歴史
という4本立てで、歴史の各フェーズを(1)→(2)→(3)→(4) というオーダーで学べばよかろう。
このオーダーこそが、必然的な要因→偶発的な事象という可変性の追求に則っていると考えるからである。
さらに、このような歴史の章立てを再構築すれば、それぞれ頭にも収まりやすいだろうと考える。

一方で、現行の世界史科の教育は…
まず(4)を絶対的な必然(正義)と教え、それに基いて(3)がありうるとし、だが(2)とのつながりがほとんど明らかにされず、まして(1)となると全く別範疇の扱い。
つまり…まず法と権利が人類の絶対的な必然であり、そこから幸運にも交換市場と経済規模拡大が生み出され、一方では何か突発的に科学技術が生じ、さらにほとんど無関係に道徳文化が生じるということになる。
アテネの歴史概略など、まさにそのように説いているではないか。


もちろん、何が必然的な要件であり、何が偶然の展開であったのか、ここに記した私案に則れば必ず判然とする、とは言わない。
歴史は可変性についていろいろ思案を巡らせるための学問であろうから、その必然と偶然の組み合わせはもっともっと多岐に亘る現実データを捕捉しなければならないだろう。
だから、今回の結論として ─
世界史という教科は、理科や地理や宗教や政治経済から切り離された学習分野としてはならない。

以上



2013/10/25

おでこ美人

僕の勤務サイトは複数だが、そのうちの一箇所、受付事務の女性にかなりの美人がいる。
とにかくパッと見て美人そのもの、チャーミングという形容詞もぴったりあてはまる。
とりわけ、額から目にかけての絶妙におどけた造形、それは小憎らしいほどのホンのかすかな減点ポイント。
客観も主観も超えた人の世のよろこびそのものである。

そんな彼女について、僕が面白がって「おでこ美人」などとふざけた呼称を発案し、他の職員たちとゲラゲラ笑っていた
─ のだが、しばらくするとなぜか学生たちがこの女性を「でこちゃん」などとあだ名を付けていたのには、ちょっと驚いた。
それどころか、「でこちゃん」呼ばわりしたのはどうも僕が発起人であるがごとくの誤解もあるようで、なんだか気まずくなっている。

それはさておき。
美人を大別すると魔女タイプ、女神タイプ、かぐや姫タイプがいるようである。
これは人種民族を問わずそうであって、ではなぜその3種類かと言われても、説明のしようがない。
美人は分析ができないからこそ美人なのである。
なぜ、美人とそうでない女性がともに存在しているのか、それは覚えやすい音楽と親しみにくい音楽があるに似ている、と考えている。
楽しさ満点の共感覚とでもいうべきか。
いや、とくに男の躁状態や鬱状態と何か関係があるのかもしれない。

最近は鬱病を「うつ病」と描写するケースが多いようだが、なぜうつ病になるかといえば、なにかのきっかけに「うっ!」と硬直して、それからうつ病になるんだよ、アハハハ…などと笑っても、その場に美人がいれば誰も不愉快にならない。
いや、実際のところ、美人がいれば男がうつ病になどなるわけがない。
「ああ、この書類、重たいわぁ、ねえ山本さん、ちょっと手伝って」なんて頼まれようものなら、もう全力疾走で階段を駆け上がるくらいなんでもない。

僕はうつ病がどんなに辛いか知らないので、面白半分に書いているのだが、しかし、ここから先はちょっと真面目に。
うつ病は、走れば治る、と考えている。
2km、5kmと走っているうちに、もやもやした思考などは吹っ飛んでしまい、ただ苦痛と爽快感だけが全身にガンガンと拍車をかける。
その肉体感覚「だけ」が現実になる。
俗世の論理などは俺以外の誰かが考案した虚構に過ぎない、これこそが我が身の現実だ、人生の全てはハードウェアだ、と体感した時
…それは極端に例えれば恐怖と苦痛を克服しながら数ラウンドを懸命に戦い続けるボクサーや、自己記録更新をかけて必死に泳ぎきるメダリストスイマーのリアリズムのごとし、今だ、今このとき、今しかない、今が全て…と僕なりに想定してみたりする。

