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東京都立川市出身、慶應義塾大学卒業、某電機メーカ勤務にてソフトウェアシステムの海外プリセールス等を経て、現在は教育関連に従事

2013/01/21

2013年センター試験についての所感


まず最初に。
毎年、センター試験ではいろいろな不祥事が起りますね、カンニングだの、試験問題の中途持ち出しだのって。
不祥事を起こした(起こさせた)連中は道徳とか信用などという観念そのものが希薄なのではないかな。
そんな連中から発せられる、まさか、とか、有り得ない、などというコメントも、どこまで信用していいか分からないし、あるいはそういう不確定性の高い「文化」なのだろう。

…と、まず自身から距離をおきつつ、その上でどこまでも客観者として記してみる。
しばらく以前、ある全国的に有名な個別塾に履歴書を持って応募に参じたことがあったが、その履歴書を学生アルバイトが何枚もコピーしているのを目撃して唖然としたもの。
しかも、その履歴書を出状の際に記した「遊び用」のe-mailアドレス宛に、わずか数日後に妙な金融業者から融資案内のメールが届いたので、「なーんだ、そういう文化の連中なのか」と納得したものである。
秘密保持も個人情報もあったものではない。
今般の政権交代によって、こういうおかしな「文化層」もある程度は是正されるかもしれないけれども…ともあれ、一貫性の無い文化や世界での話、だから事実面の開示を待って事後策を練るしかない。

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それはともかく、昨年同様、センター試験の社会科の出題についてどうしても留意しておきたい事項が有るのでここに記す。 

まず政治経済科の出題について。
国際情勢についての時事問題が出るぞ出るぞ、とさんざ下馬評が立ちつつも。
あけてみれば、エジプトとアメリカとミャンマーかよ。
日本の尖閣諸島は、竹島は、北方四島は??
とくに北方領土問題など、現代史や外交にかかる問題としていくらでも出題出来るじゃないの?
なんでこういう地域についての時事問題を出題しないのか、まったく釈然としない限り。
まあ出題当局がどこの誰に遠慮してるのかわからないが、なんとなく妙な作為すら察してしまい、社会科講師の端くれとして憤懣の念が沸いてきてしまうのである。
まあ、来年に期待するか…。 
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次は世界史だ。
まず世界史Aの第2問、設問Bにて。
「19世紀後半の朝鮮…朝鮮政府は国王の命を受け、漢文による『漢城旬報』を発行し…朝鮮の近代化政策の一環…知識層に広め…
1890年代以降、ハングルを使用した民間新聞が発行され、読者層が広がった。庶民の多くは文字が読めなかったが…」
とある。
さて。
ここでいう「庶民が読めなかった文字」はハングル文字を指しているようにも見受けられる、が、もしかしたら知識層が使いまわしていた漢字を指すのかも知れず、そこが判然としていない。 公表されているソースによれば
─ 李氏朝鮮の名君とされた世宗が定めた訓民正音(1446)は、むしろ庶民の文字として普及。
だから、しばらくのちに世祖が制定した王朝基本法である経国大典(1485)は漢字で記されたくらいである ─
よって本出題における、19世紀末の「庶民」が「読めなかった」文字は、じつは上層知識階級の使っていた漢字であり、訓民正音文字=ハングル文字は庶民もある程度までは読めた、と考えてもおかしくはない。 

さらに。
第3問の問3において。
「20世紀前半、日本は、朝鮮で日本語教育を推進した」
とある。
これは昨年の世界史Bでも出題されたクリティカルな出題コンテンツ。
なるほど出題文そのものは間違いではないだろう。
それにしても、日韓併合期に日本の投資に伴い朝鮮の数多くの教育インフラが整備されたことによってこそ、朝鮮人一般階級に訓民正音=ハングル(偉大な文字)を朝鮮で普及、公式化させることになったのも事実とされている。

以上から考えること。
せっかく世界史の出題テーマとして訓民正音=ハングルを取り上げるのならば、ヨリ総括的に社会階層における諸事情、漢字との関係、および日韓併合との関係までふまえて出題して欲しいもの。
それも、できるだけ学術的な裏付けに基いて、である。
そうでないと ─ あたかも日韓併合で日本語を押しつけたために朝鮮の下層庶民階級の訓民正音=ハングル普及が損なわれた ─ かのごとし誤解を学生に与えかねない。
まあこんなふうに考えるのだが、どうだろうか?

