2014/06/28

【読書メモ】 数学の想像力

いわゆる「○○の××」といった主題における日本語の助詞『の』は、英語の"of"に近く、○○が××と同質の関係にあるという意も成立させるが、また、○○が××を含むという集合論にもまたがり、どうも論理的にしっくりこないところがある ─ ただ、論理的にしっくりこなくとも人間の根本的な直観には存外馴染むものもある。

…などと強引に鯱張って今般の【読書メモ】を起こすのには、理由がある。
そもそも、人間の論理と直観は、どの程度まで同一でどのくらい乖離しいるのか ─ この問題への解釈と経緯を慎重に分析されたなかなかの名著を、今般紹介するからである。
『数学の想像力 加藤文元・著 筑摩選書』 
昨年6月に出た本書は、このタイトルからして(けして皮肉ではなく)我々の直観と論理の同質性を仄めかし、一方でサブタイトルに添えられた「正しさの深層に何があるのか」は、寧ろ直観と論理に対する野心的な分析を予感させる。
つまり、本書は数学理論についての本というよりは、論理と直観についての論説なのであり、さらにはその歴史的概観でもある。

どれどれと手にとって立ち読みを始めてみれば、本書は古今東西の数学論の引用紹介がなかなか楽しく、また比較的汎用性の高い語彙をおきつつ書き進められており読み易い!(だからちゃんと買って読んだのよ。)
が、何といっても本書は、恐らくは著者が論旨の飛躍を徹底的に回避しつつ、厳正な解釈展開を追求したが所以であろうか、総じて文脈が慎重かつ重層的で、記述量も多いが密度も高い。
ゆえに、僕のような数学素人の読者こそ、却って特定の着想観念に駆られることもなく、哲学史に接するがごとく泰然自若に構えつつ、きっと数時間の読書に没頭することが出来るだろう。

さはさりとて、本書はともかく主題範疇が極めて幅広く、以下に僕なりの【読書メモ】として箇条書きするにあたっては、特に「基礎数学」の根本を成す論証などごく一部の紹介に留めることとする。





・数学において<正しさ>を確信させてきた基本的要素。
「基盤」 ─ 共通の数学世界に住み、共通の数学言語を話す前提
「流れ」 ─ 特に西洋数学における対話や演繹証明などの論証過程もあれば、和算のように計算手順そのものの精度で論証するものもある
「決済」 ─ 論証の落としどころ、往々にして直観的


・数学と音楽は、どちらも時間軸に沿った心理展開に依るというところ、構成上の類似点が多い。
だが、背理法に似た展開構成の音楽は無い。
背理法は、間接的に虚構を敢えて据え置き、時系列を心理的に逆転させつつ最終的に矛盾を突く論証である。
(古代ギリシアで、素数が無限に存在することを証明する古典的なケースにて早くも応用されている。)
通常見受けられる論証の流れが、仮定→推論→結論 である反面、背理法の論証は 結論の否定→推論→仮定の否定 (対偶)である。


・図形は論理的には無限に存在する、が、正方形が誰にとっても正方形であること明らかなように、先験的な知=直観による万民共通の「正しさ」は「見る」ことによって共有出来る。
図形の証明問題における補助線の有効性も、まさに「見せる」ことによって直観的な正しさを想起させるところにある。
代数学のように抽象度の高い分野でも同じことで、記号文字をあたかも「実在として見る」経験の蓄積からこそ「正しさ」の認識は確実となり、「見る」「見せる」ことによってこそあらゆる論証は最終的に解決される。
…というのがソクラテスの時代あたりまでの数学の着想であった。 


・ピタゴラスの時代以前まで、「線分の比、つまり正の有理数」のみが数であった。
だが、正方形の一辺に対する対角線の比「√2」が発見されて以来、存在量として「見せる」ことの出来ないいわば「通約不可能な」数の存在が認識されるようになった。
(※ √2が有理数ではない由も、背理法で説明されるのが普通、教科書にも掲載されている。)
こうしてピタゴラスの時代以降、「見る」「見せる」ことによる証明は重きをおかれなくなった。



・さらに数世紀のち、『ユークリッド原論』に至ったギリシア数学は、さまざまな「定義」「要請(公準)」「共通概念」の明示、それらの厳密な演繹引用が特徴となった。
たとえば、与えられた線分の上に正三角形を作図、或いは、与えられた点において与えられた線分を置く ─ といった命題の実現性を証明する場合。
この場合ですら、「定義」「要請」「共通概念」の精緻な組み合わせと演繹によって、いわば論証の一文一文をいちいち正当化する形式をとりながら証明を進めている一方で、「見れば」一目瞭然の図形は極力排除されている。


・この演繹的論証の伝統?はヨーロッパ数学で受け継がれ、19世紀初頭の解析学の理論数学者たちは、線分と線分の交点の存在すら自明ではない、と考えるようになり
…さらに実数論や微分積分学の発展に至る。


・円周率πの素朴な計算法で、円に内接する正多角形および外接する正多角形の、それぞれの外周の長さから円周を計算する際、西洋数学では内接図形の外周と外接図形の外周との大小関係により、円周を対話的に「証明」する。

が、和算においては接する多角形の近似計算精度のみにおいて正しさを論証するため、対話的な「証明」が無い。
この和算における独特の正しさ感覚は、日本独特の工業技術と関係があるやもしれない。
(※ 僕なりの所感だが ─ たとえば命題AがAであることを西洋数学に則って証明するためには、A=Aであるとともに、A≠Bであることも証明しなければならないが、伝統的な和算によれば、A=Aとなる経緯を厳密に実証すればそれで証明済となろうか。)


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…更に、まだまだ多くの数学論、その試行錯誤の歴史概括が続くが、僕にはとても全貌の紹介をするだけの知識も気力も無いので、ここらで留め置く次第。
とまれ、繰り返しになるが、本書は数学理論に則った本ではなく、むしろ論理と直観が現代科学に至るまでどのように併存し、あるいは如何ように乖離してきたかを再認識させる論説である。
大学受験生であれ、高校生であれ、更には社会人であれ、数学「という」想像力の根源まで立ち返ってみたいと考える人たちには、是非一読を薦めたい一冊である。

以上