そんな息せき切った僕を、どこかの美人が遠くからそっと見つめている、などと思えば、そういった奇蹟の星座がもう楽しさバツグン、極上の幸せ者になれるじゃないの。
それどころか。
実際に、すべての女性が美人に見えてしまう!
とにかく、気持ちが沈んだ時は、腹一杯喰って、よく寝て、それから走れ、それが一番。
おのが内から、新たな変化が湧き起こる、それは頭で考え続けても出てこないこと。

フン、あんたはちょっとバカだから、そうかもしれないが、そうでない優秀な人たちだって居るんだよ!と叱責されるかもしれぬ。
でも、そうやって論理的に峻別するから、よくないのだ。
若い連中がちょっとしたことでつまづいても、すぐに回復するのは、若者がバカだからじゃなくて、いつも、どれもが一度限りのリアリティだからでしょう。
一度かぎりのリアリズムに、論理などない。

以上

2013/10/13

大学入試に関して、どうしでもどうしても言いたいこと


以下に記すは、普通の教育産業人はあまり考えつかない(かもしれない)ことを、世の普通の大人として常識に則ったつもりで雑記したもの。

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① 国公立大学が二次試験(つまり各大学での一斉ペーパー入試)を5年後には廃止する主旨云々、と報道機関の記事にある。
また既に、(慶應や早稲田のように)センター試験併用の廃止にシフト済の大学もある。
この一斉ペーパー試験やセンター試験などの廃止プランに対し、学生の学力が低下するに決まっているなどと執拗に反論する人たちも居る。
それならば、従来通りの一斉ペーパー入試の継続によって学生のどういう知力を維持するつもりなのか、そして大学側にどういうメリットが継続的に期待出来るのか
…となると、これにはまともな説明は無いようだ。

一斉ペーパー試験方式でないと、選抜の客観的な正当性が失われてしまう、などという反論もあるようだが、しかし大学にしても受験生にしても人間同士、突き詰めれば双方の"なんらかの知的な相性"で合否を決めているに過ぎない。
だから選抜試験には本来的に「客観的な正当性」など無い。
それが有るがごとしの虚構に便乗して、似たような一斉ペーパー試験に頼りきっていては、点数の序列化という一層の虚構に嵌っていく一方だろう。

もともと、大学は自校が欲する適性・能力の人材こそ入学させたい「はず」である。
だから、「各大学ごとの独自の方法」による入学審査こそが本来は当たり前のこと。
そういう積極的かつオリジナリティの高い入学審査が出来ず、一斉ペーパー入試に頼りきりというこれまでの大学の在り方の方が、むしろおかしかった。
(まして入試問題を外部業者に作成委託している大学はもっともっと奇妙だった。) 

さて、実際に各大学が「独自の入学審査」を実施するとなると、「大学側での諸コストが増大する」「そんなこと出来っこない」、という。
が、これはいよいよおかしい。

日本の大学は、「学費闘争」について(少なくとも最近は)ほとんど聞いたことがないから、どこも一応はペイしているように見受けられる。
これを世の大人たちの市場サインとして見れば、「大学にカネを回してやるから、まともな学生に育てて寄越せ、その程度の余裕は日本人の大人にはあるんだぞ」、ってことなのだ。
そんなふうに、日本の大学は市場経済に身をおいてなんとか運営してきたはず…それにも拘らず、独自の入学審査を行うとなると「費用負担が増すから実施出来ません」、とはどういうことか。
その分、学費を上げて何とかすりゃいいでしょう。

なるほど、大学は市場経済では動かない、株式会社でもない、だって大学は産業ではないからさ ─ という見解も聞く。
市場経済では動かない、っていうのなら、なおさらのこと、各大学は独自の力量をもって強引にでも市場を動かしなさい。
世の中の産業界にも官界にも、卒業生がたくさん居るでしょう、その人たちの支援も得つつ、自校の存続を賭けて独自の入学制度を構築すりゃいいじゃないの。
そういう手段に打って出ることが出来ない大学は、要するに実質・実体・知性いずれも無いわけだから、消えて無くなって当然。
…というのが世の大人の常識である。

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② さらに云いたい。
大学進学希望者にとって、意中の大学から誘われ、お願いですからうちに入学して下さいと請われて入学することこそ、一番の名誉だし、一番幸福なことである。
でも多くの進学希望者は、うちへ来なさいなどと請われるわけではなく、一発評価のペーパー試験を経て無理矢理に大学に入り込もうとしてきた。
大学進学希望者のみなさんは、こういう従来の現実を「あたりまえ」だと考えてはいけません。
本当は、自らを誘ってくれる大学に行くべきなのですよ。


