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東京都立川市出身、慶應義塾大学卒業、某電機メーカ勤務にてソフトウェアシステムの海外プリセールス等を経て、現在は教育関連に従事

2014/12/31

【読書メモ】 バランスシートで読みとく世界経済史

かつて僕が営業マンのはしくれだったころ、新自由主義だのという無意味な旗印が産業界に跋扈し、肩で風切っていた自称・ビジネス通の連中がやたらめったら 「バランスシートの回復だ、リストラ断行だ」 なんだと威勢よいものの、一方ではどこか焦燥感に煽られてもいた。 
あまねく企業の資本の大きさを誉めそやしつつ、負債の大きさを突いて危機を煽り、さらにはそんな子供っぽい安直さを自嘲して、「猫も杓子もバランスシート」などという揶揄が流行ったり。
僕なりにも、バランスシートについて一通りは其処ここで説明を受けてはいたものの、でも英国式とアメリカ式では資産や資本の列記方式がやや異なっておるなど、どうも仔細までの実務理解には至らなかった。
さて、企業実務そのものはともかくとしても、せめてヨリ包括的なバランスシート論について学んでみたいものだ、と僕なりに常々考えてはいた。
だからこそ、今回紹介の本について概括したい。
【バランスシートで読みとく世界経済史 ジェーン・グリーソン・ホワイト 著 日経BP】 

僕が読んだ日訳版は本年10月に出たばかり、英語原題はズバリ Double Entry つまり複式簿記、つまりバランスシート。
我々日本人はバランスシートという主題から上述のように資本(カネ)の多寡を連想しがち、しかしながら、本書をほぼ一貫しているメッセージは資本や負債の規模比較論ではけしてない。
むしろ、複式簿記の発明から始まった資本と事業(利益)の分離であり、それが商業史上ひいては経済史上において果たし得た功/罪を炙り出しつつ、こんご更に如何なるフェアネスをたらしうるかと問いかけるものである。
そう捉えてみれば、複式簿記という史上最大のイノヴェーションにあたかも聖書のような啓発力を見てとらんとする巨視的センスはなかなかのもの。
なお、本書の著者はJaneという名前から察するに女性であろうか、そのためか引用事例の散りばめ方が実に楽しくバラエティに富み、ところどころには政治経済科や世界史科の副教材として薦めたいほどの決定的なエピソードもある。

※ あらかじめ僕なりに記しおくが、複式簿記=バランスシート上の「資産(asset)」 と 「資本(capital)」について,、ここではごく大雑把に、「資産」 が 「事業活動継続のために買っちゃった不動産や財貨や在庫やカネの総額」 を指し、「資本」 は 「資産獲得の源泉としてのカネ、株式会社なら株式と負債の総額」 を指す ─ よって両方の「総額」は必ず一致する、と了解しおく。
また、借方と貸方という用語定義の深淵は僕には分からない。

さて此度の【読書メモ】にては、特筆すべき刷新的な事実に絞りつつ、第4章以降から抜粋概括することとした。 



・ルカ=パチョーリが 『算術・幾何・比および比例全集(スンマの書、1494年)』 における 『計算および記録に関する詳説』 にて総括した、ヴェネツィア式の複式勘定簿記について。
そこで商人たちに奨励している記入要領 ─ ただし本箇所は実際のバランスシートを総括的に想起しつつ読み抜いた方がむしろ理解は早い。

① 自身の所有する全ての資産を、流動性(交換性)の高いカネや宝石などから順に不動産に至るまで、名目を分けて目録とする。
② つぎに取引帳簿を3冊…これは日記帳、仕分帳、元帳
このうち;
②-1 日記帳は、全ての資産の売買取引を毎日、毎時間、場所まで正確に一時記録するメモのこと。
②-2 この日記帳に則り、仕訳帳ではそれぞれの資産別の売買取引を、市場での取引価格にのっとって記す。
そのさい、取引した資産別に個別勘定とし、借方から記入し、対応させて貸方に記す。
ただし最初に、カネは流動資産として借方におきつつ、一方では財産=自己資本として貸方におく(…ここに最も根源的な革新性ありや)。
次に、売買した資産の名目と数量をそれぞれ借方に記しつつ、対応するカネを資本として貸方におき、個別勘定のリストを完結する。
②ー3 こうして、カネとそれ以外の資産での個別勘定の仕訳帳が出来たら、それらを元帳に転記、ただし今度はカネとそれ以外の資産それぞれにおいて、「借方=資産」は幾ら、「貸方=資本(と負債)」が幾らと分離したリストを記す。 

さらに自身の資産の個別勘定とは別に、商売手数料や為替手形の扱い、銀行とのカネ取引も仕分帳に記し、やはり借方=資産と貸方=資本に分けて元帳に転記。

以上の慎重なステップを踏んでまとめられる元帳こそが、典型的なダブルエントリーつまり複式簿記方式の帳簿、ひいてはバランスシートであり、「借方=資産」と「貸方=資本(と負債)」を過不足漏れなく確認するための画期的な発明となった。
この元帳における、各勘定の「借方=資産」と「貸方=資本」の差額をトータルに合算すれば、これがすなわち損益勘定、プラマイを最後に資本の部に記しておわり。
(各資産の取引ごとに損と得をおいかけていても、どこでどんなカネが出入りしたか、もともと誰のカネで誰が債権者なのかなどが判りにくい。)

・19世紀には、産業革命と事業規模の格段の拡大の過程で、株式会社が本格的に勃興。
英国の多くの事業家たちは複式簿記の活用を通じて商業上の成否分析を進めたが、そこからさらに進んで、非商業的な事業要因としての労務費ほか固定費圧縮と大量生産の効用までをも見出していった。
こうして、いわゆる工業簿記と原価計算の技術向上がおこり、19世紀末にはこれらが英国にて『工場会計』として理論的にまとめられることになった。 

・一方では、19世紀なかば以降、鉄道会社が大規模な株式会社として登場、だが事業規模の大きさに乗じて、利益水増しや株主資本の配当転用など不公正な会計操作を頻発させた。
これら不祥事がきっかけとなって、資本運用の自由という従来観念が見直され、複式簿記に則った資本と事業利益の明確な分離が求められるようになり、そして有限責任の観念、株主総会や社外監査などが会社法として制度的に整備されていった。
さらに巨大な設備資産の減価償却、人為的な会計年度の設定も制度化されていった。
そしてこれらの過程で、複式簿記に精通した会計士が職業として確立。

・一方でアメリカでは、独立戦争前後から会社設立が増え、そのご時代が下るにつれて英国の会社法など規制から逃れるかたちで企業家が事業を拡大、やがて19世紀末には英国同様に会計士も増えていった。
20世紀に入ると、複式簿記は英連邦、ヨーロッパ主要国、アメリカなどにて、企業の財務諸表を作る上で最適な手段と見なされるに至った。

・ドイツの経済学者ゾンバルトは、マルクスの言さえも参考としつつ、資本主義の起源がまさに複式簿記にあると指摘。
複式簿記の発明が事業における諸要素の数値化、ひいては理論化を徹底させつつ、とくに資本を事業資産から区別させてきたことで利益追求を精確に継続させることになった由。
マックス=ウェーバーもほぼ同意見であったが、かつ、こうして資本主義型経営の理論化ひいては費用対効果の追求が進めば、世界のあらゆる資源がここに組み込まれ燃焼されつくしてしまう旨を危惧してもいる。

・世界大恐慌から第二次大戦の只中では、インフレと失業増加と政府支出増大への懸念から、複式簿記に則った資本と事業の分離の着想が国家レベルで試させることになり、資本(通貨)の総需要をふまえた政策的な統制介入がなされることになった。
ケインズは国民経済を通貨のシステムとして捉え、社会全体の「購買力」と、失業者が働いた「場合の生産量」を通貨で測定すれば、この需給ギャップ換算額に応じた政府の追加投入金額も算出出来るとした。
消費額、投資額、貯蓄額というマクロ変数としての通貨に加え、家計、企業、政府、海外という経済部門の活動も通貨にて定数化、これらを総括した国民所得勘定の作成を提案。

・クズネッツがローズヴェルト大統領政権下で提示した国民所得表がもとになり、アメリカは戦時下の国民総支出を精緻に算出出来、だから戦争財源も明確になり、これらがもとになって国民総生産(GNP)が算出されるに至った。
やがて、第二次大戦後に向かう過程では戦時から平時への国際資本体制づくりも具体化がすすみ、国際復興開発銀行(世銀)と国際通貨基金が米ドル運用ベースで発足するに至ったことは、周知の通り。
それとともに国際収支統計も整備されていくことになり、マーシャル=プランが…と現代史はつづく。

・1991年、アメリカのカラザーズとエスペランドが発表した会計と修辞学についての論文は、複式簿記が本来有する記号的で強力な説得力を指摘、あるいは危惧したもの。

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以上、ざーっとまとめてみた。
本書はさらに、ロイヤルバンク・オブ・スコットランドやエンロンなどの巨大な粉飾決算事件にも触れつつ、ここいらが会計学や会計士職能の限界なのか、いやまだ職能としては始まりに過ぎぬのかと問いかける。
それどころか、GDP(GNP)に代わる新たな「地球経済会計の尺度」は如何様なものとなろうか、と巨大な問題提起を以て本書をとりあえずは終わらせている。
ただ、複式簿記から始まる資本と事業(利益)の分離は、資本主義経済において、公正性という崇高なメリットと強欲というリスクを常に併せ持つ叡智であることは間違いなかろう。

以上

2014/12/12

アモルファス


「あなたって、ちっとも優しくなかったわね」
「そんなことないよ、俺は性根は優しい男なんだ」
「…でも、あたしに対しては、ち~っとも優しくなかった…!」
「だから?」
「あなたって、冷たい」
「ふん。もういいじゃないか」」
「うん、もういいわ、あなたは私に対して、いーっつも冷たかった」
「それはそうかもしれないが、でもね、君だって、俺にはいつも退屈だったぞ」
「そうよ、あたしはちゃんとした男性に対してしか、誠意を尽くさないことにしているの」
「だから退屈なんだよ、君は」
「いいわよ、あたしは退屈な女なのよ、退屈な男性に対しては」
「そういう女だから、君は退屈だって、言ってんだよ」
「そうね、もう、それでいいわ、あなたはそういう男だから、もうそれでいいの」
「君はどうも、分かってないんだなあ、さっぱり」
「分かってないのは、あなたの方なのよ、ひとの気持ちが全然分かってないの!」

「さーて、ここでお別れだ、俺はね、右の道を行く、だから君は左の道を行けばいいよ」
「そうね、これでお別れね、もう会うことは無いのね…」
「うん、二度と無いだろうな」
「それじゃあ、さよなら」
「…ちょっと待て、おい」
「なによ」
「やっぱり、俺が左の道を行くから、君が右側の道を」
「ふふっ…どっちでもいいわよ、じゃあ、そういうことで、さようなら」
「そうだな、サヨウナラだ」
「…ねえ」
「なんだよ?」
「雨が降ってきたわよ」
「いいよ、俺は濡れていく」
「でも、風邪をひくわよ」
「君には関係ないよ」
「そうね…じゃあ、さよなら!」

「おいっ、ちょっと待て」
「なによ?!」
「今、ふと思いついたんだが…もしも、この次に君と出会ったら、その時は俺はどうすればいい?」
「知らんぷりしてくれればいいわ、無視してくれればいいわよ」
「そうか、ふーん」
「そうよ、つまらないこと訊かないで、バッカみたい!」
「そうだな、俺は退屈な男だ。でも君だってヘンな動物みたいだぞ」
「いいわよ、ヘンな動物で…!」

