2014/03/26

逆も真とは限らない

(1) これまで何度となく指摘してきた東大論について、ちょっと命題 T (p⇒q) として定義してみよう。
p: 日本の学術の中心は、といえば「東京大学」ということになっているが、中心におわしますがゆえ、神道や仏教などと同様、誰もがみな分け隔てなく分かち合うべき教義教養のはず。 
 ⇒ q: だから日本の青少年は皆が東大生たりうるべきだ。

さて、この命題、「逆を突いてみる」と ─
q: 日本の青少年はみんな東大生たるべき素養がある 
 ⇒ p: だからこそ東大は日本の学術の中心である。
ん?実際のところはどうか?
東大は日本において青少年が最も入学困難な学校とされている。
だから東大は学術の中心じゃなくて、もっとも遠く険しい遥か彼方の特殊専門学校、ということになる。
ということは、この命題は逆は真ではない。

ついでに背理法的に(?)「対偶」の真偽を確かめると。
東大には日本のほとんどの学生は進学しない 
 ⇒ 東大は日本の学術の中心ではない
おおっ!そういうことになるな!なるほど、或る命題が真であればその対偶も真となる、とはこのことか。

…もうお分かりのとおり。
上のごとく冗談めいた命題は、人間が(僕が)幾らでも作為しうるもの。
尤も、命題というのは、真偽判定も客観的になされるものでなければならないそうでだから上の東大ジョークなどは、命題ですらないかもしれない。

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(2) 実際の世界における様々な論理付けは、たいてい或る人間集団がおのれの利便性を最優先にして練り上げたもの。
残念ながら、化学式や関数式などのように「逆もまた真なり」が成立する客観的な命題ばかりではない。

なるほど、化学の授業ではこんなことを習うだろう。
「イオン化エネルギーとは…陽性元素あるいはハロゲン系や希ガス元素などの原子に対して『外部から加えられるエネルギー』であり、かつ、逆から捉えればそれらの原子自身の属性としての『電子の放出し易さ』でもある ─ と。
加えられるエネルギーがこれすなわち電子放出のしやすさだ、と正・逆の双方から完結的に捉えた命題であり、だからまことに掴みやすい。

だが。
経済学の講義ではどうか。
しばしば需要と供給といい、たとえば「p:供給に応じて需要が生じる。q:需要生じたところに供給が生じる。だからp⇒qであり、逆にq⇒pでもある」と命題をまとめる。
しかし、これは論理として一方向へは成立するとしても、総括的な命題としてみれば、逆は真ならず
「お金」を介在させて考えてみれば解る。

確かに、人間が供給する物・サービスはお金と交換出来る。
だから、お金の量=生産供給量。
だが、人間の需要は、たとえば死んだ人間を蘇生させたい、永遠に一定量以上被爆しない肉体が欲しい…などなど無限にありうる、が、全人類のお金を集めてもこれらと交換することは出来ない。
つまり、需要の量≠お金の量。

従って需要の量≠生産供給量。

以上、証明おわり、上の論理はp⇒qは真であるが、逆にq⇒pは偽となる。
つまりどこかが作為的である。

いいか!これが世の中ってもんだ!
人間世界のいかなる論理も、大命題として自然発生したものではない。
どこかの人間が何らかの理由で創出させるものに過ぎない。

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(3) いやいや、たとえ自然科学の世界でも、キッチリ整然とした「逆も真なり」の命題ばかりが呈されているわけではない。

アウストラロピテクスの一部の種族は、400万年の更新世⇒完新世という地球環境の変化に晒され、我々ホモ=サピエンスになった。
では、我々ホモ=サピエンスが逆に400万年の完新世⇒更新世という真逆の地球環境変化にさらされたら、アウストラロピテクスの一部に戻るのか?

別の話。
万能細胞/幹細胞は、或る個人の特定の身体細胞を、その当人のいかなる組織器官としても再組成が可能だという。
では逆に、もしも或る個人の全ての身体細胞を万能細胞に還元出来たとして、そこからまったく新たに再組成された人間は同一の当人といえるのか?

さらに別の話。
先ごろ新たに発見された宇宙の生成理論(超高速膨張理論?)は、相対性理論と素粒子理論の従来の相反を解決しうるものだという。
では逆に、相対性理論と素粒子理論さえ矛盾なく折り合いがつけば、宇宙生成のひみつが全て明らかにされたといえるのか?(たぶんそうじゃないと思う。)

或る特別な条件下での論理は、人間が暫定的に設定したもの、だからどこまでも特別な論理に過ぎない。 

 以上