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③ さて、いわゆる教育産業界について。
本当に皆がいつも真面目に仕事しているのだろうか。
たまたま最近気づいたことがあるので、ちょっとだけ例を挙げて記す。

ある大手予備校筋の社会科の参考書にて。
1929年のアメリカ大恐慌の原因は企業の「過剰生産」による、等々と記してある。
この箇所は、総じて理解すればけしておかしなものではないのだが、どうも「面白い表現」である。

まず企業というものは、「過剰生産しないように」、常に需要を鋭敏に察知し、製品の販売価格と数量において常に自らが有利になるよう、販売数量も生産数量も随時調整しつつ経営している。
なるほど、農産品を生産する農家の場合には、農産品の生産や販売の調整が実に困難で、大幅な損失を出すリスクは常にある。
だから農家の損失を救済すべく、政府が最低購入額を設定したり補助金を出したりする、これも世の常。
フーヴァー大統領やローズヴェルト大統領に限った話ではない。
ともあれ、工業も農業も、利益が最大となり損失が最小となるよう経営者(や政府)が常に意図している
─ したがい、過剰生産というのはどこまでも「結果論」でしかない。

ところが一方で、企業の株式市場においては、投資をトータルに制御する人間など普通は居ない。
だからちょっとした株価値動きでも、たちまち市場の不特定多数の投資家が反応し、或る企業の株式が急上昇したり急降下することはある。
さらに土地資産への投機が過熱化するのも、これまた世界史の常。
こういう経緯から市場のカネ回りが鈍化し、製品への需要が減ってしまい、一方では非自発的な失業者が増えた、がこれらは従来の政策で復旧しうる事態ではない。
─ ここに至って「結果的に」企業の過剰生産という現象が生じた。
(そこでケインズが…)

…と、少なくともここまで記さないと、自由競争経済圏の社会科教育としては不十分ではないかと考える。
もっとも、本参考書の著者に対して文句など無い、それは本書では随所に「なるほど」と閃かせる知的コンテンツも見いだせるからだ。
(だから書名は明かさない。)
むしろ、教育産業やそれら出版社に対して、もっと真剣に仕事して下さいねといいたいわけ。

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④ 似たようなおかしな記述は、他の教育産業においても頻繁に見出すことが出来る。
たとえば。
マーシャルプランと、NATO(北大西洋条約機構)成立と、東西ドイツの成立と、朝鮮戦争。
或る中堅予備校の社会科、いわゆる早慶入試と銘打ったテキストにて、「これらの年号くらいは覚えておこう」とある。

バカ言っちゃいけないよ、年号から入るべき事項じゃないんだよこういうのは。
マーシャルプランもOEECもGATTも、東西ドイツ分割占領下で西側が自由競争経済システムを保持すべく遂行したこと、そして西側占領ドイツでの通貨改革に対するソ連側がベルリン封鎖してCOMECONを組織。
それからNATOが成立した「から」、ドイツが東西両国に分離したまま主権回復したんでしょう。
そこでヨーロッパにおける東西の直接的な激突が膠着してしまった「から」、今度はアジアで東西の武力衝突を引き起こした、それがソ連を外してでも国連を踏み切らせた朝鮮戦争だと見るべきでしょう。
(さらに東西の直接対決として、スエズ動乱、キューバ危機、ベトナム戦争へと続くんでしょう。)
年号を覚えるのは、こういった一連の展開を理解してから。

…と指摘して差し上げても、聞く耳をもたないようで、そんなだからいつまで経っても最大手に仲間入り出来ないんだぞ。
(これから予備校選びを進める学生たちは、世界史や政経の教材をチラッと見せて貰っては如何かしら。)

こんご予備校がどうなっていくか、今はまだハッキリとは分からない。
が、大学と同様、強力な他校に便乗しつつお粗末なサービスばかり展開しているところは、まあ消えて無くなっても仕方ないだろうなあ…
と、ボンヤリ想像している。


(続きはまたその気になったら。)

2013/09/22

入試英語の学力を必ず伸ばす方法

なんだか、もう聞くに耐えないデタラメが英語教育に横行続けているようで。
しかも昔からずーっと改善されていないようで。
まったくもって安易であり、横着であり ─ つまりはぜーんぜん頭を使っていないようである。
以下にまとめてコンパクトに反論しつつ、僕なりに考えるまともな頭の使い方を記す。

==============================

① SVOCで文章を類型化しても、英文解釈とはならない!
とにかくヴォキャブラリーを増やせ!