「さーて、それじゃあここであらためて、ヘンな動物とお別れだ。えーと…あれ?君が右の道を行くんだったっけ?」
「さぁ、どっちだったかしら」
「いや、俺が右を選んで、君が左から去っていく、だったかな」
「…ねえ?」
「なんだ」
「ここじゃ寒いから、一緒に右の道を交差点まで行って、そこでお別れってことにしない?」
「馬鹿だな、君は。それで今度は、交差点の喫茶店で雨宿り、ってことになるかもしれないだろう」
「ふん。馬鹿でいいわ。じゃああたしは行くから」
「待てよ、本当にこっちの道でいいのか?おーーい!」


(ずっと続く)

2014/12/07

【読書メモ】 世界はデタラメ

概して理数系の諸分野が難しく感じられる理由は、観察対象を貪欲に分析しつつ、定義付けの困難な領域にまで踏み込んでいくという主客混交性と相対性(ダイナミズム)にあるように思われてならない。
今回紹介する本こそは、理数系学問における主客混交のスケール観を大胆に押し出した一冊といえようか。
世界はデタラメ ランダム宇宙の科学と生活 ブライアン=クレッグ 著 / 竹内薫 訳 NTT出版

原題は Science and Life in a Random Universe とあり、(なぜ life を生活と日訳したかは分からぬが)、今般の日訳版は本年7月に初版発行。
著者のクレッグ氏は英国の著名なサイエンスライターで、ほら物理学はこんなに易しいよ、ほらほら統計学や数理確率論とはこういう知恵なのだよ、などと優しく解きほぐす筆致、そして一方では宇宙や世界の「わからなさ」を多くの文脈によって炙り出していく構成が楽しい。
また、日訳された竹内氏も我が国ですっかり著名な科学者かつサイエンスライター、とりわけ本書の日訳にては動的観念の名詞化における卓絶さが光り、緊張感バツグンである。

さて、最初の数章を読み進めれば、根底を一貫しつつも最大難度の観念として挙げられている主題が 「無作為性」 である。
察するに、恐らく英語原文では randomness ではないか…そうだな、なんらかのものにおける、人知によっては何ら規則性を見出すこと出来ぬ不規則な状態、とでもとりあえず括っておこうか。
その「無作為性」が、本書では総じて三段階に分類されている、と僕なりに読み取ったつもり。

・まず、人間世界における「古典的な無作為性」であって、人間が何らかの妄信を見出してしまうものたとえば、ルーレットやくじにおいて、なんとなく当たるような気がする数字配列、などなど。
・次に、やはり人間世界での「古典的な無作為性」ではあるが、人間が統計学によって過去の諸事実を個別化し、そして数理確率によって未来予測をパターン化しえた(はずの)領域。
そして、これが圧倒的なのだが、はるか人知了承を超えて巨大に宇宙をつらぬくであろう「カオス的な無作為性」。

さぁこうなると、物理学や統計学や数理確率論などなどに通じた人々は、「どれどれ、俺ならもっと精確に読解してやるのだが」、などと食指を動かされるのではなかろうか?
そうでしょうね、どうぞお読みください、きっと楽しい本ですよ。

ともかく今回は僕なりに関心抱いたコンテンツに絞って以下紹介しおく。



・人間が数理判断のみではなく信頼感覚によっても経済活動をおこす由を明かす 「最後通牒ゲーム」
…これは本年の慶應総合政策の一般入試英文でも引用された、心理試験の一例。
本書の随所にて引用紹介されている、功罪切り分け困難な実証実験や社会制度についての事例は、学術性の高さに辟易せぬ覚悟さえあれば、大学入試の重要な参考文献たりうるものともいえよう。

・18世紀の数学者ベルヌーイは、投資(賭け)における期待値と確率のパラドックスを記した。
つまり、ある投資における期待値を場合数ごとに確率計算し、それを集積すれば、なんと「期待値は無限大」となる ━ もちろんこんなことはありえない由。
そして現実に立ち返れば、確かに投資先の会社が倒産するなど、カオスとしてのリスクは存在する。

・いわゆる正規分布図は、抽出されたデータの「数値上の信頼度」をあらわす、ということは、「無作為なデータの少なさ」も表している。
正規分布図における標準偏差=σ(シグマ)値が、無作為なデータの抽出率の小ささを示す。
計算上、或る正規分布図で仮にその抽出データの信頼度が95%である場合、σ値は2となり、2012年のヒッグス粒子発見(とおぼしき)のケースではデータのσ値は5で、これは抽出データのうち無作為なものはわずか350万分の1に過ぎないことを表したもの。

しかしながら、これはあくまで抽出データにおける数理確率の話。
ヒッグス粒子が「存在しない確率が極めて小さい」 と反証的には導けても、「だからヒッグス粒子がほぼ確実に存在するのだ」 との実証にはならぬ。

・生物学の世界では、いわゆるインテリジェント=デザイン論を推す人たちがいる。
インテリジェント=デザイン論とは、生命の器官/機構の進化がおのおの個体にとって、初めから、そして必ず、有益なものに発展を遂げるようになっている、と説く論理。
たとえば、単細胞生物の繊毛はプロペラのように進化「することになっている(なっていた)」 という前提をおく。
そう主張する根拠は、生命の器官/機構が 「無作為な試行錯誤の段階を経つつ漸進的に有益になっていくはずがない」、というもの。

もちろん、「はずがない」 というのはあくまでインテリジェント=デザイン論という名の仮説にすぎず、実際の生物史をすべて俯瞰してこれが真実であると言い切れるはずがない。

・人間なりに観察しうる量子論にのっとれば、駐車場に停めた車の全ての原子が横移動して駐車場の外へ出て行ってしまうことだって、可能である。
しかし人間なりの確率論に則って考えると、実際にそのことが起こるまでには、宇宙が出来てからこれまでの時間よりももっと長い時間を待つことになりそうである。
そのころまでに実際の宇宙がどうなっているのか、どうして分かり得ようか?
(※ なお、何ヶ月も前に僕なりの超短編で「ランダム」というのを書いたことがあったが、この時の着想は、人間の認識しうる無作為性が本当に宇宙にとって無作為なのかどうか、ほわんと抱いた疑問による。)

宇宙に実在するすべての原子分子が、たまたま元通りになることもありえるだろうか?
現実には、恒星の核融合反応は水素→ヘリウム→鉄と、徐々に重い元素をもたらす、が、鉄を超える重量元素を生み出すにはエネルギー不足で、そのエネルギー源としては超新星の爆発が必要である。
尤も、たしかに重い元素は放射性崩壊して軽い元素もつくりだすし、宇宙にはどの恒星にも含まれない水素やヘリウムだって在る、とはいえ、熱力学エントロピーみれば宇宙は無秩序に向かっており、現在確認されている宇宙のエネルギー量を鑑みるかぎりでは、宇宙が元の状態に戻ることは考えにくい。
ただ、地球という系が太陽によってエネルギーを得ているように、現在知られている宇宙という系だって、本当は「まだ知られざる別の宇宙からのエネルギー」を得ているのかもしれない。

・人間は或る行為(思考も含め)を自己パターン化する習性がある。
概して、パターン化を物理学的にみれば、これは或るなんらかの系において、新たな「仕事」を「起こさない」こと。
パターン化によって、その系ではエントロピーを減少させ続けることが出来る、が、パターン化のためには外部からの投入エネルギーはどんどん大きくしなければならない。

・原因や理由はともかくとして、人間のうちには、無秩序な「自由意思」がある。
たとえば脳は、人間自身の意思決定(のつもり)以前に無意識に活動を起こしていること、60年代のアメリカ科学者リベットの実験以降は定説である。
もし「自由意思」の存在が認められないのなら、あらゆる人間のあらゆる行為は量子レベルからみても「すべて必然的になされる」、ということになる。
本当にそうならば、必然的な行為を常に起こす人間が、別の必然的な人間の起こした必然的な行為を、法によって裁定することなど許されるわけがない。

以上

2014/11/23

消費税投票


衆議院の解散総選挙が決まった。
国政選挙も、地方選挙であっても、住民には投票の権利=議会への権限委譲の権利はある。
しかし、義務はない。
と、いうことは、民間市場 vs 政策という最も根本的な対立構図において、民間市場が優位であり政策は下位であることを、政策サイド自身が認めていることになる。
ここまでは、いいですね?

さて次に、そもそも消費税率について、これを一律化しているのは不自然。
みなが認めているとおり、消費税には所得に反した逆進性が有る。
所得の高い人間ほど有利で、所得低い人間ほど不利である。
これも、よいですね?

さて、ここまでふまえた上で。
議会に消費税率の裁決を委譲するのはおかしい。
消費税率は、消費者そして受益者たる全国民の民間市場に最も直接影響をおよぼす数値である。
だから、どうしても全国民の一律化にするのなら、議会に決定権を委譲などせず、国民投票で合意すべきじゃないのか?
消費者として、かつ事業者としての全国民が(むろん官僚も学者も議員もふくめて)、おのが生活やビジネスを鑑み、希望消費税率を5%とか、3%とか、0、5%とか0.05%などなど、自由に書き込んで投票し、平均値を取ればよいではないか。

同様の理由から、国債も長期金利も民間経済に拠ってこそ成立しているわけで、やはり全国民が直接希望の数値を投票すべきである。

いやいや、それだと「インフレ率やGDP成長率に不勉強なバカが自己都合だけでわがままな数値を書き入れるだろう」から、ダメだ ─ と政策サイドからはすぐに反論がなされよう。
でも、そういう理屈が妙なんだよね。
だってさ、インフレ率ターゲット2%とかGDP成長目標などは国際的なリファレンスにすぎず、本当は各国の国民の産業もエネルギーも実生活も千差万別。
だからインタゲやGDPの方が極めて大雑把な参考値、もっといえば虚構に過ぎないでしょう。
そんな虚構に則って消費税率を議会が裁決するのはおかしいと言ってるんだ。


なお、民間市場 vs 政策の対立構図において、政策が上位にたつ範疇としては、国防が挙げられる。
国防にしたって、論理的には国民ひとりひとりが武装しなければ、成り立たないはず。
ただ、そうすると国民のうちでもバカな連中が銃器や爆弾で暴れ、我が国の治安をメチャクチャに破壊しかねないから、国民は武装してはならず、武装の権利は自衛隊や警察に委ねている。
また一方では、みんなで一緒に中国や北朝鮮に殺されてもいいじゃないかなどと言う世代や集団も存在する「かもしれず」、そうなると国内で内戦だっておこりうる。
だから、国防のための武装はとりあえず政策に一任するしかなかろう。
(…と僕なりに考えている、だって他に国民の武装を否定する理由が思い当たらないもんね。)


民間市場 vs 政策、そして、国民自身による国防 vs 特定権力による国防。 
たぶん議会制が始まって以来ずっと続いている議論。
これらの対立にいったいどういう結論をもって収拾をつけるのか。
いやそもそも、結論などあるのか?
もし結論の出しようがないというのなら ─ 変化そのものを永続させる民間市場のダイナミズムが常に真理で、微積分だの接線角度などは常に暫定フィクションでしかない。
そこんところふまえつつ、選挙にいくかどうするか決めよう。

以上

2014/11/21

【読書メモ】 生命とは何だろう?

実際に起こっている現象について、我々人間がそこになんらかの普遍性を見出せば、その普遍的な論理をまとめて自然科学に格上げ出来よう。
がしかし、特殊な現象ばかりがバラバラに確認されるのであれば、それらどれだけ束ねても自然科学とはいえまい。
この見方からすれば、生命の在り方は、完全な自然科学とはいえない。
いつだったか養老孟司氏が何らかの講演にて、「顕在化しているあらゆる生命現象は疫学的な統計に過ぎない。他の自然科学のように或るインプットに対して特定のアウトプットが必然的に確認されるものではない」 といった由を強調されていた。
また養老氏と福岡伸一氏による別の講演では、「どの生命個体もそれ自体が周辺物質から独立完結した存在ではなく、むしろ何らかのかたちで周辺物質と補完しあう流動的存在である」 旨 ─ とくに福岡伸一氏のいわゆる動的平衡論を総論に据えられていたと記憶している。

なるほど、生命現象は化学や物理学のような観察可能な再現性には欠けるのであろう…クローン、ヒトゲノム、放射線、万能細胞と、いずれも巷間議論が喧しい理由もそこにあるのではないか。
が、そうはいっても、現に生命論が生物学としてひとつの学問体系となっている以上は、「ある程度」までは自然科学的に=つまり論理的に説明がなされているはずである。
いったい、どの程度まで?

