2013/11/24

【読書メモ】 生命はどこから来たのか? ─ アストロバイオロジー入門

『生命はどこから来たのか? ─ アストロバイオロジー入門』 松井孝典・著、文春新書版。

アストロバイオロジーとは聞き慣れない学術分野ではあるが、とりあえずは Astro-Biology (あるいは一続きに Astrobiologyと記すほど普遍的な分野か) つまり宇宙生命論の類だろう ─ だからきっと難度の高い本に違いない。
…と想定しつつ、今夏に出たばかりの本書を手にとって読んでみたところ、化学や物理学についてのやや専門的な記述もさることながら、なんといっても引用されまた展開される個々の論理そのものが実に理知的、これだけの「密度の濃い」コンテンツが廉価の新書版で出ているとは。

本書の著者の松井氏は、ひろく宇宙も生命も(人間の文明でさえも)システム系として探求を継続されている第一人者として知られる。
本書のベーシックスとしても一貫されているであろう、これらの「システム」について、その本源的な意味(つまり科学)まで理解しようとすれば、諸要素について相応の知識が不可欠だろう。 
それでも、一定以上の素養さえ有れば、どの年代職業の読者がどこから読んでも存分に「思考の冒険」を楽しめるのではないか。
(さらには、多くのSF仮想世界にみられる一見大胆なヒラメキにしても、それらの源泉を本書引用の宇宙生命論のうちに再確認出来ようか。)
但し、第4章の以下の項目あたりから、少し込み入った化学や物理学の素養を問う内容となってくる。
「生化学反応」「代謝経路」「同化反応」「異化反応」「高分子」「エントロピー」「エンタルピー」「自由エネルギー」「古細菌」「真正細菌」「真核生物」「塩基(コドン)」などなど。
これらはいずれも、著者によれば生命現象を理解するのための基本的な知識とのことだが、これらのタームを学術的に捕捉出来そうもない僕のような科学素人の皆さんには、第1章、第2章、第3章の読解をとりあえずはお勧めする。

さても、本ブログにおける読書メモとしては、これまで通り僕なりの要約に留まるところご容赦頂くとして、本書における第1章と第3章の内容のみを集約し、かつ、宇宙における生命存在の必然性を明かしていく仮説論証プロセス紹介がずば抜けて面白かったので、そこに力点をシフトしつつ以下僕なりに総括し措く次第



(1) 宇宙における(なんらかの)生命の誕生が偶然であったのか、それとも宇宙における必然であったと捉えるべきであるのか、深遠な問題である。

たとえば、生命の誕生はこの宇宙における寂しい偶然に過ぎなかった、という論拠。
これまでの生命の遺伝子における核酸分子の配列からみて、それにピッタリの分子生成の確率は限りなくゼロに近い、というもの。
たとえ宇宙の広さや137億年の時間を考慮したとしてもこの確率は限りなくゼロに近い、ゆえに生命の誕生は偶然といっていいと。

パンスヘルミアという学説があり、これは地球の生命が宇宙からもたらされた、とするもの。
生命が宇宙の「どこか」で極めて偶発的におこったものに過ぎない、との前提による。
なお、この学説を逆にとれば、たとえば地球からの宇宙船に付着した微生物が宇宙に運ばれても、それら微生物が火星や土星衛星タイタンなどで生き延びる可能性があるといえる。

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(2) 一方で、生命の誕生は宇宙の必然的な経緯であり、だからどこでも起こり得る、という論拠。
たとえば、地球生命の核酸の分子構造は、隕石における有機物質と立体的構造が異なっている。
またコレステロールは、同じ分子式でも立体構造は256通りが考えられるというが、地球の生命はそのうちたった1通りしか使っていない。
こうして生命素材の在り様を考慮するならば、その材料物質が(我々のまだ知らない)宇宙のどこかに在るということにもなる。

宇宙の進化の無機的な過程のどこかで、アミノ酸や核酸などの材料分子が頻繁につくられ(化学進化)、それがたまたま地球のような天体では特別な選択効果が機能して生命細胞の構造となる(生物進化) ─ という見方もある。
尤も、両方とも地球で起こるともいえるし、さらに、宇宙に地球のような天体がたくさん有ったなら両方ともたくさん起こりうるともいえる。