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次に。
世界史Bの第2問、問5について。
「セルビア人はバルカン半島に定住後、ローマ=カトリックを受容した」
という文の正誤判定が問われているが、これは公表された正答によれば誤文ということになっている。
しかし、これも釈然としない出題だ。 

特に今回調べ直したわけではなく、以前から了解してきたことではあるが、やはり広く知られているソースに基づく限り、
 ─ セルビアは概してビザンツ帝国やギリシア正教会の影響を受け続けてきたが、一方で常に現実的な戦略選択力に長じ、セルビアの王がカトリック教皇による戴冠すらも選択するなど、セルビア人みなが一枚岩として収斂してしまうことはなくビザンツ帝国やハンガリーなどの強国と巧みな外交戦略によって渡り合い、独立勢力として存続し続けた ─
つまり、少なくともセルビアの王権としてはローマ=カトリックを受容した経緯もあった、と僕などは了解してしまうのである。
ゆえに今般の出題は大雑把に過ぎるような違和感が残るのである。


以上、もしかしたらどこか誤解や間違いがあるのかもしれないが、そうであるのなら指摘していただきたいもの。

2013/01/19

スポーツ体験と雑感


こうも寒くて、しかも学生たちの多くがセンター試験だのなんだのっていうと、だんだん欲求不満にもなってくる。
それで、大相撲など観ていると、ついつい自分のスポーツ経験について思い出してしまう。

スポーツ経験、とはいっても、そんな激しいキャリアはないよ。
いろいろ、ちょっとかじったくらいだ。
とりわけ格闘技だが、乱暴でクソ度胸があってしかも無慈悲な本格派の格闘連中と戦ったら、叩き殺されてしまう。
そんな荒っぽい経験は無いよ、周りにはそういう人たちも居たけど、僕自身にはそんな武勇伝など無い、むりむり。
だから、キャリア自慢などするつもりはない。
ただ雑記と所感だけ。

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まず、相撲から。
高校3年生くらいになって、今の骨骼にだいたい固まってきてから気づいたのだが、僕は割と相撲が得意である。
とりわけ、いわゆる下手をとってから、グッとひきつけて、相手を棒立ちにしてから浴びせ倒すような、(いわば朽木倒しとでもいうのだろうか)、そういう技が得意。
自分より大きな相手でも、ひとたび下手から組んでくっつけば、なんとかひっくり返すことが出来る。
僕は背筋計だと260kgくらいしか計測されないが、つっ立っているものに密着して持ち上げるとずっと力が出るようで、自分の強みは重心が滅多にブレないこと、なのかもしれない。 
実際にまわしを締めてやってみりゃすぐ分かることだが、相撲は互いの正対したぶつかり合いではなく、むしろ45°くらいの前傾姿勢同士での支配権の奪い合い。
だから相手を直立させつつ自分が前傾姿勢のままであることが必勝の最低要件。
その体術が、僕の骨骼や体質に合っているのかもわからない。 

…と、推量形(?)で書く理由は、自分の体質や体術を客観値であらわす術がないからである。
そこが相撲のおもしろいところ。
相手はこっちに無遠慮にぶつかってきて肩や腕などで邪魔をしてくるし、こっちが下手を取ったら逆に相手は上手をとりつつこっちの下手をグイッと殺しにきて、そのまま振り回しにくる場合もある。つまり ─ 人間関係やじゃんけんと同じで、相撲は相性ってものがかなり重要であることがよくわかった。
与しやすい相手もいれば、苦手なやつもいる。
お互いに、そう思っている。
相手のことは分かっても、自己の客観化が出来ない。
面白いもんでしょう、格闘技ってものは。