そんなことを考えつつ、ふと思い出したのが、昨年初めに発行されて読み進めていた今般紹介の本である。
『生命とは何だろう? 長沼 毅・著 集英社インターナショナル刊』
本書は、生命がどこまで化学や物理学の複合的な考察対象か、そしてどこからが仮説であるかを実に明瞭に解き明かす。
文面こそ平易に抑えられてはいるが、たとえ僕のような素人でも理知的な充足感は抜群、さらに著者の見識交えた斬新な仮説の数々はしばしばスリル満点。
まして、自然化学全般に見識高い社会人や学生であれば一晩で読み抜いてしまうのではないか。
しばらく以前に、本ブログにて松井孝典氏のアストロバイオロジーに関する著書を紹介したが、寧ろこの「生命とはなんだろう?」におけるコンテンツをキッチリと押さえて以降に松井氏のアストロバイオロジー本に進んだ方が、ヨリ包括的に理解が進むかもしれない。

では僕なりの【読書メモ】として、本書内容のうち特に関心惹かれた内容をいくつか以下に列記しおく。
ただ、化学や物理学にさえも明るくない僕なりのメモゆえ、高度に複合的な仮説の紹介は避け、基幹的なコンテンツの案内に留めたつもり。



・1953年のスタンリー・ミラーによる、分子ガス(メタン、水素、アンモニア、水蒸気)と高圧放電の想定実験以来、原初の地球環境を模した生命生成実験が数多くなされ続け、これらによって、単純な無機物を素材として複雑な分子構造の有機物(アミノ酸、糖、核酸など)が微量に生成されるところまでは確かめられた。
しかし、タンパク質の生成にはいまだに成功していない。
タンパク質は50~100個のアミノ酸分子連結によって初めて生成される。
さらに、多くの想定では地球の原初の海が高温であったことが前提となっているが、じっさいは温度が高すぎると(130℃を超えると)タンパク質分子が壊れる。

・そこで、生命体のタンパク質がはじめて生成された場所は、低温の海水がマグマ溜まりの岩石で加熱されて熱水循環がおこる箇所、たとえば海底火山の熱水噴出孔ではないか、という説が有力となったこともある。
しかしこの熱水噴出孔の説のとおりとすれば、タンパク質の生成につながらない有機物が多く出来過ぎてしまう。
また、分子がつながる際には水分子による脱水反応をもたらすが、海中であったなら分子に脱水反応が起こり難く、分子がつながり難かったはず。

・いまや、1988年のヴェヒターショイザーによる表面代謝説がとりわけ有力である。
これによると、海底火山における硫化鉄が黄鉄鉱に変わるさいの化学エネルギーをもとに、原始の地球で大半を占めていた二酸化炭素から様々な有機物が生成された、というもの。
黄鉄鉱は鉱物ゆえ表面に分子が結合し易く、しかもここなら脱水反応を起こし易いので分子結合も長くなりうる。
さらにこの黄鉄鉱は海底ながらも表面積が極めて大きかったことが想定され、だからそのどこかでアミノ酸分子が何百もつながってタンパク質が生成されたのでは。

・ところで、宇宙の彗星には有機物と氷で覆われたものもある。
これに宇宙の放射線や太陽紫外線があたると、その有機体が壊れ、その壊れる過程でアミノ酸も出来うるし、また氷は溶けて水になりうる。
その状態にて、さらに太陽系外からとてつもなく巨大な宇宙線があたると、アミノ酸分子をたとえば100個くらい同時につなげるような反応が起こりうるのではないか。

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・生命の特徴は、代謝、増殖、細胞膜、進化に総括出来る。
これらのうち、地球生命は全ての特徴を有し、また仮に地球外生命が存在しても代謝だけは行っているはずである。
代謝は、定義上二つあって、一つは細胞内の物質入れ替えを指す物質代謝であり、もう一つはエネルギー代謝である。

物質代謝として、生物は一定の時間が経つと古い細胞を捨てるが、このさいに取捨選択の論理判断エネルギーは発生させない。
ともかく一定時間が経つと無条件に古い細胞と新しい細胞が入れ替わり、しかも自己の構造は維持し続ける。
たとえば人間は毎日5、000億個の細胞が入れ替わるが、やはり自己の構造を維持し続けている。

エネルギー代謝としてみれば、生物は実に不思議な活動をしている。
物理学者のシュレーディンガーは、「生命はエネルギーでも物質でもなく、負のエントロピーを食べている」、と解釈した。
まず、生命はエネルギー代謝によって新たなエネルギーをおのれに注入し続けている (だからその生命自身はエントロピー増大に反した活動を続けている)。
かつ、宇宙全体でみれば、或る空間におけるエネルギーが保持され続けている場合、その周辺のエネルギーは費やされ続けている (周辺のエントロピーを増大させている)。
これらまとめて捉えれば ─ 生命はおのれの維持のために、おのれ以外の全宇宙のエネルギーの死 (エントロピーの熱的な死)を早めていることになる。
※ この段は、僕自身の熱力学に対する見識はさておいて、人間社会そのものをも示唆的に俯瞰した巨大な達観のようでもあり、なかなか面白い。

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・DNAの塩基は4種類で、A(アデニン)、G(グアニン)、C(シトシン)、T(チミン)の極めて巨大な配列と、その対から成る。
では、生命活動を導く塩基の配列のうち、「最小単位」はどんな配列だろうか?

クレイグ=ヴェンターは、100万の塩基対のDNAを人工合成。
尤も、これは或る現存する微生物のDNAを元に設計したもの。
仮に、何にも拠らずに全く新規のDNA塩基を合成する場合、そもそもA,G,C,Tの4種の塩基が50万個連なる、その論理的な順列は4の50万乗となる。
この膨大なとりあわせの塩基とその対をもって、それら一つ一つが生命活動を導くかどうかを実証しなければならない。
(なおこの順列の数は全宇宙の原子総数つまり10の80乗個より遥かに多い。)
それでも、もし何らかのテクノロジーをもってこの実証が可能となれば、生命活動を導くDNA塩基の最小配列が導けるかもしれない。

・とはいえ、DNA塩基列はあくまでも生命活動のプログラムであって、実際に生命を動かしているのは細胞質である。
細胞質は未だ人工的に作られていない、だから生命活動の実証にはまだ程遠い。

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・生命の突然変異は、「環境に適合するため」のみではない。
環境による淘汰を受けなければ、突然変異による何らかの遊びの部分は残存し続け、さらに多様性をもたらす。
そして、環境による淘汰を受けてこそ、特定の種の形質が似たようなものに収斂する。

・オウムガイのらせん形と木の枝の広がり方は、ともに数式によって表現出来る ─ ということは何らかの力学原理が働いていると考えられる。
オオコノハムシの外見は木の葉にそっくりであり、これはオオコノハムシに働いた何らかの力学が、木の葉の葉脈における力学と近かったためではないか。

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・二酸化炭素に水素を結合させて、栄養分としての炭水化物を作り出し、かつ酸素を排出する、というのが生物の祖先以来ずっと続けられている生命活動の基本プロセス。
特に原初の生物は、火山ガスに含まれる硫化水素の分解プロセスを利用して水素を得、それを二酸化炭素に結合させ、自身のうちに独立栄養としての炭水化物を作り出し、酸素を排出していたと想定される。
これが可能であったのは、原初の生物が海底火山ガスにともなう赤外線を察知していたからではないか。

ところが、恐らく24億年ほど前、シアノバクテリア細菌が地球生物で初めて、「水」を「太陽光エネルギー」で分解して水素を獲得、それを二酸化炭素にぶつけて炭水化物を得たのではと考えられている。
なぜシアノバクテリアが太陽光を察知したのかといえば、太陽光も赤外線と同じく電磁波であり、何らかの突然変異で太陽光を察知するクロロフィルが出来たのではないか。

このさいの水素の源である水=海水は、硫化水素より遥かに膨大に存在していた(いる)ため、このシアノバクテリア型の水分解システムを内蔵した生物は大増殖を始め、それとともに排出する酸素量もとてつもなく多くなり、結果として地球上の酸素濃度が高まった。
また、このためにこそミトコンドリアの原型にあたる微生物も発生したと考えられている。
ミトコンドリアは有機物から電子を取って溜め込み、酸素を使ってそこからエネルギーを生み出す。

・シアノバクテリアの排出したであろう膨大な酸素は、地球をそれまで高温保持させてきたメタンガスを酸化させ、二酸化炭素にしてしまった。
メタンガスに比べ、二酸化炭素は遥かに低温化を進めるため、全地球が凍結するきっかけとなった。
海が厚い氷で覆われ、太陽光が遮られて海中に届かなくなった。
この時代を生き抜いた生物が、細胞膜を有しミトコンドリアを取り込んだ真核生物に進化した、と想定されている。

生物は酸素への耐性を高めるためにコラーゲンを使って多細胞化、生殖細胞と体細胞の分化、さらに巨大化が進み…。

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以上、このあたりで僕はそろそろついていけなくなったので筆をおく。
本書は更にさらに、大きくそして深く考察と論理を展開させていき、巨大生物、知的生物、知性と生存の意味などについて触れてゆく。
なんといっても、視座のダイナミックな転換が楽しいもの、しかし視座の転換にさいしては基礎的な着眼が必須、ゆえに、実践的な観察眼をお持ちの社会人や学生こそ、いよいよ楽しめる一冊たりえるのではなかろうか。

2014/11/17

ヒューマンタッチ

かつて僕が電機メーカで若手ホヤホヤだったころ、ほとんどどこの部署においても、常に世代をまっ二つに分けての議論があった。
概して年長者たちが主張していたことは、こういう論旨だ。

「自動車もパソコンも工業製品、だから必ず消耗する、それでも自動車は人間の必需品だが、パソコンは必需品ではない。だから自動車はずっと一定価格で売れ続けるが、パソコンはいつかタダになる」

この論題にたいして、若かった僕たちはいつも反論していた。
自動車はハードウェアだから必ず収穫逓減をおこし(売れば売るほど需要が減り)、一方でパソコンはソフトウェア次第だから収穫逓増をもたらす(売れば売るほど、ネットワーク効果でもっと売れる)。
だからパソコンはずーーーっと高値で売れ続けるが、自動車はタダ同然になるはずだ、と。
浅薄なIT本と経済論調に影響されての、僕らの持論だった。
でも、たぶん僕らの方が間違っていた。

☆   ☆   ☆

或る程度まで年齢をくった今になって、僕なりに実感すること。
自動車は人に優しいもの、つまり人間の5感のほとんどにおいて優しい構造のものほど、いつまでも売れる。
たとえば、触感(座り心地や暖かさ)、視覚(運転視野)、聴覚(音響)、嗅覚(食事)においてフィージブルなものが絶対に望ましい。
むしろ、自動車に乗っていた方が心地よくさえある。
つまり、身体への直接の効能がある。
だから、自動車はたとえ値段が下がらなくとも、買う人はやはり買い続ける。
じっさい、インフレ率(デフレ率)に大して左右されず、一定金額で売れ続けている。

一方でパソコンは、そしてスマホは、人間の5感のほとんどにおいて厳しい存在。
触感はほとんど関係ないし、視覚によいわけがないし、聴覚への効用もお粗末だし、嗅覚なんかなおさら関係ない。
いや、そんなことはないだろう、擬似的にこれら感覚に訴えるデバイスやシステムが幾らでもありうる ─ というか。
でも、擬似的にどういう仮想空間をもたらそうとも、ネットやスマホはどこまでも人体に対して虚構でしかない。
人にけして優しくはない虚構ゆえ、パソコンやスマホは値段が下がれば下がるほど、地球上のみなが喜ぶ。
テレビ機器も同じである。
観れば見るほど視力が回復するような、そんなテレビ機器があるだろうか?

