自己紹介

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東京都立川市出身、慶應義塾大学卒業、某電機メーカ勤務にてソフトウェアシステムの海外プリセールス等を経て、現在は教育関連に従事

2013/10/25

おでこ美人

僕の勤務サイトは複数だが、そのうちの一箇所、受付事務の女性にかなりの美人がいる。
とにかくパッと見て美人そのもの、チャーミングという形容詞もぴったりあてはまる。
とりわけ、額から目にかけての絶妙におどけた造形、それは小憎らしいほどのホンのかすかな減点ポイント。
客観も主観も超えた人の世のよろこびそのものである。

そんな彼女について、僕が面白がって「おでこ美人」などとふざけた呼称を発案し、他の職員たちとゲラゲラ笑っていた
─ のだが、しばらくするとなぜか学生たちがこの女性を「でこちゃん」などとあだ名を付けていたのには、ちょっと驚いた。
それどころか、「でこちゃん」呼ばわりしたのはどうも僕が発起人であるがごとくの誤解もあるようで、なんだか気まずくなっている。

それはさておき。
美人を大別すると魔女タイプ、女神タイプ、かぐや姫タイプがいるようである。
これは人種民族を問わずそうであって、ではなぜその3種類かと言われても、説明のしようがない。
美人は分析ができないからこそ美人なのである。
なぜ、美人とそうでない女性がともに存在しているのか、それは覚えやすい音楽と親しみにくい音楽があるに似ている、と考えている。
楽しさ満点の共感覚とでもいうべきか。
いや、とくに男の躁状態や鬱状態と何か関係があるのかもしれない。

最近は鬱病を「うつ病」と描写するケースが多いようだが、なぜうつ病になるかといえば、なにかのきっかけに「うっ!」と硬直して、それからうつ病になるんだよ、アハハハ…などと笑っても、その場に美人がいれば誰も不愉快にならない。
いや、実際のところ、美人がいれば男がうつ病になどなるわけがない。
「ああ、この書類、重たいわぁ、ねえ山本さん、ちょっと手伝って」なんて頼まれようものなら、もう全力疾走で階段を駆け上がるくらいなんでもない。

僕はうつ病がどんなに辛いか知らないので、面白半分に書いているのだが、しかし、ここから先はちょっと真面目に。
うつ病は、走れば治る、と考えている。
2km、5kmと走っているうちに、もやもやした思考などは吹っ飛んでしまい、ただ苦痛と爽快感だけが全身にガンガンと拍車をかける。
その肉体感覚「だけ」が現実になる。
俗世の論理などは俺以外の誰かが考案した虚構に過ぎない、これこそが我が身の現実だ、人生の全てはハードウェアだ、と体感した時
…それは極端に例えれば恐怖と苦痛を克服しながら数ラウンドを懸命に戦い続けるボクサーや、自己記録更新をかけて必死に泳ぎきるメダリストスイマーのリアリズムのごとし、今だ、今このとき、今しかない、今が全て…と僕なりに想定してみたりする。

そんな息せき切った僕を、どこかの美人が遠くからそっと見つめている、などと思えば、そういった奇蹟の星座がもう楽しさバツグン、極上の幸せ者になれるじゃないの。
それどころか。
実際に、すべての女性が美人に見えてしまう!
とにかく、気持ちが沈んだ時は、腹一杯喰って、よく寝て、それから走れ、それが一番。
おのが内から、新たな変化が湧き起こる、それは頭で考え続けても出てこないこと。

フン、あんたはちょっとバカだから、そうかもしれないが、そうでない優秀な人たちだって居るんだよ!と叱責されるかもしれぬ。
でも、そうやって論理的に峻別するから、よくないのだ。
若い連中がちょっとしたことでつまづいても、すぐに回復するのは、若者がバカだからじゃなくて、いつも、どれもが一度限りのリアリティだからでしょう。
一度かぎりのリアリズムに、論理などない。