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実は柔道をちょっとやってみた時も、似たようなものだった。
道着や袖口をつかんで背負いや大外刈りのように揺さぶってから巻き込んで投げるよりも、相手の帯を掴んで小内刈りで浴びせ倒すのが得意だったなあ。

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次にレスリングだが、これはハッキリ苦手で、理由は僕は上下運動が遅いからである。
レスリングは相撲と違って、互いに上下の支配権を奪い合う競技で、これはフリースタイルにせよグレコローマンにせよ同じようなもので、膝と足首の上下運動がトロかったら強くなれないのだろう。
僕は膝も足首も硬い方ではないが、でも迅速な上下運動が苦手だったのでレスリングでは強くならなかったのだろうと察している。
レスリングで強くなるためには、すくなくとも猫科の動物のように上下に速くかつ激しく動くセンスがなければならない ─ と解釈している。
面白いもので、古代ヨーロッパやトルコあたりが発祥の地といわれるレスリングが日本人はわりと得意。
もしかしたら柔道よりもレスリングの方が日本人には合っているのかな、と想像したことがある。 

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でもって、同じくヨーロッパの古代発祥といわれるボクシングだが、これはとんでもなく暴力的な競技で、あまりにも酷い結果をもたらすことがあるので禁止している国々さえあるほどである。
脚を使って防御したり、レスリングのように倒してから馬乗りになってポカポカと叩いたりするならまだしも、まともに直立した状態で思いっきり殴ったり殴られたりなんて、とんでもない。
だから、僕自身むろんリングに上がって殴り合ったことはない。

ただ 、自分のパンチ力についていえば、中距離からまっすぐにぶち抜くよりもいわゆる近距離からのフックの方がずっと強いようである。
だから相手の顔面を正面からぶっとばすよりも、うまくひっついてから横っ面や脇腹をドスーンと打つ方が
…とはいっても、僕に殴られる相手がどのくらい痛いものか、それは僕自身が相手にどれだけ痛い目に合わされても永遠に客観化出来ないのだろうな。
痛みは客観的にはわからないにしても、そこのところ察しようとすれば、まあ人の道、だがそんな想像力すら無いのならただのけものである。
けものになりきるのなら、スパルタクスと猛獣のようにどこまでも陰惨に戦い続ける覚悟を持て。
 
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ボクシングで閃いたが、各人の体術(あるいは骨骼ないしは体質)は、野球のバッティングにも関係あるのではなかろうか。

僕はボールを投げるのは割と速くて、しかもまっすぐ握って投げたつもりでも、指の長さがアンバランスなせいか妙に横にスライドする癖がある。
いわゆるカーブやシンカーやフォークボールというのは braking ball (失速球)だからこそ打ちにくいが、僕のボールは失速しないわゆるスライダー?となって打ちにくいそうで。
一方、僕自身が打つ段となると、もう全くダメダメである。
どうしてこんなにバッティング技術が向上しないのだろうかというくらい下手。
打撃のインパクトの瞬間、一点集中でガッとちからを集中し、それからブンと振り抜く、それをまとめてやりゃあいいんだよ…などと言われても、それが出来ないから、ダメなんだよ、ダメダメ。
打球がキーーンと飛んで行かないんだよね。
たまにバットとボールがガスッ、と当たることがあるが、どうもシャープな打球が飛ばない。

面白くもなんともないから、野球なんか大学生になってからまったくしたことがない、し、今後も一切やってみようとは思わない。
だからって野球部の学生が嫌いなわけじゃないよ、野球をするのが嫌いなだけなんだよ。

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野球はほとんどがセンスで決まる、という。
きっとボクシングも、センスだろう。
瞬発力と激しさが同時に問われる競技ほど、いわば専門的なセンスが求められるのではないかな。
そういう競技は、みんなが楽しむことが出来ない。
むろん、サッカーや相撲や水泳だって一流になるのは天才のセンス=努力の継続を延々と楽しむセンスを必要とするのだろう。
が、それでも、サッカーや相撲や水泳などは幅ひろーくみんなが自分なりに楽しめる。
だからこれらは、数学や国語などと同様に、学校教育で必須にしたっていいとも思っている。 
あるいは、必須とは言えないまでも、英語などの外国語のように各人が自分の嗜好や志向にあわせて学び続けることだって出来る。 
それに、上に記したとおり、相撲はおのれの身体的特性を知り、しかも様々な相手の体質の違いも体感し、勝ち負けの妙をも知ることになり、さらには情けを知る競技でもあるので、教育効果は抜群じゃないかなと思う。
 