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(3) アストロバイオロジーは、地球を含めたあらゆる宇宙の環境や天体を「システム」として捉える。
むろん、システムとは、複数の要素の関係性によって動的な復元や平衡が維持できる系のこと。
システムとしての天体にこそ、システムとしての生命が在る。
地球上で確認出来る生物の代謝反応を確かめれば、我々生命というシステムが宇宙システムと切り離せないことは明らか。

光合成など(炭酸同化反応)を単純化すると、植物葉緑体が太陽の光エネルギーを吸収し、水や二酸化炭素と反応してADP(アデノシン二リン酸)とリン酸をもとにATP(アデノシン三リン酸)が合成され、そのATPに「蓄積される」エネルギーからグルコース化合物の合成が行われる。
一方、動物細胞の呼吸(異化反応)を単純化すると、この植物葉緑体が生成のグルコース化合物が酸素によって分解され、二酸化炭素と水を生成する、かつ、この過程で「取り出される」エネルギーによってやはりADPとリン酸からATPが作られ、取り出されたエネルギーがそのATPに「蓄積され」、それが少しづつ生命活動のエネルギーの源泉となっている。
呼吸など異化反応において細胞内の複雑さが増し=秩序が減り、これは熱力学第二法則に則ればエネルギーが減ることを意味しており、よってエネルギーが常に必要とされる。
また、一度に爆発的な燃焼が起こらないようにATPがエネルギー を徐々に蓄積している。
(…以上が本書に要約されている生命とエネルギーの初歩解説 ─ と思うが勉強不足の僕にはあんまり自信無し…とりわけ、エネルギーをATPから取り出すとか逆にATPに蓄積とかいうところがどうも分かりません。)

つまり、太陽光線エネルギーも同化反応や異化反応における物質も、宇宙システムから独立したものとはいえない、だから我々生命システムと宇宙システムは同一の系にあるといえる。

宇宙も地球もわれわれ生命も、全体が(或いは一部が)連環した「必然的な」システムである、との解釈からすれば、たとえば地球上の恐竜を絶滅させたとされる天体衝突にしても、地球の「応答システム」が機能したがゆえにこそ、地球は長期復元し…だからこそ現在の我々の存在に必然的に至る、と理解出来る。
(じっさいに天体衝突は宇宙ではいくらでも起こっている。)

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(4) 生命の存在は宇宙の必然である、とする論拠としては、いわゆる「人間原理」もある。
「人間こそが宇宙を認識し、観察、記述し、宇宙の形も大きさも年齢も進化の法則も定めてきた」、そして人間の計算(アインシュタインの宇宙係数など)に則ればこそ、人間が観測する宇宙が存在しているといえる
─ のだから、宇宙はわれわれ人間のような観測者(計算者)を生みだす「ように出来ている」はずである、という。

ただし、これらは「人間自身の尺度」に限定した上で、たまたま人間が知っている宇宙について論じているに過ぎず、仮に「思弁的に捉えて」他にも宇宙が存在するとするのなら、そこではわれわれ人間の現行の尺度は「普遍的な意味」をもたない。
と、すると、宇宙が我々人間に至る生命進化を必ずもたらすとは断定出来ない。
実際、精度の高い観察に依れば、現行のわれわれ人間の宇宙定数は厳密には完結しない ─ つまり他に宇宙があってもおかしくないということになる。

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(5) 微生物(細菌およびウィルス)の多くは、地球のどのような温度、圧力、乾燥度、水素イオン濃度、放射線環境においても生存する適応性を持つ。
地球どころか、どのような惑星環境においても生き延びうる、とされる。
ゆえに、生命がどこで本当に発生したのかを判別することは極めて難しい。
いや、それ以前に、我々人類は今のところ地球生命しか確認していない ─ だから宇宙レベルで生命を定義することは出来ていない。
(なお、ウィルスが生命か否か、生命進化との関わり合いは何か、まだ定義は終わっていない。)

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(6) アストロバイオロジーに則れば、地球とは水が地表を循環している「システム」の星、そこに生命が存在する。
ならば ─