以上

2013/10/13

大学入試に関して、どうしでもどうしても言いたいこと


以下に記すは、普通の教育産業人はあまり考えつかない(かもしれない)ことを、世の普通の大人として常識に則ったつもりで雑記したもの。

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① 国公立大学が二次試験(つまり各大学での一斉ペーパー入試)を5年後には廃止する主旨云々、と報道機関の記事にある。
また既に、(慶應や早稲田のように)センター試験併用の廃止にシフト済の大学もある。
この一斉ペーパー試験やセンター試験などの廃止プランに対し、学生の学力が低下するに決まっているなどと執拗に反論する人たちも居る。
それならば、従来通りの一斉ペーパー入試の継続によって学生のどういう知力を維持するつもりなのか、そして大学側にどういうメリットが継続的に期待出来るのか
…となると、これにはまともな説明は無いようだ。

一斉ペーパー試験方式でないと、選抜の客観的な正当性が失われてしまう、などという反論もあるようだが、しかし大学にしても受験生にしても人間同士、突き詰めれば双方の"なんらかの知的な相性"で合否を決めているに過ぎない。
だから選抜試験には本来的に「客観的な正当性」など無い。
それが有るがごとしの虚構に便乗して、似たような一斉ペーパー試験に頼りきっていては、点数の序列化という一層の虚構に嵌っていく一方だろう。

もともと、大学は自校が欲する適性・能力の人材こそ入学させたい「はず」である。
だから、「各大学ごとの独自の方法」による入学審査こそが本来は当たり前のこと。
そういう積極的かつオリジナリティの高い入学審査が出来ず、一斉ペーパー入試に頼りきりというこれまでの大学の在り方の方が、むしろおかしかった。
(まして入試問題を外部業者に作成委託している大学はもっともっと奇妙だった。) 

さて、実際に各大学が「独自の入学審査」を実施するとなると、「大学側での諸コストが増大する」「そんなこと出来っこない」、という。
が、これはいよいよおかしい。

日本の大学は、「学費闘争」について(少なくとも最近は)ほとんど聞いたことがないから、どこも一応はペイしているように見受けられる。
これを世の大人たちの市場サインとして見れば、「大学にカネを回してやるから、まともな学生に育てて寄越せ、その程度の余裕は日本人の大人にはあるんだぞ」、ってことなのだ。
そんなふうに、日本の大学は市場経済に身をおいてなんとか運営してきたはず…それにも拘らず、独自の入学審査を行うとなると「費用負担が増すから実施出来ません」、とはどういうことか。
その分、学費を上げて何とかすりゃいいでしょう。

なるほど、大学は市場経済では動かない、株式会社でもない、だって大学は産業ではないからさ ─ という見解も聞く。
市場経済では動かない、っていうのなら、なおさらのこと、各大学は独自の力量をもって強引にでも市場を動かしなさい。
世の中の産業界にも官界にも、卒業生がたくさん居るでしょう、その人たちの支援も得つつ、自校の存続を賭けて独自の入学制度を構築すりゃいいじゃないの。
そういう手段に打って出ることが出来ない大学は、要するに実質・実体・知性いずれも無いわけだから、消えて無くなって当然。
…というのが世の大人の常識である。

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② さらに云いたい。
大学進学希望者にとって、意中の大学から誘われ、お願いですからうちに入学して下さいと請われて入学することこそ、一番の名誉だし、一番幸福なことである。
でも多くの進学希望者は、うちへ来なさいなどと請われるわけではなく、一発評価のペーパー試験を経て無理矢理に大学に入り込もうとしてきた。
大学進学希望者のみなさんは、こういう従来の現実を「あたりまえ」だと考えてはいけません。
本当は、自らを誘ってくれる大学に行くべきなのですよ。


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③ さて、いわゆる教育産業界について。
本当に皆がいつも真面目に仕事しているのだろうか。
たまたま最近気づいたことがあるので、ちょっとだけ例を挙げて記す。

ある大手予備校筋の社会科の参考書にて。
1929年のアメリカ大恐慌の原因は企業の「過剰生産」による、等々と記してある。
この箇所は、総じて理解すればけしておかしなものではないのだが、どうも「面白い表現」である。

