2014/12/07

【読書メモ】 世界はデタラメ

概して理数系の諸分野が難しく感じられる理由は、観察対象を貪欲に分析しつつ、定義付けの困難な領域にまで踏み込んでいくという主客混交性と相対性(ダイナミズム)にあるように思われてならない。
今回紹介する本こそは、理数系学問における主客混交のスケール観を大胆に押し出した一冊といえようか。
世界はデタラメ ランダム宇宙の科学と生活 ブライアン=クレッグ 著 / 竹内薫 訳 NTT出版

原題は Science and Life in a Random Universe とあり、(なぜ life を生活と日訳したかは分からぬが)、今般の日訳版は本年7月に初版発行。
著者のクレッグ氏は英国の著名なサイエンスライターで、ほら物理学はこんなに易しいよ、ほらほら統計学や数理確率論とはこういう知恵なのだよ、などと優しく解きほぐす筆致、そして一方では宇宙や世界の「わからなさ」を多くの文脈によって炙り出していく構成が楽しい。
また、日訳された竹内氏も我が国ですっかり著名な科学者かつサイエンスライター、とりわけ本書の日訳にては動的観念の名詞化における卓絶さが光り、緊張感バツグンである。

さて、最初の数章を読み進めれば、根底を一貫しつつも最大難度の観念として挙げられている主題が 「無作為性」 である。
察するに、恐らく英語原文では randomness ではないか…そうだな、なんらかのものにおける、人知によっては何ら規則性を見出すこと出来ぬ不規則な状態、とでもとりあえず括っておこうか。
その「無作為性」が、本書では総じて三段階に分類されている、と僕なりに読み取ったつもり。

・まず、人間世界における「古典的な無作為性」であって、人間が何らかの妄信を見出してしまうものたとえば、ルーレットやくじにおいて、なんとなく当たるような気がする数字配列、などなど。
・次に、やはり人間世界での「古典的な無作為性」ではあるが、人間が統計学によって過去の諸事実を個別化し、そして数理確率によって未来予測をパターン化しえた(はずの)領域。
そして、これが圧倒的なのだが、はるか人知了承を超えて巨大に宇宙をつらぬくであろう「カオス的な無作為性」。

さぁこうなると、物理学や統計学や数理確率論などなどに通じた人々は、「どれどれ、俺ならもっと精確に読解してやるのだが」、などと食指を動かされるのではなかろうか?
そうでしょうね、どうぞお読みください、きっと楽しい本ですよ。

ともかく今回は僕なりに関心抱いたコンテンツに絞って以下紹介しおく。



・人間が数理判断のみではなく信頼感覚によっても経済活動をおこす由を明かす 「最後通牒ゲーム」
…これは本年の慶應総合政策の一般入試英文でも引用された、心理試験の一例。
本書の随所にて引用紹介されている、功罪切り分け困難な実証実験や社会制度についての事例は、学術性の高さに辟易せぬ覚悟さえあれば、大学入試の重要な参考文献たりうるものともいえよう。

・18世紀の数学者ベルヌーイは、投資(賭け)における期待値と確率のパラドックスを記した。
つまり、ある投資における期待値を場合数ごとに確率計算し、それを集積すれば、なんと「期待値は無限大」となる ━ もちろんこんなことはありえない由。
そして現実に立ち返れば、確かに投資先の会社が倒産するなど、カオスとしてのリスクは存在する。

・いわゆる正規分布図は、抽出されたデータの「数値上の信頼度」をあらわす、ということは、「無作為なデータの少なさ」も表している。
正規分布図における標準偏差=σ(シグマ)値が、無作為なデータの抽出率の小ささを示す。
計算上、或る正規分布図で仮にその抽出データの信頼度が95%である場合、σ値は2となり、2012年のヒッグス粒子発見(とおぼしき)のケースではデータのσ値は5で、これは抽出データのうち無作為なものはわずか350万分の1に過ぎないことを表したもの。

しかしながら、これはあくまで抽出データにおける数理確率の話。
ヒッグス粒子が「存在しない確率が極めて小さい」 と反証的には導けても、「だからヒッグス粒子がほぼ確実に存在するのだ」 との実証にはならぬ。

・生物学の世界では、いわゆるインテリジェント=デザイン論を推す人たちがいる。
インテリジェント=デザイン論とは、生命の器官/機構の進化がおのおの個体にとって、初めから、そして必ず、有益なものに発展を遂げるようになっている、と説く論理。
たとえば、単細胞生物の繊毛はプロペラのように進化「することになっている(なっていた)」 という前提をおく。
そう主張する根拠は、生命の器官/機構が 「無作為な試行錯誤の段階を経つつ漸進的に有益になっていくはずがない」、というもの。

もちろん、「はずがない」 というのはあくまでインテリジェント=デザイン論という名の仮説にすぎず、実際の生物史をすべて俯瞰してこれが真実であると言い切れるはずがない。

・人間なりに観察しうる量子論にのっとれば、駐車場に停めた車の全ての原子が横移動して駐車場の外へ出て行ってしまうことだって、可能である。
しかし人間なりの確率論に則って考えると、実際にそのことが起こるまでには、宇宙が出来てからこれまでの時間よりももっと長い時間を待つことになりそうである。
そのころまでに実際の宇宙がどうなっているのか、どうして分かり得ようか?
(※ なお、何ヶ月も前に僕なりの超短編で「ランダム」というのを書いたことがあったが、この時の着想は、人間の認識しうる無作為性が本当に宇宙にとって無作為なのかどうか、ほわんと抱いた疑問による。)

宇宙に実在するすべての原子分子が、たまたま元通りになることもありえるだろうか?
現実には、恒星の核融合反応は水素→ヘリウム→鉄と、徐々に重い元素をもたらす、が、鉄を超える重量元素を生み出すにはエネルギー不足で、そのエネルギー源としては超新星の爆発が必要である。
尤も、たしかに重い元素は放射性崩壊して軽い元素もつくりだすし、宇宙にはどの恒星にも含まれない水素やヘリウムだって在る、とはいえ、熱力学エントロピーみれば宇宙は無秩序に向かっており、現在確認されている宇宙のエネルギー量を鑑みるかぎりでは、宇宙が元の状態に戻ることは考えにくい。
ただ、地球という系が太陽によってエネルギーを得ているように、現在知られている宇宙という系だって、本当は「まだ知られざる別の宇宙からのエネルギー」を得ているのかもしれない。

・人間は或る行為(思考も含め)を自己パターン化する習性がある。
概して、パターン化を物理学的にみれば、これは或るなんらかの系において、新たな「仕事」を「起こさない」こと。
パターン化によって、その系ではエントロピーを減少させ続けることが出来る、が、パターン化のためには外部からの投入エネルギーはどんどん大きくしなければならない。

・原因や理由はともかくとして、人間のうちには、無秩序な「自由意思」がある。
たとえば脳は、人間自身の意思決定(のつもり)以前に無意識に活動を起こしていること、60年代のアメリカ科学者リベットの実験以降は定説である。
もし「自由意思」の存在が認められないのなら、あらゆる人間のあらゆる行為は量子レベルからみても「すべて必然的になされる」、ということになる。
本当にそうならば、必然的な行為を常に起こす人間が、別の必然的な人間の起こした必然的な行為を、法によって裁定することなど許されるわけがない。

以上