火星にも生命が存在してもおかしくない。
火星で堆積岩が既に見つかっているが、堆積岩は水の循環や侵食が無ければ生成され得ない。
また、火星の堆積岩の構造も水の流れを示すものである。
さらに火星の地層からはヘマタイト鉱物の球粒も見つかっているが、この球粒は二価の鉄イオンが酸化した水に溶け込まないよう三価に変わって堆積したもの、よって間接的には火星に水が存在する(した)事実を示す。
火星にはバイオマーカー(生命と周辺環境の相互作用の痕跡)も見つかっている。
また、火星からの隕石には生物化石らしきものの付着が確認されており、地球上の最古の生物化石に似ている。

地球の何千メートルもの海底には、熱水噴出孔があり、その付近に地表とは異なる原始的な生物が棲んでいる。
これは太陽光すら利用しない特殊な生態系である。
ところで、木星の衛星エウロパは木星の周りを楕円形の軌道で周回するが、木星からの巨大な重力による変形圧力によってエウロパの「内部」に熱がおこり、表面の氷の下に「海」が出来ている、とされる。
この「海」が地球の海底と似ているのでないか。

土星の衛星タイタンは、メタンやエタンが零下200℃の環境下でも液体から気化して雲になる。
それが雨になり、川となり、湖となるという循環が既に確かめられている。
つまり衛星タイタンでは、いわばメタンによる循環システムが成立機能していることになり、そこでたとえばリンを素にした生命が存在するのでは、と問われ続けている。

金星の大気中の濃硫酸の雲の中でも、微生物は存在するかもしれない。

以上

2013/11/09

留学するなら

なぜ大学生は留学に憧れるのか。
受け入れ側の国からすれば、日本人学生がホイホイとカネを落としていってくれるので、これはもうホクホク顔でウェルカム、ではあろう。
しかし日本の大学生は、なぜ留学したいのか?
と、考えてみることがある。

日本で育ったのに、わざわざ海外まで出て行っていったい何を学ぶのか、まともな目的意識を持っているのか
─ となると、そういう学生はあくまで特定の技量分野に限定されていること、当たり前である。

日本で育ったその自己の知識能力を全否定して、海外の先進国で人生のすべてをやり直したい、という学生がいるものか。

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いや。
日本が我慢出来ないから、海外に出て行くんだ、日本人としての人生を捨てるんだ、それが留学の目的なのだ、としよう。
それならば、むしろ留学だけでは足りない。
将来的には現地に「帰化」するくらいの心構えが欲しい。
そこまでの本格的な覚悟が無ければ、現地の人々と同等の人間になることなど出来まい。
つまり、日本脱出が目的の留学であれば、留学自体が目的ではなく、将来の帰化のための手段と措くくらいで丁度いい。

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いーや、そんな暑苦しい志なんか無いんだ、どこまでも日本人としての自己を貫いたまま、海外に居住すればそれでいいんだ ─ 
というのなら、そんなのは自らが新規の技量を生み出すにあらず、あくまで日本と現地で二股をかけての「情報交換媒体」を自ら任じているに過ぎず、つまりは既存のビジネスの経費節減プレイヤーに過ぎない。
それなら、むしろネットを活用すればもっと経費節減になる。
わざわざ現地に居住する必然が無い。

そんな経費節減プレイヤーを自身のキャリアの売りとするのなら、それもまた確かに効用は期待されよう。
だから就職時に若干のアピールにはなる。
が、しかしそういうコストカットのスキルだけでは、海外オリジナルの異種スキルを獲得したことにはなるまい。

(じっさい、経費節減の能力を買われてヨーロッパ駐在してきた人も多々知っているが、現地の「産業センス」に欠如しているためか、€と£をしばしば間違えて周囲を迷惑させたり、と、お粗末な人も多い。)

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少し話をスライドさせるが。
超大手の受験予備校が、海外在住の日本人学生の学力増強を図っている云々と喧伝している。
そういう学生の教育担当者を募集中、とも。
ほほぅ、と、ちょっと興味を惹かれたので、そこの教務担当者と面談したことがある。
さて。
そういう海外在住の日本人学生が、大学に進学後、どういう技量をもって、どのような就職進路を選択しているのか、…と訊くと。
いやいや、そういう出口調査など「全くしていません」、それ以前に「出来ません」、とのこと。
これは喧嘩腰の口論の末に聞き出しており、向こうさんも相当ムキになって、「出来るわけないでしょう!」などと主張していましたから、多分真相でしょう。