しかし、野球やボクシングはそうはいかない。
特別なセンスが必須なので、超一流と準一流と、あとは凡人しか居ない。
超一流や準一流の連中ばかりがいつも中央で活躍して、他の人たちはギャラリーです、というのは、あんまり面白いものではない。
だいたい、おまえは向いてないとかやめた方がいいよなどと露骨に言われるのが悔しい。
  
以上

2013/01/03

若い人たちに伝えたい社会科



① 或ることが或る時、或るところで起こる、その「必然性」を説明するためには、それが別の時、別のところでも同様に必ず起こる理由を提示しなければならない。
或いは逆に、それが別の時、別のところでは絶対に起こりえない理由を提示しなければならない。
ところが、人間は時間も能力も有限であるから、このような事象の必然性の説明など出来ない、出来っこない。
どこまでも、試行錯誤と蓋然性で生き続けるしかない、が、そこにこそ人生の楽しさがあり、世の中のスリルがあり、学問の意味もある。

一方では、いまだに歴史教育などにおいて「価値の相対化」とか「価値観の多様化」などという美辞麗句を繰り返す人たちがいる。
が、これは、世の中には必然など何一つ無いのですと言い、何もかも偶然ですよと言い、日本の経済的な繁栄はただの幸運で、原発事故での被曝はただの不運なのですよという論法である。
何もかもうやむやにし、希薄化し、バラバラにしつつ手抜きをし、実際のモノやサービスには責任を負わずにカネをちょっとだけつまんで逃げるための屁理屈である。
つまり、「価値観の多様化」は学問でもなんでもないし、どんな産業も技術も正当性も生み出さない。

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② あるとき、宇宙から妙な物体が地球に飛来してきた、としよう。
そこで地球側で最初に対処するのは、自然科学の関係者、つまり理科系の人たちである。
彼らはいろいろと調査し、検証し、ああこれは数学的に設計された人工物ですね、負荷重量はどのくらい、磁気や電荷はこのくらい、放射線はほとんどありません、危険な細菌もウイルスも含有しておりません、きっとこれは知性と文明のある異星人から発送されたものでしょう ─ と結論づける。

知性、文明、と聞いて地理学の関係者がやってくる。
そして、ああこの物体を発送してきた異星人は豊富な鉱物資源と工業原料と加工技術を持っていますね、これだけ精巧な集積技術があるということは、気候も気圧も安定し、降雨量が規則的で食糧事情もきっとよくて、人口規模はこれこれこのくらいでしょう ─ などと見当をつける。

鉱物とか工業とか食糧などと聞くと、これまで黙っていた経済の関係者がやってきて、つまりここからがいわゆる文科系の出番。
うむ、そうだこの発送元の異星人と貿易をしよう、我々は余剰な在庫品をどんどん売りつけてやろう、それで先方の特殊金属をたくさん買えばよい、そうだ通貨はどうしようか、相場は、投資は、会計ルールは ─ などと喧々諤々。

話がここに至って、これまで黙っていた法律関係者がやってくる。
そして、おいおいおまえら何事も最終的には公正と公開が原則だぞ、全ての権利者の合意を、そういえば有権者資格は、そうだ準拠法は、言語は、協定は、条約は、所有権は、担保は、補償は、不可抗力は、違約罰則は ─ と議論をはじめる…。