☆   ☆   ☆


概して、電気製品のうちで利益を捻出させ続けることが出来るものは、エンドユーザの身体に直接はたらきかける機器、たとえば放射線、冷暖房、モーター、レーザー、照明、調理、音響の関連機材くらいではないか。
これらは人間の触覚、視覚、聴覚、嗅覚、味覚を向上させうる機材だからである。
でも、デバイス・素材は、必ずいつかタダ同然になっていくような気がしてならない。

そもそも、誰が好き好んで電子デバイスや伝送素材にカネを使うものか。
地球上の誰もが、そんなものタダになりゃいいんだと願っている。
いやいや、電子デバイスや伝送素材はあらゆる電機/電気のシステムに内蔵されており、だから、無限に売れ続ける、それにソフト開発でもたくさん稼げるじゃないか ─ というのだろうが、たぶん違う。
電子デバイスや伝送素材そのものは、人間の労務の代替機能は有るが、人間の触覚、視覚、嗅覚などに直接うったえる事はない。
だから、どこの国の誰が電子デバイスや伝送素材の生産に携わろうとも、損得と工業技術が巡り巡って、結局はいつか世界中でタダ同然になるに決まっている。
よって、関連ソフトだってタダになる。
この宿命を、国際収支における貿易赤字がどうだこうだと憂うる方がアホである。

じゃあ、発電関係のシステムはどうか、という話になるが、いや、それ以前に電気そのものに対して誰もカネなんか払いたくない。
電気そのものは、もともと触覚や視覚や聴覚や嗅覚や味覚に直接の効用が無い。 
いつも電気にビリビリ感電し、電磁波をガーガーと浴びて、それで寿命が伸びるというのならともかくだが、そんな説は聞いたことがない。
もっといえば、電気そのものの価格に絶対基準など無い。
1kw/h の価格に万国共通のレートがあるか?
発電や送電における投入コストによって、末端の電気コストが変動しているにすぎぬ。
だから、地球上の誰もが、電気代がタダになることを願っており、よって、未来のいつの日か必ず電気はタダになるに決まっている。

生産の当事者もふくめ、みんながタダになればいいと望むものは、いつか必ずタダになる。
じっさい、歴史上かつては有償であり課税すらされていたものの多くが、いまは皆にとってタダになっている。
それでも、人生の充足のために本当に必要なものは、高くても買われ続ける。
こんな簡単な経済学が、どうして分からないのだろうか?

以上 好き嫌いで書いているわけではありませんよ(笑)

2014/11/13

かがやき


さっきまでの雨はウソのように止み、東の空がきらりと晴れ渡ってきた。
レストランの窓際に座っていた僕は、ふっと伸びをした。
そこへ。
「こんにちは!」  突然、幼い声が響いた。
「やあ、こんにちは!」 僕は入り口に向かって手を振った 「こっちだよ!あれ、ずいぶん濡れたんだなぁ、傘は持ってなかったの?」
「うん、家を出てからすぐに雨が降ってきたけど、そのまま走ってきちゃった」
彼女は、僕が新築マンションの売り込みについ先週伺った家の娘である。
「そうか、大変だったんだな……ねえ!すいません!ちょっと!」僕は店員の女性を呼びつけた。
「あのね、悪いんだけどタオルを貸してくれないかな」
ただちに持ってこられたタオルを、僕はその娘に投げつけた 「ほら、頭を拭いて、それから首も。風邪ひいちゃうぞ」
「平気、平気、あたしってね、病気にはならないんだよ」
「ふーん、そうか」 僕は目を細めてほほ笑んだが、それから声色を落として囁いた 「ねえ、それで、お母さんはどうしたの?」
「来れないって」 彼女がかすかに肩で息をしているのが分かった。
「そうか……さあ、ちゃんと拭いたら、そこに座りなさい」
「はーーい」
「何か、飲んでいくか……そうだ、熱いコーヒーを頼もうかな」
「はーーい」



とりあえず、話題が欲しい。
「ねえ、君、ちゃんと勉強しているのかな」
「うん、してるよ。あ!そうだ!ねえ!あたし数学のテストで100点だったんだよ!」
「そりゃすごいね!」 僕は拍手してやった。
「学年で、3人しか居なかったんだよ、100点」
「よく頑張ったね」
「あのね、お母さんがね、勉強したらもっといい家に住めるようになるって」
「今だって、いいお家だと思うよ」 僕は危うく上ずりそうになる声を懸命に押し殺しながら、笑い声でからかうように答えた。
「あっ、そうだ!それでね、お母さんが、これを渡してくれって」 彼女が小さなバッグの中から封筒を取り出した。
ぐしょぐしょに濡れた封筒だった。
僕は吹き出してしまった 「なんだこりゃ?これじゃ読めないかもしれないぞ」
「すいません」 彼女が泣き出しそうな声を上げた。
「いいから、いいから、はははは」 僕はそーっと、一通の便箋を取り出した。
文字は確かに滲んでしまっていたが、それが母親からの手紙で、マンション購入への丁重な断り状であることがはっきりと読み取れた。
僕はそれをつとめて無表情に、一気に読んだ。
その間、彼女は熱いコーヒーを、彼女はふーふーと息を吹きかけながら飲み続けた。
僕はその様をちらちらと眺めながら、あらためて笑い声を漏らしてしまった。
「なにか、おかしなことが書いてあった?」 彼女が尋ねた。
「うん、とても楽しいことが書いてあるよ」
「ねえ、どんなこと?」
「君はね、世界で一番頭のいい子なんだってさ」
「本当に?お母さんあたしのことを全然褒めないんだけどなぁ」
「そんなことは、ないと思うよ。テストで100点なんだからさ」 僕は彼女をまっすぐに見つめた。
「ねえ、もしお父さんがいたら」 彼女はぱっと顔を輝かせた 「絶対に褒めてくれるんだろうなあ」
「そりゃあ、そうだろうとも」 




やがて僕たちはレストランを出た。
「途中まで、送っていこう」 僕は彼女の少しあとから、ゆっくりとついていった。
彼女の髪にまだ少しだけ点いていた雨のしずくが、西日に反射してきらきらと輝いていた。

「ほら、虹が出ている!」 僕は高らかに言った。
「どこに?」 彼女がちらっと振り返って、怪訝そうな声を挙げた。
「どこにでも」 僕は気取った声で返答してやった。
「…ねえ、本当に、勉強したらいい家に住めるのかなぁ」 
「今だって、とってもいい家だよ」 僕はまた声色に工夫しながら答えた。



そして、僕たちは、川の陸橋に着いた。
「さあ、それじゃあここでお別れだよ。お家に帰ったらね、お母さんに、ちゃんと手紙を渡したって、僕がよくわかりましたって言ってたって、そう伝えておいてね」
「はーーい」
「なあ、君」 僕はたまらなくなって声をかけた。

「この川面を見てごらん、夕陽に反射して、きらきらと輝いているだろう。いいかね、世の中、どこにでもね、きれいなものがある。世の中はね、いつでも、きれいに煌めくことがあるんだよ、ね、分かるよね」
「はーーい」
そう返事しながら、彼女はたったったっと川の向こうのアパートへと駈けていった。
僕は、その後姿をしばらく見送りながら、彼女の母親もあんな風な娘だったのかな、と空想していた。


やがて徐々に夕闇が川の向こうにとっぷりと影を落としていったが、僕は更にそこに立ち尽くしながら、あの母親ともう一度会いたいというせつない衝動に駆られ、もう、この町が大好きになっていた。


(とりあえずおわり)

2014/11/11

【読書メモ】 炭素文明論

炭素文明論  「元素の王者」が歴史を動かす 佐藤健太郎・著 新潮選書刊 
本書は昨年に初刊された世界史の動因分析本であり、サイエンスライターとして知られる著者がまとめ上げた快著。
そもそも歴史意識とは、人間のもの、ではその人間自身を突き動かしてきたモノが有ったのだろうか?
有った、それはまさにモノであった、つまり炭素であった。

本書の序章に総括されたところによれば ─  
有用な炭素化合物を発見し採集した段階こそが人類史のあけぼの、そして人為的に生産する段階、純粋に採取する段階、化学的な改変量産の段階を経て、現代はこれら有用化合物を超えた新規化合物の創造設計と製造の段階に至る、うんぬんと。
このくだりまで読んで、僕はもう本書を手にとってレジに駆け込んでいた。
ああそうか、人間は炭素化合物を段階的に発展せしめて歴史を紡いできたというわけだな…否!どうも真逆で、炭素化合物こそが人間の叡智を鍛え上げてきたと了察すべきではないか。

以前、「水が世界を支配する」 や 「理科で歴史を読み直す」 などを読んだ時もそうだったが、総じて素材論は文明/産業の新規需要を導いた偶発的起因、供給力増強に寄与したさまざまな試行錯誤、そして予期せぬ派生的事件などなど、これらを巨視的に交錯させつつ描き抜いており、よって読み手を飽きさせない。
とりわけ本書は、文明史を人間意思の段階的発展に帰着させがちな我々の視座を根底から揺さぶり、次々と引用紹介されるスケール感満点のコンテンツは学術的ながらも痛快そのもの、平易明瞭な文体と相まって実に新鮮に効く。
まさに、社会人の皆様はもとより、特に理科系も社会科系も人文系もとわず高校生含め合わせた学生諸君に一読を薦めたい快作である。

さて此度の【読書メモ】も、いつものように僕なりの随意書き留めにて、本書の章立てには特に拘泥せず、興味惹かれるままに綴ってみることにする。
なお、分子式や化学属性の仔細については、面倒かつ自信が無いのでここでは省く。



・炭素は電気的に中性で、かつ短く緊密に連結、互いに弾き合うことはない。
地表および海洋の元素分布においては、炭素は重量比で0.08%を住めるに過ぎないが、しかし天然あるいは人工の化合物のうち80%が炭素の化合物である。
多くの炭素化合物は水素に包まれて柔らかく流動的な分子=炭化水素として存在、この連結だけで何百万種以上もの炭素化合物が天然において、また人為的にも生成される。
炭化水素のうち、炭素の数が4以下であれば気体、5~十数個なら液体、それ以上であれば個体となる。
たとえば石油は、これら様々なサイズの炭化水素が混じりあったもの。

なお、人体を構成する元素のうち18%が炭素、また水分除いた体重の半分が炭素。

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・グルコース分子(ブドウ糖)は炭素と酸素に水酸基が結合した炭素化合物であり、これが燃焼して二酸化炭素と水に変化する際の化学エネルギーが、我々の活動エネルギーの大元となっている。
しかしグルコース分子における水酸基は水に溶けて流れやすいため、植物はグルコース分子をらせん状に連ねて=デンプンとしてエネルギー源を保存するようになっている。

・190万年前の人類祖先、ホモ=エレゥトゥスは、デンプン食材に人為的に水を加え加熱することで、水分子による膨化を実現、これによって容易な消化分解を覚えた。
まさにこの調理のためにこそ、彼らは火の使用を開始したのでは。
デンプンの消化分解が早くなったので、ホモ=エレクトゥス以降は短時間での摂取カロリーも増え(ただし膨化していないデンプン摂取能力は衰え)、またデンプン摂取が増えたからこそ脳の容積も大きくなったと推察される。

・世界各地で約1万3千年前ごろから大幅な気温寒冷化が始まり、多くの動物が絶滅、すでに狩猟生活でのデンプン摂取量の限界に至っていた人類は食糧が激減してしまった。
おそらくそのためにこそ、世界各地でほぼ一斉に1万年前ごろから人類祖先は農耕生活を開始、食材の計画的生産や長期保存を図った。
デンプン確保の食材として、米、稲、トウモロコシなどが有力となり、これらは変異を起こしやすい遺伝子を有するため地域や気温条件に応じた品種改良も大いになされたのだろう。
やがて寒冷期が終わると、これら作物を巡った経済や政治など人為も複雑になり、いわゆる世界史のはじまりとなる。