近く、今度は留学斡旋の業者をヒアリングしてみるつもりだが、どうも似たような回答しか得られないような気がしている。
つまり、「海外育ち」の学生が既存の実務上のコストカットの効用を有する、というくらいのことはこういう業者にも分かるのだろうけれども、その学生が新規に何を生み出し得るかとなると、以上のことは知りようがないと。

以上

2013/11/07

世界史科を抜本的に組み直したい



① 古代ギリシアを代表するポリス(都市型国家)として知られる、アテネとスパルタの比較論。
アテネは民主主義で世界史の本道をいき、スパルタは侵略型で世界史の亜流であった…というのが、従来の世界史教育が押しつけてきた先入観だろう。
しかし、アテネは概してカネカネカネで外部との交換効率化をはかりつつ、多数決を常に最優先とし=美しく表現すれば民主主義に則っていた。
だから、主流派と称して万物の所有を独占する市民と、異端派とされて所有から占め出されたであろう非・市民(奴隷)がいつも対立していた。
それは共和政ローマの歴史、近世イングランドやネーデルラント、また独立戦争から連邦形成までの合衆国の歴史パターンにそっくり。

一方で、各市民がひとりひとり、自己の資産を独立自尊で守りぬくとしたスパルタの方が、むしろ非・市民(奴隷)は少なかったという。
それは内戦期を卒業して価値と武力の一元化を進めたパックス=ロマーナ、パックス=ブリタニカの時代に通じ、現在までのアメリカによる平和的な世界制圧にも通じる。
さらに、オスマン帝国や江戸幕府にも通じる。
だから我々は、スパルタの方に美学や郷愁をおぼえても、おかしくはない。

なんだそれは?融通の利かないスパルタ型文明は外圧に屈して滅びたじゃないか、徳川幕府が外圧で倒れたのだって同じじゃないか
…というだろうが、しかし外圧に屈して衰退したのはアテネ型の文明も同じ。
むしろ、アテネ型の文明が内部抗争と外圧によるダブルパンチでコスト増大し、それで内部崩壊してこそ、残った強者たちがスパルタ型文明を構築して強靭な長期安定に移行していく。
いわば、スパルタ型の文明は大きくガッチリと型にはまったギアであり、アテネ型の文明はそのギアチェンジの過程でしかなかったのでは?
─ というのが僕なりの考え方である。
(ついでに言えば、中華文明圏などはほとんどの時期でスパルタ型の長期安定文明に移行出来なかったところに悲劇性がある。) 

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② さて、ここでちょっと面白い思考実験をしてみよう。
たとえば ─
「もしも」現在のテクノロジー(マテリアル)が古代ギリシアに存在していたのなら、それを活用して勝者になったのはアテネであっただろうか、それともスパルタだったであろうか。
きっとスパルタだろう。
アテネではビジネスは発達しただろうが、テクノロジーを使いこなすことは出来なかったに違いない。
だが、古代ギリシアにおいてそもそも現在のテクノロジー(マテリアル)が存在し得たであろうか。
…もっとも、この仮説が正しいかどうか、従来の世界史科では模索のしようがない。

そんなこと、想定して何になるのか、何の成果があるのか、と反論されることは百も承知の上。
だが、それでも言いたい。
歴史の勉強における本当の意義は、「ある時代のある領域・民族において、何が必然であり、何が偶然であったのか」を見極めること
つまり、「論理的な可変性」の模索である。
もし、すべては必然であったのだ、(だから、たとえばアテネの歴史が世界のベーシックデザインとなったのだ) とするのなら、世界史などいちいち勉強する必要が無いのですよ。
分かりますか?いや、このくらいの理屈は分かるでしょう。