この作り話が伝えたいこと。
とりあえず科学的に訳が分かっている範囲においてこそ、経済も法も設定しうる。
訳の分からないものに経済も法もあってはならない。

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③ とくに社会科について、どう考えればよいか。
上の例のとおり、社会科は、自然科学全般の中で特に人間の文明に絞った学問。
であるのなら、まず地理学がありき、それに基づいてこそ人間の歴史があり、それらに基づいてこそ経済学があって、だからこそ法律や政治が決まる、と考えるべきではないか。
たとえば、民族移動、分業と専門化、大航海時代、産業革命、オイルショック、地球温暖化などなど…みな地理学によってこそ基本が理解出来ることばかりで、だからこそ歴史の意味がわかり、それでやっと経済や政治が法もわかる。 

仮に、もし将来において人類が金星や火星で新たに産業を興すことになった場合、これまでの地理学がそのまま応用拡大されて「金星地理学」とか「火星地理学」となるだろう。
つまり、地理学そのものが本質的に、社会科としてはスケールが大きすぎるのである ─ が、それでも人間の文明に関わる部分=つまり社会科の基礎として、もっと地理学が強調されなければならない。

現実には、日本の高校教育では地理学が極端に軽視されつつ、歴史が驚くほど重視されていて、大学入試においてもセンター試験や国立大学はさておき私立大学で地理学を出題する学部学科はびっくりするほど少ない。
その理由は、地理学の教職員が総じて少ないから、および歴史教育において日本を故意に貶める意図がありうるためだと察している。 

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④ さて。
ほとんどの人間の試行錯誤は、なんらかの分解、合成、価値化、権利化、複製、交換、投資、納税である。
このうち男性が女性より優っているのは理屈のゴリ押しによる価値化と権利化だけで、ほかは男性でも女性でも変わらなくなってきた。 

1日24時間の活動に適している人種や世代や性別が、1日36時間の世界でも活動に適しているとは限らない。
摂氏20度で頑張る人種や世代や性別が、摂氏10度や30度でも同様に頑張れるとは限らない。
時間や環境を自ら優位に仕切ることは、諸活動で優位に立つために必須である。

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⑤ ある論理に強い人々は、その論理に弱い人間をどこまでも騙し、こき使い、資源とカネと労働力を好き放題に搾取することが出来る。
が、その論理でやられてきた人々が全く別の論理で猛反撃してくる場合があり、そうなると論理的には解決出来なくなる。
世界が一体化するとともに戦争が多方面に巨大化してきたのも、このためである。

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⑥ これまでの日本国憲法。 
日本国民は…国権の発動たる戦争と、武力による威嚇または武力行使を永久に放棄、そのため日本国としては戦力の保持も交戦も認めない、とある。
しかし、日本が一方的に戦争に巻き込まれた場合、「日本人全員が無条件に殺されるべきである」、などとは書いていない。
みんなで一緒に殺されればいいんだよ、という年配者や左翼系も多い、かもしれないが、しかし全員と一人ひとりは同じ場合もあり、別の場合もある。
戦争に巻き込まれた場合の一人ひとりの自己防衛の権利、反撃の権利などを憲法に追加したとたん、話はガラッと変わる。

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⑦ ところで。
人間の経済活動の合目的意義は、 皆のモノやサービスの「売上」の拡大。
あらゆるモノやサービスの売上拡大こそが売り手も買い手も活性化し、賢くし、多様性や専門性が増し、ひいては皆を豊かにする。
この傾向が進めば進むほど、モノやサービスの交換の便利性がいよいよ増す。
そうなるとカネがだんだん不要となりうるので、結果的にデフレに収まりやすく ─ ゆえにデフレそのものは悪の結晶ではなくて努力の結果である。 

皆が働く過程では、売り手として、かつ買い手として、日常あらゆるモノやサービスを個別に売ったり買ったりしている。
だから、全てのモノやサービスの価値が一斉に上昇したり下落することなど、絶対にありえない。
必要な物は、値段が上がってもやっぱり必要だし、要らん物はタダでも要らないのであって、それも日々の諸活動において変わるわけで 
─ こういう当たり前のひとつひとつの経済活動の変動に、いちいちインフレだデフレだと一律単純化をもちこむのが間違っている。