まずは、ちょっと飛躍するようだが、以下のような化学式について考えて欲しい。
(化学式そのものを理解出来ようができまいが、ここでの引用の意味について無理やりにでも理解して欲しい)。
NH3 + HCl NH4+ + Cl-
「ハーイ、これは配位結合式ですね、おわり」
…という具合に、これで1つの命題解釈は終わる、かもしれないが、実際の化学の論題はそんなものではない。
そもそも NH3 とは何か、HCl とは何か、そして NH4+ + Cl- とは何か、どういう電子対にどういうイオンが配位結合したといえるのか、といった科学的属性によってこそ、イオン反応が決まっている。
しかしながら、イオン反応の類型によってこれら化合物が決まるわけではない。
更に実際の論題は、これら化合物のイオン反応に則った引用や実証例が挙げられたり、展開論が転々と演繹されたり、疑義反論が挙がったりして、一応の総論に至る。
だから、NH3 やHCl の属性について知らなければ、「これは配位結合式」などと類型パターンを覚えたところでどうにもならない。

…と、ここまでふまえて。
さあ今の引用についての英文解釈を考えてみる(とはいえ、ここは僕なりの強引な英作文)。
Ammonium has its own redundant lone-paired electrons neutralised with outer positive-ionised hydrogen, which in turn form coordinate-bonded molecule composites as of NH4+ ... .

こうやって英文にしてみると、早速またまたSVOCを持ち込む先生が多いんだね。
「はい、いいですか~、Ammoniumが主語(S)で、hasが動詞(V)、neutralised はhasを受けて分詞になってますね~、positive-ionised はhydrogen を修飾してますよ~、formもまた動詞(V)で~、molecule compositesが目的語ですが、この場合はそれ自体がそうなるのですから目的補語(C)といってもいいかもしれませんね~」
いったい、こんなふうに文章の類型回帰をいくら続けたところで、それで英文の何が理解出来るというのか。
こんなもの英文解釈の講義でもなんでもない。

これらのneutralise, ionise, cordinate, composeという動詞、およびammmonium, electrons, molecule, hydrogenといった名詞、これらの限定的な意味の合算によってこそ、この文意が成立している。
それをいちいち動詞だ目的語だと類型回帰するのは、文意の無機的な分解でしかない。
まして、これらヴォキャブラリーの意味を知らなければ、現実的な英文読解の論説文についていけるわけがない。

では英文法には意義が無いというのか!と気色ばむ人もいるかもしれないが、そうは言ってない。
ここでは、英文法そのものがヴォキャブラリーによって決まるのだ、と念押しをしているに過ぎない。
とにかくヴォキャブラリーを増やしなさい、類型化で誤魔化して逃げるのはやめなさい。
学生たちへ、というより、これは英語教育に携わっている全ての人たちへのお願い、無意味なトークでカネを取るのはよせ。

==============================

② 読解の速度を上げることを心がけよう。

化学式でも、経済学でも、簿記でも情報処理でも、そして外国語の理解においても、接する上での適度な速度というものがある。
入試英語の文章くらいになると、普通以上の思考速度の人が書いたものだと考えた方がよい。
だから、出来れば執筆者に近いスピードで読解出来れば素晴らしい。
それを、SVOCなどといちいち類型回帰ばかり熱心に、ゆ~っくりゆ~っくりと、常人の意識の数倍もの時間をかけて読んでいてはいけない。
相撲やボクシングやサッカー中継をとてつもなく減速再生するがごとしで、何やってるのかまともに理解出来るわけがない。
(敢えてゆっくり、ゆっくりと解析してメリットがあるのは、きっと学術論文や法律における「解釈論争」の時くらいだろう。) 

速く読解するポイントは、たった一つ、ヴォキャブラリーを増やし、文意ひいては文脈を確実に捕捉すること。
そしてこれには効用が十分にある。
①に記したとおり、ヴォキャブラリーの組み合わせによって文意は決定される ─ つまりは、「ヴォキャブラリーには用法の相場というものがある」。
文章を速読することで、その相場を実感することが出来るようになる。
ちょっとヴォキャブラリーを目にしただけで、「あぁこれは途上国の政策と利害損得についての論説だな」という具合に、読解の心構えも定まってくるもの。