まず企業というものは、「過剰生産しないように」、常に需要を鋭敏に察知し、製品の販売価格と数量において常に自らが有利になるよう、販売数量も生産数量も随時調整しつつ経営している。
なるほど、農産品を生産する農家の場合には、農産品の生産や販売の調整が実に困難で、大幅な損失を出すリスクは常にある。
だから農家の損失を救済すべく、政府が最低購入額を設定したり補助金を出したりする、これも世の常。
フーヴァー大統領やローズヴェルト大統領に限った話ではない。
ともあれ、工業も農業も、利益が最大となり損失が最小となるよう経営者(や政府)が常に意図している
─ したがい、過剰生産というのはどこまでも「結果論」でしかない。

ところが一方で、企業の株式市場においては、投資をトータルに制御する人間など普通は居ない。
だからちょっとした株価値動きでも、たちまち市場の不特定多数の投資家が反応し、或る企業の株式が急上昇したり急降下することはある。
さらに土地資産への投機が過熱化するのも、これまた世界史の常。
こういう経緯から市場のカネ回りが鈍化し、製品への需要が減ってしまい、一方では非自発的な失業者が増えた、がこれらは従来の政策で復旧しうる事態ではない。
─ ここに至って「結果的に」企業の過剰生産という現象が生じた。
(そこでケインズが…)

…と、少なくともここまで記さないと、自由競争経済圏の社会科教育としては不十分ではないかと考える。
もっとも、本参考書の著者に対して文句など無い、それは本書では随所に「なるほど」と閃かせる知的コンテンツも見いだせるからだ。
(だから書名は明かさない。)
むしろ、教育産業やそれら出版社に対して、もっと真剣に仕事して下さいねといいたいわけ。

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④ 似たようなおかしな記述は、他の教育産業においても頻繁に見出すことが出来る。
たとえば。
マーシャルプランと、NATO(北大西洋条約機構)成立と、東西ドイツの成立と、朝鮮戦争。
或る中堅予備校の社会科、いわゆる早慶入試と銘打ったテキストにて、「これらの年号くらいは覚えておこう」とある。

バカ言っちゃいけないよ、年号から入るべき事項じゃないんだよこういうのは。
マーシャルプランもOEECもGATTも、東西ドイツ分割占領下で西側が自由競争経済システムを保持すべく遂行したこと、そして西側占領ドイツでの通貨改革に対するソ連側がベルリン封鎖してCOMECONを組織。
それからNATOが成立した「から」、ドイツが東西両国に分離したまま主権回復したんでしょう。
そこでヨーロッパにおける東西の直接的な激突が膠着してしまった「から」、今度はアジアで東西の武力衝突を引き起こした、それがソ連を外してでも国連を踏み切らせた朝鮮戦争だと見るべきでしょう。
(さらに東西の直接対決として、スエズ動乱、キューバ危機、ベトナム戦争へと続くんでしょう。)
年号を覚えるのは、こういった一連の展開を理解してから。

…と指摘して差し上げても、聞く耳をもたないようで、そんなだからいつまで経っても最大手に仲間入り出来ないんだぞ。
(これから予備校選びを進める学生たちは、世界史や政経の教材をチラッと見せて貰っては如何かしら。)

こんご予備校がどうなっていくか、今はまだハッキリとは分からない。
が、大学と同様、強力な他校に便乗しつつお粗末なサービスばかり展開しているところは、まあ消えて無くなっても仕方ないだろうなあ…
と、ボンヤリ想像している。


(続きはまたその気になったら。)

謝辞

ここに提示の記事は、いずれも私自身の判断責任のもと編集・投稿したものです。

大半の投稿は学生など若年層向けを意図してやや平易な表現にて、通俗性は極力回避しつつ、論旨の明示性を重視しつつ書き綴りました。あわせてまた、社会人の皆様にお読み頂くことも想定しつつ、汎用性高い観念知識を相応に動員しながら記した積もりです。

私なりの思考着想によるささやかな閃きが、皆様の諸活動にて何らかの光源たり得れば、望外の喜びであります。

山本