以降、現代まで、デンプン摂取量が人口を決定する有力要因であることに変わりはなく、稲の栽培に多くの水が必要であるように気温や環境要件に大きく依存していることもまた同様。

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・炭素と窒素の結合には、プリン骨格と称される結合形状があり、この構造は他の分子とペアを組みやすい。
こういうプリン骨格結合の化合物を、とくにプリン体と総称する。

アンモニアと青酸ガスを混ぜ合わせると、(なぜか)アデニンが生成され、これこそ地球上にはじめて出現したプリン体構造の化合物であったとともに、生命の基本物質のひとつである。
たとえば現在の生命DNAの核酸塩基4つのうち、アデニンとグアニンがプリン体。
さらにアデノシン三リン酸などをはじめ、生命体においてはプリン体が多い。

プリン体の化合物が人間の体内で酸化代謝を続けると尿酸に変化、尿酸は水に溶けにくいため身体内部で結石や動脈効果をもたらし、また針状結晶として析出すると痛風をもたらす。 
多くの哺乳類は尿酸を分解する酵素を有するが、霊長類と鳥類と一部の爬虫類はこの酵素が無い(ティラノサウルスも痛風であった)。

・一方で、尿酸の抗酸化作用が注目され、活性酸素による体内物質破壊を抑える機能がある。
ただ、かつてよく挙げられた尿酸=痛風=高知能の関係については、まったく論理的には証明されていない。

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・炭素は窒素との結合でアミノ酸も生成、アミノ酸は20種類しか存在しないが、それら単純なアミノ酸の極めて複雑な連結が生命の基本単位を成すタンパク質である。
アミノ酸のひとつがグルタミン酸であり、生物はグルタミン酸を摂取すると快楽を覚えるようになっている(母乳のアミノ酸も大半はグルタミン酸。)
さらにグルタミン酸は、人間の記憶や学習に必須の神経伝達物質である。

・昆布は乾燥重量の4%ものグルタミン酸を含み、味覚=ダシの素であるが、ほとんどが北海道など寒冷な海域で採取され、江戸時代に富山、鹿児島、沖縄などの貿易ルートを介して日本全国に広まった。
19世紀初め、薩摩藩は極端な財政破綻状態であったが、奄美や琉球で製造した砂糖を大坂で販売、その儲けでこんどは蝦夷地の昆布を大量に購入して清に輸出。
この一連の取引継続により、薩摩藩は財政の健全化、それどころかここで蓄積された資本が薩摩藩の倒幕活動の源泉ともなった。

・池田菊苗は昆布ダシをもとに、今世紀はじめにグルタミン酸の結晶抽出に成功、これを特許化し、「味の素」として生産へ。
この美味みが、日本人の食材摂取量の増加に貢献した。
味の素社は60年代にグルタミン酸を石油からも合成、あくまで分子化合物としてみれば昆布からでも石油からでも同じものであるが、科学的論拠は無きままこの製法から撤退されられている。

人間の有するグルタミン酸(の味覚)への受容体が欧米で認められたのは、2000年になってから。
最近では、脳内のグルタミン酸受容体に作用する薬として、アルツハイマー症などによる記憶力減退に対処するものなども開発されている。

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・香辛料の多くは、6個の炭素原子によるベンゼン環(芳香系)に酸素原子が結合したフェノール構造で、そこにアミノ酸のひとつであるフェニルアラニンが変換合成された化合物である。
もともと、香辛料は植物が身を守るために体内に生成した殺菌物質。

・古代エジプトでは香辛料を味付け香料のほか防腐剤や医薬として用いており、アラブやインドと取引航海を行っていた。
アレクサンドロス大王の遠征によって、香辛料は初めて西洋に持ち込まれ、食肉習慣における鮮度高い肉の必要性から、香辛料の防腐剤機能が大いに求められるようになった。
古代ローマの時代には、アレクサンドリア市からローマ市への積荷の3/4が胡椒であった。

・イスラーム勢力が勃興し拡大するとともに、香辛料は産地も消費地も地中海からインド以東にまで広がる。
そこに十字軍が侵入すると香辛料はヨーロッパにさらに浸透、ヴェネツィア商人が地中海からイスラーム世界までの香辛料取引にて莫大な利益をあげた。
やがて今度はオスマン帝国が出現し、ヴェネツィアの商業路を押さえつつアジアまで繋いだ香辛料貿易の大ネットワークを築く。

・ヨーロッパ人は、地中海もオスマン帝国も経ずにアジアに直接到達するアフリカまわりのインド洋ルートを考案、ヴァスコ=ダ=ガマがこれを実現し、香辛料貿易の更なる利益を巡る大航海時代が始まった。
なお、スペインが派したコロンブスは新大陸に到達、ここで唐辛子を新発見し、これは発汗作用が評価されて主にアジア諸地域に広まっていった。
ポルトガルはナツメグやクローヴの特産地であるモルッカ諸島までおさえ、一方スペインはマザランを起用して西回り航海でのモルッカ諸島到達をはかった結果、世界周航の実現へ。
やがてイギリスもオランダもモルッカ諸島の香辛料争奪に加わるが、アンボイナ事件や英蘭戦争などを経てオランダが独占するにいたる(この際にオランダはイギリスにマンハッタン島を譲っている。)

・18世紀にヨーロッパで、いわゆる農業革命(ノーフォーク農法やカブの品種改良など)が始まると、家畜の年間通じた飼育が可能となり、さらに冷凍法も確立された。
こうして鮮度の高い食肉が実現されたため、ヨーロッパにおける香辛料取引は鈍化していった。

・一方で、香辛料はもとより多様な香水の原材料でもあり、人工的な香水の開発はいよいよ続けられており、また唐辛子は鎮静剤としての機能も注目されて研究が進められている。

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・東ローマ帝国(ビザンツ帝国)の国防を可能ならしめた有名なギリシア火薬も、中国唐代の黒色火薬も、無機化合物である硝酸カリウムを主成分としており、硝酸カリウムにはニトロ基が含まれる。
この硝酸カリウムは窒素-酸素の不安定な結合で、ここで高密度の酸素が可燃性物質と結びついて「酸化燃焼」が起こると、これらが窒素-窒素、炭素-酸素の結合に組み替わり、これら結合エネルギーの差が爆発力になる。
(※ ここのくだりは、物理学の知識に欠ける僕にはとりわけ難解なところ。)

・中国宋代には火薬が飛び道具と結びついて、金(満州系の異民族)との抗争に用いられた。
原料のひとつに用いられた硫黄は中国ではほとんど産出されなかったので、日宋貿易の主力品として日本が硫黄を提供していた。
モンゴル帝国も火薬をイスラームの投石機で飛ばし、ヨーロッパに侵入して火薬兵器の製法を伝え、ヨーロッパでは火縄銃が作られる。
またモンゴル帝国は火薬兵器をもって金も宋も滅ぼしつつ、日本にも襲来。
オスマン帝国のメフメト2世の治下、ハンガリー人ウルバンが開発した火薬大砲が、東ローマ帝国のコンスタンティノープル陥落と帝国滅亡をもたらした。

・やはり火薬兵器の原料である硝石は硝酸カリウムの結晶であり、こちらは糞尿のアンモニアが地中の硝化細菌によって酸化イオン化したもの。
よって近代半ばまで、硝石はトイレの下から採掘していたが、インドのガンジス河で世界最大の硝石鉱床が発見されると、イギリスはインド植民地化を進めていった。

・19世紀になって化学的手法が進むと、 爆薬の成分そのものが調合されるようになり、シェーンバインによる綿火薬、ソブレロによるニトログリセリン合成へ。
ニトログリセリンは、硝酸における不安定な窒素-酸素の結合を炭素ともども極めて高密度に閉じ込めたもの、酸化燃焼の連鎖反応が極めて早く、爆発力は極めて高い。
なお、ニトログリセリンは人体内で分解されると一酸化窒素を生成、これは血管拡張作用があり、狭心症の発作を沈める効能もある。

・ニトログリセリンは液状であり取り扱い困難であったが、ノーベルが土(珪藻土)に含ませて固形化、これがダイナマイトで、鉱山開発などに大いに活用されるようになった。
ノーベルはダイナマイトが戦争の抑止力になると信じていたが、ダイナマイトは戦争においても大いに活用されてしまった。

・日本海軍の技師であった下瀬雅充は、硝酸に似たニトロ基が3つ結合した化合物であるピクリン酸を砲弾内部に入れた「下瀬火薬」を開発、これが日本海海戦でロシアのバルチック艦隊撃沈で威力発揮。
こうして砲弾による戦艦撃沈が可能となったため、世界主要国の戦艦は巨艦化と大砲実装に向かう。

・ニトロ基を炭素ともども凝縮した新型分子の設計と合成(つまりさらなる強力な爆弾の研究)は、現代もなお精緻に続けられている。

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・石油は炭化水素の様々に混じりあった物質で、気化しそれから冷却すれば、(分留すれば)、沸点差によって炭素原子数ごとの分子に分けられる。
炭素原子が1つだけのメタン(都市ガスの成分)、 炭素原子が3~4つの液化天然ガス、炭素原子5~10個のガソリン、11~15個の灯油、15~20個が軽油、それ以上の炭素数の成分が重油へと、重量と揮発性に応じて分子の分離が出来、残油はアスファルトに用いられ、さらに不純物も除去。
このように石油の用途は極めて広く、特に20世紀以降は戦争の要因であるとともに、プラスチックや人工繊維など合成分子をとてつもなく多様に増やしてきた。

・なお、炭化水素である石油の炭素と水素の構成比は1:2だが、やはり炭化水素であるシェールガスの主成分はメタンで、炭素と水素の構成比は1:4である。
このためシェールガスは、燃焼したさいの二酸化炭素放出量が相対的に石油の半分ほど、だがメタンそのものも温室効果をもたらす。

・石油の燃焼が二酸化炭素濃度を上昇させ、地球温暖化をもたらし、また世界経済の不安定要因ももたらしてきたため、石油を代替する燃料源としてエタノールが浮上。
石油同様に液体として運用出来、安定供給が可能で、それでいて人体への悪影響も無いものとして期待されている。
植物(たとえばトウモロコロシ)の体を成す炭素化合物は空気中の二酸化炭素を元に出来ており、これを発酵させ更に分離抽出した液体がバイオエタノール、だから燃焼させても大気中の二酸化炭素を増やしたことにはならぬ。
…という理屈がいわゆる「カーボンニュートラル」論。
(※ この論の理屈付けがどこまで科学的に正当であるかは、ここでは問わない。)

さて実際のところ、バイオエタノールの製造工程で投入される全エネルギー量は、そのバイオエタノールの燃焼によって得られるエネルギー量とほとんど変わらない、との見方が多勢。
それ以前に、世界の石油消費量は年間40億トン、だがトウモロコシの年間産出量は年間8.7億トン、ここから採れるバイオエタノールは最大でも3.5億トンに過ぎず、さらに石油と比べバイオエタノールの燃焼効率は2/3に過ぎない。
にもかかわらず、食材としてのトウモロコシは明らかに減ることになる。

このような批判から、穀物によるバイオエタノールではなく、植物の体を構成するセルロースを元にエタノールをつくる研究が進んでいる(第二世代バイオエタノールという)。
セルロースは廃棄材や廃木からも採れるはずだが、実際には分解が難しく、シロアリの腸内細菌の転用などが考慮されている。

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・炭素化合物の応用としては、PET(ポリエチレン=テレフタラート)や、液晶ディスプレイ、有機EL(エレクトロ=ルミネッセンス)が既に我々の日常に馴染み深い創造的素材であり、いずれも素材自体が頑丈であり、軽量であり、エネルギー消費量が少なめのもの。