この「論理的な可変性」は、「多様性」の尊重とは異なると考える。
どこかで書いたことの繰り返しになるが ─ 
およそ高校教育の社会科は、いわゆる多様性を価値観という美辞麗句で礼賛している「ように見える」。
しかしなにが必然的な現実で、なにが偶然の作用であったのか、そこを見極めずして、価値観もその多様性も検証する意味がない。

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③ それでは、少なくとも学校で教える(そして大学進学で問われる)世界史はどうか。
その学習において、「論理的な可変性」の追求が顕在化されていない。

たとえば、民主主義こそ世界史だ…という必然論をおくのなら、民主的とは見做されていない中国が世界経済の躍進者だ、とはどういう意味か(真実といえるのか)。
また法律の歴史についてほとんど教えていないのは何故か?

市場経済こそが世界史だ…という必然論に沿うならば、産業と貿易と金融と人口論についてアングロサクソンまわりしか触れていないのは何故か?
それ以前に、富、経済、生産、会計、産業についての定義が世界史教育で全く為されていないのは何故?
(かつ、資本主義という言葉だけが近代以降の悪徳の権化のごとく定義されているのも妙だ。)

科学技術こそが世界史だぞ…というならば、我々は利便性と衛生と暴力をこれすべて科学技術「のみ」から突然獲得したことになる。
が、科学技術の進展において地域差が発生し今も厳然と在る理由をどうして説明しないのか?
それに、数学や錬金術や料理や衣服や武器の進歩についてほとんど記述が無いのもおかしい。
(英語の入試問題ではこれらについて幾らでも出題されているのに…。)

いやいや、道徳と文化こそが世界史の根源だ…というかもしれない、それに本当はこれが真相のようにも考えられる。
が、道徳と文化こそが人知の最も根源的な必然であるならば、どうしてある道徳や文化が普遍し拡大し、別の文化道徳は黙殺され退廃消失していくのか?

「全てには何の意味も方向も無かったのですよ、我々の祖先たちは皆が天使でありまた罪人なのですよ、世界史は不条理に嘆息するための学問なのです」 などと教えてよいはずがない。
人間性の短期的な、あるいは長期的な不条理の属性については、学校ではなく、実社会で学ぶべきであろう。

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④具体的には;

(1) 道徳と文化の歴史
(2) 生産技術と科学の歴史 (地理科と連携)
(3) 市場と国家の歴史 
(4) 法と権利の歴史
という4本立てで、歴史の各フェーズを(1)→(2)→(3)→(4) というオーダーで学べばよかろう。
このオーダーこそが、必然的な要因→偶発的な事象という可変性の追求に則っていると考えるからである。
さらに、このような歴史の章立てを再構築すれば、それぞれ頭にも収まりやすいだろうと考える。

一方で、現行の世界史科の教育は…
まず(4)を絶対的な必然(正義)と教え、それに基いて(3)がありうるとし、だが(2)とのつながりがほとんど明らかにされず、まして(1)となると全く別範疇の扱い。
つまり…まず法と権利が人類の絶対的な必然であり、そこから幸運にも交換市場と経済規模拡大が生み出され、一方では何か突発的に科学技術が生じ、さらにほとんど無関係に道徳文化が生じるということになる。
アテネの歴史概略など、まさにそのように説いているではないか。


もちろん、何が必然的な要件であり、何が偶然の展開であったのか、ここに記した私案に則れば必ず判然とする、とは言わない。
歴史は可変性についていろいろ思案を巡らせるための学問であろうから、その必然と偶然の組み合わせはもっともっと多岐に亘る現実データを捕捉しなければならないだろう。
だから、今回の結論として ─
世界史という教科は、理科や地理や宗教や政治経済から切り離された学習分野としてはならない。

以上



謝辞

ここに提示の記事は、いずれも私自身の判断責任のもと編集・投稿したものです。

大半の投稿は学生など若年層向けを意図してやや平易な表現にて、通俗性は極力回避しつつ、論旨の明示性を重視しつつ書き綴りました。あわせてまた、社会人の皆様にお読み頂くことも想定しつつ、汎用性高い観念知識を相応に動員しながら記した積もりです。

私なりの思考着想によるささやかな閃きが、皆様の諸活動にて何らかの光源たり得れば、望外の喜びであります。

山本