もちろん、あらゆる英文読解がそうとは限らないが(一橋や東京外語大の出題のように主題を掴みにくくイライラさせる英文もあるが)、そこを我慢して読み進めるだけの忍耐力も、速読力によってこそ培われるものである。

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③ 英語は博学のツールである。
少なくとも英文解釈に理科系と文科系の分類などないので、一切意識せず、日頃から広範な学識に触れること。

英語はおもに科学技術と戦争とスポーツとビジネスと司法で発展してきた言語であり、したがいあらゆる実在を対象として、論説を進めるツールである。
あらゆる実在を対象とする以上は、その対象物は結局のところ、(日本人のいわゆる)理科系分野が対象とする素材や現象となる。
ゆえに、英語の動詞も理科系のコマンドがほとんど。

大学入試だけが英語学習の目的ではない
 ─ それはその通りだが、しかし博学的な見識を広めるツールとして、入試英語はけして無駄ではない。
その一方、英語教育において理科系とか文科系と分けたがる人たちには何ら論拠は無いように察せられる。

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④ 英作文は、おのれの最も使いやすい名詞と動詞をまず据えることで、論理的にまとまった英文が書きやすくなる。

採点者は英文法と語法の正確さを見るのですよ、という。
それはもちろんそうだが、しかしそれだけなら個々の箇条書きで済まされるものに如かず、着想力を見極めることにはならない。
特に女子に多いのが、バラバラな表現をほわんほわんとくっつけ合わせる技法。
個々のディテールは丁寧だが、全体としてパンチの効いたシンプルなメッセージとはなりにくい。
(床屋で女性の理髪師に切ってもらうと、実に細やかに、そしてやさしく丁寧にカットしてくれるが、髪型としてはあまりインパクトが無い ─ それに似ている。) 


ここで、ふと思いついた【例題】 ─ 以下の日本語を英訳しなさい。
『今日は休日で朝からプレステの野球ゲームにふけっていたら、いつの間にか日が暮れており、シャツを干すのを忘れていた。』

最初から一筆書きで文章をつくろうとすると、途中で時間の前後関係や事態の因果関係が循環してしまい、あるいはバラバラに乖離してしまい、どんどん書きにくくなる。
まず、誰が、どうする ─ この「どうする」を具体的に思いつくまま書いてみる。
そこで思いつく動詞が名詞とのコンビネーションを決め、時制も不定詞も態も決める。

(1)今日は休日「であった」…すぐ思いつくのはbe動詞、だがenjoyを使ってもよいし、spendを用いても悪くなさそうだ。

(2) ゲームに「ふける」…spend, be engaged in, forget, enjoy, drown などを思いつくか。
そうすると、たとえばこんなフレーズが出来る。
I spent hours in Playstation baseball games.
I have been engaged (caught) in baseball on Playstation gadgets.
I forgot hours passing by while I enjoyed Playstation baseball.

(3) 「日が暮れる」…こちらはあまり思いつかないが、set, end, go down などをひらめくか。
The sun already set.
The sunshine went down.
The daytime ended.
It was already late evening when ...など。

(4) 次に、シャツを「干す」…dryが妥当だが、exposeも使えそうだ、もっと大胆な動詞用法でairというのもある。
それを「忘れた」のだから、たとえば。
I forget to dry my shirts.
I missed chance to air my wet shirts.
I regret I didn't expose my wet shirts to sunshine.

以上のごとくパラパラとひらめいた(1)~(4)を、ササッと問題用紙にメモれればよし。 
いよいよここからが、自己流の着想力の見せ所。
ここで動詞同士の最適な連結を図る、と、たとえば(1)と(2)でともにenjoyやspendを起用していることに気づく。
それならば、Today I enjoyed my good holiday hours on Playstation baseball games.
(3)と(4)もくっつけると。
Today I enjoyed my good holiday hours on Playstation baseball games, "so" I forgot to dry my shirt "before" the sun set.
これが一番わかりやすい時系列。
ただ、 ここでは「干す」と「日」は因果関係そのものなので、それらをまとめてもっと洒落た表現だって出来うる。
Today I devoted myself to Playstation baseball game until the late evening, when I noticed I missed my holiday chance to have my shirts "dried in the sunshine hours".