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⑧ 一方では、「カネの利益のみ」を追求する経済活動もある。
つまり金融や投資であって、むろんこれら自体は悪ではないが、本来すべてのカネは信用のみに則った虚構ゆえ、市場におけるカネの流動量がとつぜん増えることも減ることもあり、だから一斉に価値の下落と上昇がある。
だから、これらの行為の実践においてはどうしても金利や指数や物価変動率、賃金上昇率、景気変動など、総括的な数値ばかりに興味関心が引っ張られる。
そして、一番総括的な数値、つまり景気のデフレ、インフレが常に念頭におかれてしまうわけで、評論家やマスコミなども取材が簡単だからこっちに引っ張られてしまいがち。
もちろん上に記したとおり、これらの数値はみな個々の経済活動の結果であって、リアルな経済活動の過程ではない。 

かつ、金融や投資はどうしても、最少人数のカネのみを増やすように動きやすいので、これらの行為そのものが新しいモノやサービスの需要や供給を生み出すわけではない。
たとえば…総括的に景気がデフレになったらなったで、利益のみを追う人たちはもはや何か新たに仕掛けるよりも何もしない方がカネの損失が少ないので、いよいよデフレを歓迎するのが普通。

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⑨ 総括的にデフレの局面において、新たなモノやサービスを生み出すのはどうしたらよいのか 
…などという議論があるが、基本的にずれている。
新たなモノやサービスの実現、それはデフレだインフレだという総括的な結果データをいくら眺めても出てこない。
新たなモノやサービスの実現のためには、国内外の潜在的な顧客に片っ端から尋ねつつ、それに応えるように勉強し研究開発し市場開拓し製造し法整備する、そういう努力を継続する ─ これ以外にない。
それで売上を拡大し、皆がひとりひとり活性化されれば、世の中も活気が増す。

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⑩ どれだけカネを稼ぎ、そのカネをどれだけ使っても、「出来ないものは出来ない」。
世間では金融、保険、不動産業界などが、10億円程度のカネ持ちをつかまえてあなたは資産家様ですよなどと褒めそやすが、たとえば放射線の完全防護などは10億円どころか10兆円を自由に使える人でもやっぱり出来ない。
いや、現在の日本人のすべてのカネを数千兆円つぎ込んでも、地震や津波や火山爆発の根絶、完全に安全な幹細胞の生成、死んだ人間の蘇生は出来ない。
つまり。
カネや権利の議論と技術能力の議論は絶対に一致しない。
だが、経済や法の論理においては便宜的にこれを一致させてしまい、それどころか大いに悪用して自分の損失損害ばかりを訴え、他人のカネをまきあげる悪いわるい連中も世界には存在する。
何事につけても、実体が何なのか、実現が可能なのか未だ不可能なのか、よく確認する必要がある。

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⑪ 売り物が増えれば増えるほど、売り手も買い手も自由競争でもっと賢く豊かになる。
だが、売り物の無い社会では、自由も競争も奪い合いしかもたらさない。 
もちろん、売り物が無くなってもとりあえず豊かになる方法があって、それはカネの絶対量を増やし、価値を下げて、とにかく皆でグルグルと回しながら皆に配っていくことである。
このカネのグルグルはあくまでも、「とりあえず」であり、その間に勉強や研究開発や市場拡大に努めなければ次の新たなモノやサービスは出てこない。 

そんな「とりあえず」を続けているうち、しばしば売りも買いも貧弱になり過ぎて、しょうがないので人工的な権力に何もかも委ね、そのため「とりあえず」自由も競争も停止してしまった例が歴史にはいくらでもある。   

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⑫ 科学や経済の諸活動に議会や法が介入すると、諸活動の効率化も確かにもたらす ─ が、同時に極端な単純化や一律化ももたらしてしまい、そういう単純化と一律化のみで稼ぐ人たちが儲かるよう世の中を捻じ曲げてしまうリスクがある。
理想的には ─ 法はともかくとして議会は取り除き、国民一人ひとりあるいは団体が自身の個別の必要に応じて「随時」かつ「直接」政府と交渉し、カネを調整しつつ、法や条例を書いたり消したり…といった方が皆のために良いと考えられる。 