・炭素の純粋な形態は、黒鉛(グラファイト)、ダイヤモンド、無定形炭素(燃えかすのすす)がずっと知られてきたが、更なる構造形態の炭素として「フラーレン」が発見されると、90年代以降は合成も進められている。
フラーレンはその球状の形がナノレベルの潤滑剤として用いられ、また極めて薄くて軽量な特性ゆえ、超薄型の(どこにでも自在に貼り付け可能な)太陽電池素材としても期待されている。

・もとより、炭素同士の結合力は他のあらゆる原子同士の組み合わせより強靭であり、鉄の1/4の重量でも強さは10倍以上で硬さは7倍以上。
ゆえに「炭素繊維」は既に、機材やインフラ工材へ活用進められている。
NEC(日本電気)の飯島澄男博士は91年に、黒鉛を筒状に丸めた形状の「カーボンナノチューブ」を発見、これは炭素繊維よりもぐっと高密度で強靭な素材として合成研究が続けられている。
カーボンナノチューブは炭素原子の配列から導体にも半導体にもなりえ、仮に半導体としてコンピュータに用いれば、現行の素材よりずっと低電力かつ高速な情報処理が実現されることになる。

・人体内にてがんやリウマチを起こすタンパク質の「活動を抑える」ための、人工的な抗体をつくる研究が、バイオ先端技術をもって進められている(いわゆる抗体医薬というもの)。

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※ 参考 『シェールガス革命で世界は激変する』 より

・シェールガスからはエタン、ブタンなどの成分を採取出来、またエチレンやトリニトルなどプラスチック原料の採取も可能。
従い、プラスチック材料費も安価で済むことになる。
実際、アメリカの大手化学メーカがシェールガスを原料としたエチレン・プラントを動かす予定。 

・シェールガスはメタン純度が高く、精製分離すれば良質な水素エネルギーが得られることが分かってきた。
これは現行で開発ベースである水素燃料電池(活物質として水素と酸素を反応させて発電・蓄電する)の実用化を、一気に拍車させる技術たりうるかもしれない。


以上

2014/11/06

ガラスの劇場

以前のこと、或る国立大学の工学だか建築だかの学部に籍をおく(であろう)女子と、間接的に知り合いとなったことがある。
今20歳かな、本人はまだ自覚していないだろうが、極めて聡明、利発、意気軒昂。
そりゃまあ20歳だからこそ、どこか物事の軽重感覚においてバランスが座ってないようにも見受けられるものの、そこがいちいち新鮮で ─ そんな彼女と若干の意見を交わしているうちに、ぱっと閃いたことがあった。
「せっかく恵まれた環境下で勉強する機会があるのだから、いっそ、ガラス製の劇場でも建造してみたら面白いのでは」。
とりあえず彼女に提案してみたが、どの程度に関心を抱いたかは分からない。

そもそも、舞台も、舞台裏も、客席も、何もかもすべてガラス製の劇場など、建造しうるものだろうか?
ガラス素材、硬度や強度や安全設計、その工法などなど、言いだしっぺの僕自身には具体的な実現方法など全く見当もつかない、がしかし、もしそんな劇場が有ったら、演劇に革命的な変化をもたらすであろうことは、きっと間違いない。

たとえば、舞台で演じている俳優が舞台裏に引っ込んでも、その舞台裏での俳優たちの動作まで全部観客にあからさまにされる、いや、 それこそ立体映像のように奥舞台では別の演劇が同時進行で展開していけば、もっと面白いぞ。
もちろん宙空でのホログラム動画も使い放題、となると、シナリオが遥かに多様になる。
照明は観客席のガラスの座席を通しても発することが出来、だから全方位からさまざまなプリズム光線のようにピカッと舞台を照らす、舞台もガラス製だからなおさら幻想的に輝く。
現行の照明とは比較にならぬほどの、ダイナミックな光線効果がありえよう。
そして、そんな具合にキラキラと輝く舞台や舞台裏や観客席が、全てガラス張りの劇場の壁をつきぬけて屋外の人たちの視覚にまで届くところとなり、尋常ならぬ関心を集めることも出来よう。

なんだ、そんなもの、既にモバイルゲームでも実現されているじゃないか、というだろう。
が、しかし実際の演劇舞台でここまで実現しえたものがあっただろうか、いや、実際の演劇だからこそ、ゲームとは比較にならぬ凝ったシナリオと奥行きの深い演出効果に満ちた別世界が実現できようというもの。

…などとこうして書き留めつつも、想像力はどんどん膨らむ一方である。
僕でさえそうなのだから、未だ20歳の彼女がもし仮にこのガラス製の劇場に関心意欲を抱いたとしたら、はるかに自在な着想力をもって、それこそこれまでに存在したことのない文化芸術を想像(創造)しえよう。

ついでに思いついたもの。
まだ存在していないような気がするが、ガラス製のルービックキューブ、なんというか、たとえば寒天ゼリーみたいな形状と体裁で中にちっちゃなサッカーボールが入っているようなもの。
もちろん、中のサッカーボールを完全にきちりと復元させるという玩具である。
これも面白いと思うんだけどなあ。
(ただし、中に人間の頭とかドクロが入っていたらさぞや気持ち悪いだろう。) 


そんな、こんなで、あらためて考えること。
つくづく、思考にはフレームワークなど無ければ無いほど、面白い。
考えれば考えるほど、発想は多重になり、多角的になり、それこそ枠組みはガラスのように内外透過的になり、けじめも境界もなくなっていくでしょう。
議論も同じで、みなが違う発想のフレームワークで挑むからこそ、意見が膨らみ、おのおのの新規アイデアも膨らむ。

逆に、初めからフレームワークに上限をおいた思考や討論は、内向きの知識のギューギュー詰め合わせばかり、ひいては内輪の損得論ばかりになるは必定。
おまえはかくかくしかじかを知っているか、俺は知っているぞ、だから俺が仕切る、サァどけどけ、いやいやそんなことはないぞ、ネットで検索したらほーらこのとおり、おまえは間違いで俺が正しい…などと、もうぜんぜん面白くない。
面白くない時点で、全員が負けなのね、そんなもん発展的なビジネストークになるわけないでしょうが。
というか、何らかの事情で思考のフレームワークに上限を押しつけられているうちに、みな自己都合の損得論ばかりギューギュー押し合いへし合いに陥ってしまうのかもしれない。

しかし、たとえば商業取引においてさえも、原価、時価、証券、債権などなど、人類史上において何度もなんども権利価値の観念をすげ替えてきた次第で、まして自然科学系の諸分野における学生の皆さんには、もっともっと無遠慮かつダイナミックに思考自身を越えて行ってほしいもの。

以上

2014/11/03

元素の価格

たとえば、炭素原子1つの価格は幾らだろう?
え?そんなもの、考える必要が無いって?
なになに?価格は売り手と買い手の効用や機会についての判断で決まる?でも炭素1つだ2つだについてはそれらが定義出来ない?
わかったわかった、いいからちょっと黙ってろ。

さて ─ たとえば犬一匹の値段は?IPS細胞ひとつあたりの値段は?あるいは、人間の臓器の価格は?
これらは、なんらかの売買取引がなされる(なされうる)のだから、それぞれ米ドルだのユーロだの日本円だの換算でなんらかの価格はつくはず。
つまり、原子ひとつや分子ひとつには価格が「無い」のに、それらを膨大に組み合わせ束ねて存在する混合物としての犬やIPSには、誰かの都合によって価格がつく。
ということは、だ。
財貨の価格が人間相互の暫定的な虚構であって、本当は価格そのものには還元的な根拠など無い。

え?たとえば金属元素などには一定重量あたりの売買相場があるじゃないかって?
どんな原子の価格だって、分子の価格だって、根源的に設定出来るのだって?
じゃあ、石油やシェールガスの構成分子の単価があるとして、その一定量あたりの売買価格が年に20%も30%も変動する理由を、説明してみろ。

アダム=スミスは水とダイヤモンドのパラドックスを挙げたが、どうして日本では水が「タダ」なのか?水分子がタダだからか?
土地代が場所によって異なるのは何故か?土壌の成分とどこまで関係あるのか?無いのか?

身体を構成する原子や分子の絶対数が多い巨漢やデブは給料も税金も高いこと、また体質によって給料や社会保険料が異なること ─ これらは正しいといえる?
或いは逆に、人体を構成する原子や分子の数を算出し、それら諸々の元素や分子の単価を掛ければ、その人体に(つまり人間に)価格をつけることが出来る?
元素では不十分ですねなどというのなら、素粒子の単価あたりで計算してもいいぞ。

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人間同士が何らかの財貨に対して暫定的においた、還元的根拠の無い価格という虚構、それらの変動によって、 戦争がおこり、犯罪もしょっちゅう。
ある取引は合法であり正当であるといい、ある取引は詐欺といい刑事罰対象といい、懲罰とか空爆とかいう。
いえいえ、こういう虚構性と変動性にこそ、市場経済活動の醍醐味があるのですよ ─ といえばそれまでのこと。
ならば、経済の醍醐味には、恐怖も憎悪も殺人も戦争も含まれうるわけだな。
僕はいいとも悪いとも言ってないよ、虚構とその変動に対して、実体そのものである我々人間が、いいも悪いも判断出来るか。

ただ ─ 価格というもの、つまりカネというものが絶対の根源の無い虚構の変動であるからこそ。
人間は意思のちからだけでその虚構の間違いを修正出来る。
たとえば、中央銀行の通貨増刷を待たずとも、企業同士が相互信用にのっとってフレキシブルな事業継続が出来る。
また、政府の増税や国債発行を待たずとも、富豪がカネをぽんと市場に寄付することだって出来る。

(…用語も含め、どこかおかしいな、やっぱり。)

以上

スポーツファン

プロ野球は日本に根付いたプロスポーツの最たるものじゃないかな。
一方、プロサッカーは概して人気が続かない。
サッカーはともかくとして、どうしてプロ野球観戦が楽しいのか、というと、逆説的なようだが、観客の途中入場と途中退出が可能だから、じゃないかしら。
これは相撲もプロレスもボクシングも、いや、インターネットも同じでしょう。

選手にとっても、またファンにとっても、スポーツ(ゲーム)の本質は、明日を計算しないたった一回かぎりの今にぶちこんだ全力投球と大ホームラン。
つまり子供のころの幸福感そのもの、そこには責任という観念が無い(必要無い)。
お目当ての選手の登場場面だけはしっかり観て、気が済んだらもう球場をあとにして帰路につく。
本当のファンとは、そういうもの。
だからこそ、選手たちとしても、「今このとき、今しかない」と念じながら張り切るのではないかな?
そういう選手たちの中からこそ、観客の純粋な童心を喚起させる大スターが生まれるように思われる。

スポーツないし芸能によっては、興行元締と協賛企業と観客との間で、長期&固定の「契約」を結ぶ例も多い。
それは、ビジネス論理=売上と利益を拡大図る大人のルール。
むろん、売る側には諸々の責任が有る、が、しかし同時に買う側にも、良き大人としての消費を享受すべしという責任が生じる…ような気持ちになるから不思議だ。
そういう立派な消費者の責任のうちには、売る側の都合でパッケージングされたコンテンツも往々にして混入され、だから消費者の意向に必ずしも沿っているとは限らない。
本当は観たくもないスポーツや芸能を、大人の責任を果たすために観せられる結果だって生じうる。
さらに、弁当も押しつけられ、応援まで強制されたりして。

そんな大人同士の契約が大規模になればなるほど、関心の希薄なスポーツや芸能を朝から晩まで見せつけられることにもなる。
それどころか、選手たちや芸人たちは、黙ってても仕事が続くものだから、明日を計算し来年度を思案し退職金をほくそ笑むようにもなりかねぬ。
そうなると手抜きだって蔓延しうるだろう、だから本当のファンが増えるわけがない。

かくして、売り手に「大人のビジネスパーソン」が増えるにつれ、買い手にも「責任感の強い大人の消費者」がどんどん増え、世の中はいよいよつまらなくなる。
売り手はシャカリキになってまとめ売り競争に務めるから、総じてデフレも続きうる?