ちなみに、Playstation と baseball と game という名詞をズラズラっとぶっ続けで一つの名詞としても構わない、いや、むしろその方がいい。
名詞を捻出するさいは、フランス語などのような"A of B"の型はあまり使わない方がよい。
その理由は、ofでズラズラと連結すると、何が何に含まれているのか或いは同等なのか、だんだん判然としなくなるからである。

以上

2013/09/19

ヨーロピアン

なぜヨーロピアンに憧れるのか、というと、それは彼らには「尊厳」と「美学」があるからだ、という。
一方で、モンゴロイドには「尊厳」も「美学」も無いからイヤだ、という。
それが大半の若者の本音だろう。
もしも生まれ変わったら、絶対にヨーロピアンになりたい、という。
僕だってそうだったし。

「尊厳」については、ヨーロピアンにはイザとなったら命を捨ててでも黒を白と言いくるめる頑強な精神性があり、ああこれは、カネによってヘイヘイコロコロと人生を棄てる卑怯なモンゴロイドとはきっと魂の密度が違うのだろう、と考える。
だからヨーロピアンに憧れる。
では、自分はそういう高純度かつ高密度の精神性を持ち合わせているだろうか、と考えると、どうもそんなことはなく、だからイザとなったらヨーロピアンに一方的に洗脳され懐柔されちゃう。
…という思案が働くと、もう「尊厳」は、ヨーロピアンを憧れる理由とはならない。

では「美学」はどうか、といえば、これまたハッキリ、ヨーロピアンの森林も海岸も住宅も、色彩感覚も、言語のアクセントもとてつもなく綺麗だ。
ゴミ溜めみたいなアジアや日本とは、天と地ほどの違いがある。
だからヨーロピアンに憧れる。
しかし、自分がそういうヨーロピアンの世界の一員として骨を埋めることが出来るだろうか、音感も色彩感覚も先天的に違う(ように見受けられる)世界で同じ美学を構築出来るだろうか、と直観してみれば、ああこれは無理かもしれないなとどこかで諦めてしまう。

と、いうわけで。
「尊厳」「美学」のいずれも、ヨーロピアンにほわんと憧れるきっかけにはなるが、最終的な目的とはなりにくい。
にもかかわらず、我々日本人がヨーロピアンに憧れる理由は、なんだろう?
はい、もう分かりますね、それは「消費購買」の意欲。
ヨーロピアンの「尊厳」に迎合し、ヨーロピアンの「美学」をつまみ食いする、そういう「消費購買」の意欲ですね。
「消費購買」だけならば、カネだけでどうとでもなる。
と、いうことは大半の欧米人も分かっているので、「ハイ、ご苦労さん、我が国でどんどんカネを落としていってね」と内心ニヤニヤしているだけです。

やっぱり、欧米に買い物に出かけるのではなく、自身がヨーロピアンから高く高く買われる存在となるべきでしょうね。
先方だって、本音としてはそういう日本人を求めているんですから。
経済はいつも競争、競争では他律的な消費に回っていればいつも損をする、コップ一杯の水に1万円を支払う羽目になる、でも自律的に優れた供給能力をもつ者は常に売り手として有利となる。
だから、ひたすら「供給能力」を高めなさい。

実際のところ、他のモンゴロイドはさておき日本人のテクニカルな「供給能力」は極めて高く、多くの分野で大抵のヨーロピアンを既に上回っている。
だから、ヨーロピアンに対して何ら引け目はないぞ、と、とりあえずは自信満々。
だが、いざ自分が何らかのテクニカルな「供給能力」でトップクラスを目指すとすると、ヨーロピアンのトップクラス連中と激しく鎬を削ることになる。
うわぁ、そんなものとてつもなくキツそうだから嫌だ、やっぱり「消費購買」だけでいいよ
…なんてジジババみたいなこと言ってないで、そこを強い気持ちと激しい感性と深い学識で乗り越えないと。

以上

謝辞

ここに提示の記事は、いずれも私自身の判断責任のもと編集・投稿したものです。

大半の投稿は学生など若年層向けを意図してやや平易な表現にて、通俗性は極力回避しつつ、論旨の明示性を重視しつつ書き綴りました。あわせてまた、社会人の皆様にお読み頂くことも想定しつつ、汎用性高い観念知識を相応に動員しながら記した積もりです。

私なりの思考着想によるささやかな閃きが、皆様の諸活動にて何らかの光源たり得れば、望外の喜びであります。

山本