以上

2013/01/02

新成人と新世界2013




此度の新成人は、ソ連なきあとに出現した新世代の第一号。

① ソ連なきあと、世界がどう変わったか。
─ といえば、初めに人がありきか、あるいは政府がありきか、という意思決定の優先順位論争がほぼ永遠に消えてしまった。
代わって、稼げりゃ何やったっていいんだよ、資格と能書きとコネがありゃ何やったって許されるんだよ、というノウハウ押し付けと売り逃げの時代が世界的に到来。 

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② しかしまたソ連消滅によって、全般的な需要は分量ではなく品質に変わった。
高度な「品質」のみが実需となり、だからこそ「要らないものは、タダでも要らない」時代が始まった。
一方で、品質と無縁の世界で稼ぐにはコスト圧縮しかありえない、そんな時代も始まった。 
前者の代表が日本で、代表になりそこねて喘いでいるのが欧米で、後者の代表が中国。
─ と、いうのが今のところ、だがこれからどうなるかは誰にも分からない。
職能面における中産階級が世界的に増えていけば、そして女性たちがどんどん世界に出ていけば、供給も需要も全く前例のない世界が展開しうる。

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③ さらに。
新成人たちは、同時多発テロも見てきたし、東電原発事故もまともに目撃している。
つまり、従来の世界文明史が、その集大成においてことごとく大失敗に終わってしまったことを知っている。
つまり、だ。
我々の価値観が有限であることを知り、我々の科学力も理性も有限に過ぎないことを知った新世代。

これまでの世界を仕切ってきた人脈も権威も大志も野心もカネも戦争すらも、所詮はちっちゃいちっちゃい無力なゲームに過ぎなかった…
と知ってしまった彼らは、「まったく先例モデルのない世代」として、どんな大人になるのだろうか。
ヨリ不自由になってしまった世界の内側で、売り抜けと恐喝のエリートが横行する傍らを、小さくちいさく消費と納税のみに生きるしかないのか。

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④ いや、彼らは全く別の新世界・新市場をつくっていくことになるような気がしている。 
これまでの歴史においても、ガラリと変わった時代に青少年期を送った者たちは、のちの人生で必ず巨大な新展開をもたらしてきた。 
どんなに普遍的に見える損得ルールでも、どんなに強引な論理でも、その共有者が時間とともにどんどん消えていくのだから、必ず破綻するのが当たり前。
そこに代わって、全く違う論理があらわれうる。
大いに期待したい。

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⑤ ともあれ。
昨年末に雑記したとおり、少なくともたった一つ、いよいよ重要となる課題は既に明らか。
「モノやサービスの品質とは、そもそもいったい何か、その優劣はどこにあるのか」というところ。
生命技術や新素材は言うにおよばず、TPPも国防もみんなモノやサービスの品質論。
まさに新機軸の要諦はここにあり、そこから科学技術も変わり、だから経済も変わり、さいごに法律も変わりうる。
品質論において、権利の委任も多数決も無意味だから、議会などはいずれいつかは不要になる。 

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ついでに言えば、古い損得勘定と低品質の製品技術で世界を大失敗に終わらせてしまったオヤジどもなんかね、成人式で袋叩きにされりゃ面白いんだけどな。
それがいやなら、成人式なんか新成人だけで自由にやらせりゃいいんだよ。
新たな時代の幕開けとは、そういうもの。
いやあ、楽しみだなぁ。

以上

謝辞

ここに提示の記事は、いずれも私自身の判断責任のもと編集・投稿したものです。

大半の投稿は学生など若年層向けを意図してやや平易な表現にて、通俗性は極力回避しつつ、論旨の明示性を重視しつつ書き綴りました。あわせてまた、社会人の皆様にお読み頂くことも想定しつつ、汎用性高い観念知識を相応に動員しながら記した積もりです。

私なりの思考着想によるささやかな閃きが、皆様の諸活動にて何らかの光源たり得れば、望外の喜びであります。

山本