かつて読売ジャイアンツの試合では、長嶋を観たいからといつも三塁側観客席が満席になり、長嶋の出番が済むとザーーっと潮が引いたように観客は帰路についたという。
長嶋氏の諸々のコメントの中にも、いつもファンのために全力を尽くしてきた云々というものが多い。
また、これも昔の話だが、或るスポーツライターはマイク=タイソンの試合を観たいからと衛星放送に加入したとか。
スポーツとは、芸能とは、またファンとは、そして選手たちも、そういう子供の世界の流儀で続けられるべきじゃないのかな。
たとえ相場の10倍、20倍のチケットでも、ホンモノのファンなら購入するだろう。


以上

2014/10/20

【読書メモ】 法哲学

※ 以下、第二章と第五章の要約メモを全部まとめて投稿としました。

今回紹介する本。
『法哲学 平野仁彦・亀本洋・服部高宏 共著 有斐閣アルマ』
もともと僕なりに本書を手にしたのは、法というものが人智を超えた実在系たりうるのか、人間による随時便宜的な事実解釈の論理に過ぎぬのか、法における解釈正当性は実社会の利害得失とどう関わっているのか、などと思案していたがゆえのこと。
そこで、「哲学」と冠した本書に惹かれた ─ いったい何が法を何を成し、いかなる法がいかなる理念に則っているのか、基礎観念の(再)定義と、それら構造上の関係付けと、これら同時に試みてゆけばどうしたって哲学となるではないか。

本書は、法を独自の「システム」とおきつつ、重層的なアプローチが最大の特徴、また共著のためであろうか、章立てごとに法規範といい法ルールというなど用語表現には若干の濃淡差も見受けられる
ゆえに、さらりと一辺倒に読み抜ける論旨展開のものではないが、しかし文意そのものは概して平易ゆえ、読解には大した忍耐力は不要。
出版元の有斐閣による難度(専門度)ランク付けでは本書は専門書の一つとおかれている、が、むしろ本書は法論理を隙間なく踏み固めてゆき、法の在り様につき再考を促しうる点において、じつに強力かつ総括的な教養書とふまえておきたいもの。
したがい、異業種/異分野における法律初学者にとってこそ最適な思考鍛錬書ではなかろうかと察する。

本書では特に法と正義と功利主義の拮抗について多くのページを割いて概説されている。
一方で、僕がとりわけ注目したのは、特に第2章「法システム」 と 第5章「法的思考」であり、此度の読書メモもこの2つの章のみに絞っての要約としてある。
(文面を直接抜粋したものではなく、いつものように僕なりに一層平易に丸めたつもりです。)



<第2章: 法システム>

近代以降に道徳から乖離した法は、社会統制の機能はもとより、法自身の制御機能をも有し続けるべきである。
また法は、私人間の自主的な諸活動を予測可能で安全確定なものとすべく、活動促進機能も有し続けるべきである。
さらに法は、紛争解決機能も有し続けるべきである。
そして法は、公共サービス、社会保障、所得再配分など福祉国家の在り方を維持すべく、資源配分機能も有し続けるべきである。

かかる機能要件に応じる ─ ことになっている法は、「外部の社会全般」から様々な要請を受けつつも、「内なる構造」として独自の定式化や処理方法(いわば独自のプロトコル)から形成されており、よって法を自立的な機能システムとして捉えることにより、その在りようを明確に理解することが出来る。

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法そのものは論理であるが、そこに意義と方向を与える力が 「法規範」である。
(※ …と僕なりに解釈している。さて、以下しばらくは法学経験者にとっては常識的な事項が続くが、あくまで法システムの構成要素とそれら関係付けの再定義と考えて読まれたい。)

近代以降、法は国家権力からも、また道徳や宗教などからも「自立的に」存在しているとされるが、その自立は「法規範」によって支えられるとされる。
法規範は強制力行使そのものではなく、義務付けに留まる。
なお、ドイツの法学者イェリネックは、法は最小限の道徳に過ぎぬとした、─ が、経済犯罪などに対する規定などは道徳と異なる観点からなされるもので、現在の原則としては法は個人良心の自律領域には極力立ち入らないこととされている。

法規範は、以下に分類出来る。
 まず、「義務賦課規範」 ─ 規範違反行為に対して刑罰、損害賠償など強制サンクションを規定し、一定の作為ないし不作為を義務付ける法規範。
ここでの義務は実定法を根拠とし、道徳的価値とは関係なし。
典型的な形態は、命令、禁止規範、およびそれに個々に従属する免除規範、許可規範。
いわゆる「サンクション (sanction)」は、刑罰や損害賠償など負の不利益を賦課するのみならず、むしろ国や自治体からの補助金や委託金給付など民間団体を強制的に正の効用へと誘導する場合も多い。
(※ ちなみに英単語「sanction」の二義性もこのとおりである。)

それから、「機能付与規範」 ─ 自己の所有物を他人に譲渡する権能、契約締結の権能、遺言の権能、裁判官任命の権能など、権能を付与する規範。
禁止や解除に留まらず、裁判所による強行可能性も備えている点で、義務賦課規範とは異なる。

次に、「法性決定規範」 ─ どのような現象をどのカテゴリに帰属させるべきかを規定する規範、いわゆる定義規定(諸事情XはカテゴリYとして見られるべきである)など。
或る損害賠償請求の根拠を債務不履行におくか不法行為におくか、或いは、国際私法上どこの国の法律を準拠法とすべきか。

また、法規範は名宛人の違いからも分類出来る。
裁決規範は、裁定や紛争の解決規準を裁判官などに提供する規範で、一定の要件事実が満たされれば法的効果付与となる。
また、行為規範は名宛人に直接行為を指図するもの。
ケルゼンはあらゆる法規範が結局は裁決規範であるとしたが、「生ける法」の主唱者エールリッヒは、人間生活すべてが裁判所の前で営まれるわけではないゆえ法の本旨は各人の行為規範であるとした。
しかし、法規範は誰が名宛人たりうるかのみにあらず、外部環境の様々な要請を複合的に考えねばならぬ。

また、組織規範は各種の法関連機関の組織、権限、規準手続きを定める実務のもので、とりわけ現代は既存の裁決規範や行為規範だけでは法の柔軟な形成や運用が間に合わず、よって新たな組織規範が次々に必要とされている。

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・法規範の多くは、具体的な事例で問題となる人、物、行為などがその法規範に定められた一般的なカテゴリーに属する場合に、「要件A ならば 法律効果B」 との画一的な条件プログラムのかたちで適用される。
このタイプの法規範が、法準則(法規制)と呼ばれ、実定法の条文の多くがこれにあたる。

なお、実定法においても、法準則の解釈や運用のための抽象的な指図に留まるものもあり、このような法規範を特に「法原理」(あるいは法価値)と呼ぶ。
法原理は学説や判例として受け継がれるものが多いが、最近では公序良俗、信義則、権利濫用、正当事由など一般条項、憲法上の基本的人権の規定、個々の法律や命令の立法目的規定などとして明文化されるものも増えている。
法原理の適用は、法システムの運用者である裁判所他にも判断の余地が残され、ゆえに実社会との衡平性を大いに考慮させうる。

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・法規範と並んで法システムの重要な構成要素が法的活動である。
これは「決定」「正当化(=理由付け justification) 」からなる。
法的機関による決定活動を分類すると、「立法機関が法を制定」、「裁判所が判決」、「行政機関が行政上の決定」というのが主要な例。
但し法規範の階層性も鑑みると、或る法の定立はヨリ上位の法規範の適用や具体化ともいえる。

これら法的な決定活動においては、諸々の法規範を前提としつつ、恣意性を超えた正当化(=理由づけ)が必須となる。
恣意性を超えて正当といえるからこそ、法的決定は計算や予測可能なものたりえ、だから法的安定や平等価値の追求にもつながる。
ただし、紛争当事者に公平に接しているかという自然的正義の観点、また決定内容が実質的に正当であるかとの判断、この両面を熟慮しなければならない。

なお、いわゆる論理実証主義者は、科学における法則の正当性がその発見経緯ではなく実証実験に在る由を指摘し、法学における判決などの法的正当化もその発見プロセスではなく正当化の方法そのものが重要だと主張。
だが一方では、アメリカのニューディール時代以降のリアリズム法学が反論、たとえば保守的な連邦最高裁が伝統的な所有権と契約自由を論拠に違憲判決を濫用してきた、弁護士が陪審への感情的説得などに訴えてきた、などなど、法的正当化における過度の恣意性を指摘、ゆえに、むしろ発見プロセスこそが重要だと指摘している。
尤も、ある法的正当性の発見に至る法曹関係者の本当の心理・認知プロセスは、判決理由のみから解明することは出来ない。
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「法システム」を機能させる制度としては、具体的な紛争解決を仲裁し(交渉し)解決に導く裁定の仕組み、つまり裁判所が、特に中核的な役割を果たす。
とはいえ、そもそも仲裁による裁定を作動させるためには、社会成員に法規範の共通了解と服従が必要であり、したがい裁定者への従前の信頼も必要、名宛人の合意も必須である。
が、これにあたっては、法律の専門家(とくに裁判官)にいわゆる「法的思考(リーガル・マンド)」を委ねることになる。
法的思考とは、①あくまで過去に具体的に起こった紛争の事後的かつ個別的な解決のみを目指し、②法的規準(定立済の法準則)の権威化を担保されつつ、③決定の正当化を目指すという思考方法。
ゆえに、科学的思考とも純粋な論理思考とも異なり、決定と理由づけにおいてどうしても価値判断に則るを本質とする。

じっさい、法準則をふまえた法的思考プロセスをみれば、まず、法準則を普遍的な大前提とおき、その大前提の要件内で認定された事実を個別的な小前提とし、ゆえに法的結論が導出される…という三段論法の推論と言うことも出来る。
この三段論法への肯定的な見方としては、全てのステップおいて成立する論理はどの一つについてもあてはまる、という論理法則にのっとった説明がある。
だが、そもそも普遍的な法規範(全称命題として)などはありえず蓋然的な規範でしかない、とみれば、この三段論法は論理的に成立しえない。
ただ、たとえ或る法規範に普遍性など無いとの前提に最初は立つにしても、それが個々の事件で普遍的なものとして定式化されうるわけで、そうなると以降は裁判官の法的思考において上の三段論法が成り立つことになる。

なお、上の三段論法の推論過程で、陪審員は事実問題のみに決定権限があり、法学者はむしろ事実認定は行わない(そういう教育制度にすらなっていない)。
裁判官にとっても、「事実の完璧な証明」は不可能であり、一定の経験則における蓋然性を許容した上で推論し、事実認定をせざるをえない。
そうして裁判官が或る事実認定に至った場合、その事実認定を否定する側はその否定の所以の証明責任を負うことになる。
概して、事実の証明よりは反証の方が容易(アリバイ証明のように)。
なお、K.R.ポパーによる反証可能性についての言によれば ─ 
科学は、或る理論を普遍的なものと前提しつつ実験観測で個別事例に適用し、その理論が普遍的に真であることを帰納出来る、が、逆に個別の証明事例をいくら積み上げても元の理論が普遍的に真であるとはいえず、むしろ偽を反証することになりうる。
この反証可能性こそが科学の意義でもあり、反証可能性すら無い理論は科学的なものではない(だからプラトンもヘーゲルもマルクスも有害な歴史法則主義である)、というのがポパーの主張であった。

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・法的思考を専門化に一任しているとの認識ゆえにこそ、一般人の間には、裁判などは裁定者たちによる紛争処理過程に過ぎぬとの見方も根強く残ってきた。
じっさい紛争当事者によるヨリ主体的な相互交渉が求められる中で、最近はいわゆる裁判外紛争処理(ADR - Alternative Dispute Resolution)も増えている。
ADRは、中立的な第三者が仲裁者として紛争過程に介入し、当事者間の合意解決を導く制度、ないしはその機関であり、行政機関や諸業界の窓口サービスの他、弁護士仲裁センターなどがこれにあたり、安価かつ柔軟な仲裁サービスを展開している。

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「権利」「義務」という概念は人間関係を法的に捕捉し、法システムを支えている。
権利とは、利益と享受を法的に認めさせる力、たとえば資格や能力のこと。
具体的には、権利は「公権」と「私権」に分けられ、さらに公権は立法、私法、行政の基本三権など国または公共団体として有する公権と、参政権、自由権、平等権、請求権など私人として有する公権がある。
また、私権はその目的から財産権と非財産権(人格権、身分権、社員権、相続権)に分類され、また作用からは支配権、請求権、形成権、抗弁権などに分けられる。

そもそも、権利の本質は何か。
カントやサヴィニー等は、権利を法によって付与された意志の力ないしは支配のこととした。
だがベンサムやイェーリングは、権利を法によって保護された利益であるとした。
またサレイユなどは、権利を生活利益の享受達成の手段とした。
ホー フェルドの分析によれば、権利とは ─ 請求権(私法上の契約など)、自由権(他人の請求権から逃れ義務を負わないこと)、権能(自己の意思により自己お よび他者の法的地位を変更する能力で、法案議決、大臣指名権、私人間の譲渡や遺言や契約締結能力など)、免除(他人から一定の義務を課されない法的保障、 古典的な自由権など)。
ハートはこれら請求権、自由権、権能それぞれから得られる利益における、個人の選択可能性を主唱しているが、免除の権利性を説明しきれていない。

いっぽう、義務とは法の規範を根拠に人間の意志や行為を拘束する力のこと。
たとえば一定の売買契約においては、この権利と義務は法的に売り手にとっても買い手にとっても表裏一体の力である、が、行政上の届出義務などはそこに応じた権利はなく、取消権や解除権などはそこに相応の義務は発生しない。

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法の妥当性がどこに所在するかについての議論は、統一解釈は未だなされていない。
ケルゼンのように、憲法に最上位の根本規範を論理的に据えた法段階説をおけば、法規範の妥当性は上下相互の法規範自体のみで決せられるので、道徳的ないしは政治的な価値判断の排除は明瞭である。
ただしこれでは、たとえばナチス立法下における合法的行為を、ナチス政権崩壊後にどのように裁くかという「悪法問題」には対処しきれない。
法学者のラートブルフは、正義との矛盾に堪え難い制定法は妥当性も資格も無いとし、この正義解釈は旧東ドイツの非人道的行為を東西統一後のドイツで裁くにあたっても貫かれている。
一方、ハートは法規範の秩序を、人に債務を課して行動を律するという一次的な規範と、それら規範秩序全体の承認にかかわる規範という、二段階の規範体系から成り立つとするが、ここでは法秩序の妥当性は社会成員の承認(心理)に在るとする。

法の妥当性を、その名宛人への義務付け機能に絞って据え置くか、その実効性まで注目するか、順守慣行のみに注目するか、法規範が目指す価値や理念を察して考えるべきであるか、などなど、法の妥当性の論拠は様々に提唱されている。

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・法システムの領域は、実社会におけるどこまで及ぶべきか(及びうるか)。

まず、法はその「存在形態」によって、概ね以下の3つに類型化するのが常である。
「自立型法」は、普遍的形式として存在する法を指し、裁判過程での実現および一般的規範における適用を基本とし、個別事案ごとに処理が為され、概して「要件→効果」図式における「全て適用か或いはゼロか」の論理による結論正当化をはかる…などの特性を有する法である。
つぎに、「管理型法」は、公権力機関による特定の政策目標の実現過程で「目的→手段」の図式にて制定され、行政過程において作動する特性を有する法である。
さらに、 「自治型法」は、私的な団体組織による自主的な取り決め、インフォーマルな社会規範によって生成されていく法(機能)であり、日照権など私的利益が自主的に定められたり、インターネットの利用規範が自主的に生成されるなど、既存の制定法の規制の隙間を埋めていく特性がある。

これらのうち、とりわけ現代は福祉国家の実現のため、管理型法の制定や改正が増え続けている。
─ つまり社会保障立法、労働関係立法、経済社会政策立法、(所得再分配のための)租税法制が数において民法や刑法を圧倒しており、この傾向を特に社会の「法化(legalization)」と呼ぶ。
社会生活領域に法規制がどんどん介入していく状況であり、ゆえに制度として複雑化するほか、人々の意識行動が過度に法的になったり依存心が増す状況をもたらしている。

あわせて近代以降とくに指摘されている、過度のモラリズム(道徳の理念的偏重)やパターナリズム(公権力による正義の押しつけもまた、法を独自システムとして捉えてこそ明らかになる。 


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<第5章 法的思考>

英米法系(コモン=ロー系)は法源としていわゆる「判例法主義」をとり、ドイツ、フランス、日本など大陸法系(ローマ法系)は法源として「制定法主義」をとっている。
ただこの系譜と法源の関係は一様ではなく、たとえばインドは英米法系に属しつつも法源としては制定法主義をとっている。

・英米などは判例法主義の下で、過去の裁判における「先例」が第一義的な法源であるとされる。
先例とは、過去の事例において裁判所で採用された法規範で、これを現在の事件における第一義的法源とする ─ ここに一貫している発想が、「先例拘束の法理」。
ただし、いずれかの先例を探し出し、此度の法源にふさわしい法規範であると判断するのは、あくまで「現在の裁判官」であり、つまり先例は実質的に変更解釈され続けている。
ともあれ、現在の当該事件それ自体が新たな判決を下されれば、それが新たな先例つまり法規範となる。

もちろん議会制民主主義のもとでは議会制定法が裁判先例に優先される、が、それでも伝統的な司法権独立の観念にのっとり、法は本来裁判で解釈適用すべきとの見方が強い。

アメリカ法学では、ニューディール期以降、要件・効果の明確な法規範とは別に、「一般基準 (standard)」および「原理 (principle)」という法規範の範疇が在ること強調されるようになった。
「一般基準」は、当該問題に関して法的判断を下すさいに、諸々の観点の比重をその時々の法曹担当者に委ねるという規範をさし、いっぽう 「原理」とは出来るだけ○○せよという構造をもつ規範で、他に考慮すべき事情が無い場合に則る規範。

さらに、70年代にアメリカの法哲学者ドゥオーキンがこの「原理」をなおも分類、そのうち個人の権利擁護を狙いとする「狭義の原理」が、社会全体の目標実現を狙いとする「政策」を優先するとし、また裁判がこの原理に則る以上は、法的判断における理由づけの整合性を図らせるため、むしろ裁判官には個別裁量の余地が無いとまで言った。

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制定法主義のもとでは、裁判において第一次的に制定法が採用され、我が国でも実定法学に則る以上は制定法(もしくはその条文)以外の法源は原則認めていない。
日本法でいう「判例」は、通例では最高裁の判決理由のうち、制定法の解釈をルールとして定式化したものをさし、ただし、判例には事実上の拘束力はあるが法的な拘束力はないと説明されることが多い(憲法上も、裁判官は最高裁判決に拘束されるわけではない)。
我が国はじめ大陸法系の国々では、たとえば裁判官を高級官僚同様にキャリアシステムで要請するため、司法が議会や大統領から独立した権力機関であるとの意識は弱い。

・制定法の解釈は、その解釈の基準時を立法当事者の立法時点におく「法律意思説」に則るべきか、それとも、制定時の文言に対する随時の客観解釈に留まる「制定時客観説」に則るべきかについて、議論が続けられている。
ただし、仮に或る制定法への解釈に齟齬が見出されたとしても、立法当事者の意思はあくまでその制定法の当初の解釈目標であったと了察しつつ、実際には現行の運用や機能における正当性をふまえるべき、ゆえに法律文言の客観的理解に依るしかない。
そこであらためて、制定法はその「適用時客観説」が妥当であるとする。
おのおの制定法の適用時に、その客観的解釈を追求すればこそ、実際の裁判時にいかなる制定法も妥当な法規範たりえない事態(法の欠缺)もまた詳らかになる。

なお刑事事件においては、妥当な法が欠缺している時点で、罪刑法定主義に則り被告人は無罪となる。
だが、近代的な民事裁判で制定法が欠缺している場合は、裁判官が適用すべき法規を補充(創造ないしは発見)する。
制定法が欠缺しているかどうか、裁判において一様に合意されるとは限らず、裁判を原告優位に運ぶか被告優位に運ぶかといった実践的な狙いによって争点となる。

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「法と経済学」 と称されるアプローチは70年代以降のアメリカで活発になり、 法規範、制度の意義について論じる経済学として規範的経済学とおかれる。
経済主体の合理的行動を前提とするミクロ経済学を分析手法に起用して、社会全体の厚生の最適化を考察する手法で、本来は功利主義思想(ベンサムなど)の系譜である。

ここでは、個々人おのおの価値観によるであろう効用を単純に全体化せず、「誰の効用も低下させぬまま誰か一人以上の効用を増加させうるという選択肢の採用」、つまり「パレート改善」の概念も借用しうる。
このパレート改善型の選択を社会で繰り返していけば、何らかのかたちでいわゆる「パレート最適」な社会が実現することになっている ─ が、むろんここに至る選択経路は何通りでも有り得、それら経路のうちには個々人間の経済格差の拡大も起こりうる。
また、パレート最適化に至る各選択において、社会構成員おのおのの「費用と便益の差」をそれぞれ金銭価値におきつつ、その差(純便益)の集計を図ることも出 来る ─ 但し、いわゆる「囚人のジレンマ」のゲーム理論にて例示されるとおり、各人が独自判断で追求するおのれの便益/費用の総和は、必ずしもその社会 全体の便益/費用とは一致しない。

じっさい、「法と経済学」による社会全体の厚生最適化の追求を促してきたのは、むしろ法規範が無用である由を指摘した発想。
すなわち、「もし取引費用がゼロならば、法は資源配分の効率化には影響しない。どのような法のルールの下でも経済主体が合理的に行動するかぎり社会の効率は達成される」 という、ミクロ経済学の公理にのっとった定理である。
これがいわゆる「コースの定理」であり、コースとは発見者である経済学者の名前。

たとえば、異なった2つの事業者がおのおのの利害を賭けて競合し、それが訴訟にまで至るケースを考える。
おたがい、何らかの法的判決によるおのおのの勝訴の場合、あるいは敗訴の場合(つまり、それぞれの利益ないしは損失)を計算している。
だが更に、判決後のおたがいの交渉にかかる何らかの取引費用もあわせて勘案するはずである。
ここで、その何らかの取引費用が、おのれの勝訴による最終利益よりも高くついてしまうと悟ったら、その勝訴判決のみに従う方が経済的に合理的であるといえ、逆にその何らかの取引費用の方が安くて済むと知ったら、法的判決はむしろ許容しがたいものとなりうる。
経済学の観点からすれば、概して裁判所の判決は双方の交渉を阻害しないことに留意すべし、となる。
 (※ …という主旨だと思うが、ここのところちょっと込み入っており、さすがにアゴが上がってしまった。)

経済学には、或る選択による効用の獲得は別の選択による効用の喪失を伴うとの原則があり、これが機会費用という考え方。
これは社会正義の通念からは犠牲ともいえ、つまり、法学における規範や制度を、それらの効用という観念からヨリ実践的に踏まえる上で、経済学の採用は有用ともいえる。

以上


謝辞

ここに提示の記事は、いずれも私自身の判断責任のもと編集・投稿したものです。

大半の投稿は学生など若年層向けを意図してやや平易な表現にて、通俗性は極力回避しつつ、論旨の明示性を重視しつつ書き綴りました。あわせてまた、社会人の皆様にお読み頂くことも想定しつつ、汎用性高い観念知識を相応に動員しながら記した積もりです。

私なりの思考着想によるささやかな閃きが、皆様の諸活動にて何らかの光源たり得れば、望外の喜びであります。

山本