2015/01/25

大学入試 『作文課題』 の成功法

国公立大学の一般入試本番まで残り一ヶ月、その前に私立一般入試が続く。
つまりは一般入試の直前期だ、だからこそ、自由作文や課題作文(英語ふくむ)について「明瞭確実な成功法」を記しておく。

まず、言っておく。
おのれの勉強動機/希望を、出来るだけ具体的にしておけ。
こんなものは、常識だ、これなくして自己主張など出来ようか。

次に、言っておく。
大学といえども、採点者は人間だ、なぜなら大学は人間集団だからだ。
だから、採点者の歓心を惹きつけるために、僕は/私は、どうしてもどうしてもおたくの大学で学びたい、と明記するのだ。
遠慮なんかするな、遠慮しているやつを大学が入学させると思うか?

これらを、おのれの「作文の結論」とするのだ。
「結論」をあらかじめしっかりと確立させておき、どんな課題作文に接してもここまで導いて、書き抜くのだ。
以下に、ちょいとだけ私案を記す。

====================================================

<例1>
君が「食材の品種改良について、どうしても○○大学××学部で学びたい」、としよう。
ならば、いかなる課題に対峙しても、これを必ず結論に据えるのだ!
さて、仮に作文の課題が、あなたがこれまでに読んだ本の中で、一番印象に残っているものについて、その理由を2つ書きなさい」 とする。
サァそうすると、たとえば以下のように作文課題を「結論」に引っ張ってくることが出来る。

「私は高校2年生の時に稲と麦についての本を読んで、勉強の意欲を大いに高められました。
その理由はまず、稲は秋に収穫する一方で、大麦や小麦は春に収穫が出来るため、両者が並行して全世界の人々のデンプン/アミノ酸の摂取を支え続けてきたということ。
次に、稲は品種改良やバイオ活用が進んできましたが、大麦や小麦はエタノールなどエネルギー効率の問題を指摘されつつも食材としての品種改良は目立っていないことです。
これら基本的な農産物の、食材としての更なる可能性について、もっと徹底的に学びたいと考え、出来れば新種の薬やお酒の開発も学びたいがゆえに、私は貴校への入学を志望致します

ね、簡単なんだから。
いかなる課題が提示されようが、青字で記した「結論」に引っ張ってくればよい。
多少は強引でもかまわない。
もちろん、「結論」についての見識を磨いておかなければ、課題と結びつけることは出来ないよ、基本的な理論も語彙もだ。
ウソデタラメは絶対に高得点は望めないんだぞ、当たり前のこと。
(なお、この作文例は僕のとっさの思いつきだから、そのまま活用してはいけない。)
試験当日、最後のさいごまで、頭の中で(心の中で)「結論」を強化しておけ。

===================================================

<例2>
君が「未来の企業における職業の在り方について、どうしても○○大学で学びたい」、としよう。
ならば、いついかなる時、いかなる課題に対峙しても、これを必ず結論に据えるのだ!
さて、仮に作文の課題が、少子高齢化とIT化について、あなたが考えるところを書きなさい」 とする。
サァそうすると、例えば以下のように作文課題を「結論」に引っ張ってくることが出来る。

「私の母は、かつて証券会社で働き、現在は自宅でインターネットを駆使して統計データをまとめるパートタイムの仕事をしており、ネット経由で以前の仕事仲間やお客様と情報交換が出来るので、とても便利だと言っています。
母によれば、今や終身雇用や定年退職という制度は意味が無くなりつつあるそうで、その理由は多くの仕事が画一的な集中生産ではなく、時間とコストを軽減させる分散型サービス競争へと移り変わっており、ゆえに企業が社員に一定の金銭的保障を確保し続けることが困難になっているからだ、とのことです。
しかしながら、私は日本の企業がみな分散型サービスに移行することはないと思います、なぜなら日本の最強の売り物は今でも工業技術で、これは技術エキスパートによる継続的技術が求められるからです。
ですから、日本の企業は近い将来に、技術エキスパートのみを終身雇用保障し、ビジネス競争は社外の人々へのネット分散で低コストと迅速化を図るという、そんな二重構造がどんどん進むと考えます。
そうなると、ビジネスは定年の無い高齢者の仕事、また少子化は技術エキスパート確保の問題として捉えられるようになると推察します。
このような職種と年齢層の関係をふまえ、将来の企業の在り方についてもっと徹底的に学びたいと考え、私は貴校への入学を志望致します

あとは<例1>と同じ。
自由度の高い作文課題ほど、却って意思をまとめにくく書きにくいものだが、青字で記したようなおのれなりの「結論」が明確かつ具体的であればあるほど、課題と結びつけるのはたやすい。

以上

2015/01/19

2015年センター試験について所感

さあ、今年もやってまいりました、大学入試センター試験。
つい先ほど終了した数学は、IIBがかなり難化したとのこと、旧課程/新過程の端境期問題を超えたエキサイティングな得点動因たりうるか、真冬の寒空をぽっと火照らす若者たちの興奮と憤懣とため息が瑞瑞しい。
全般的には、細かく点差をつけるための凸凹出題難度はむろんのこと、とりわけ、一元的な正誤判定問題に留まらず正答への「アプローチの深さ」を見極めんとする良問も社会科では見受けられ、この点鑑みれば、どうせあと数年継続するのならもっと立体思考プロセスを問うていけと感心させされた。

数学も現代文もあとでちょっと遊ばせてもらうが(大半は遊びだからね)、それらはともかくとして、社会科と英語について僕なりにささやかに留め置きたいところ有るので、さらりと以下に記す。

====================================================

<政治・経済>
第1問
問4、公権力による出版物の事前検閲行為は、言論・出版の自由を保持するため思想上の特別な事由を除いて憲法上禁止されている、が、「教科書の検定審査」は検閲行為にはあたらない、検閲でないのだから教科書検定は違憲行為ではない ─ と、ここまで理解が必要なもの。

問5、地方分権推進法の制定は1995年、そしてここで出題の地方分権一括法は2000年施行、とまず惑わせつつ、はて、日本で初めての消費税導入はいつだったっけか?とさらに惑わせるもので、1989年(平成元年)である。

問7、これは図抜けた難問。
社会保障の「財源」において事業主の自己負担率と公費負担率がともに高いのがイギリスで、「給付」の対GDP比において年金比率が高いのが日本だ ─ というところまでは見極めがきくとしても、ここにさらにドイツが混じっているために、日本とドイツの峻別がかなり困難だったろうと察する。
本問は、ドイツではなくアメリカの財源比率と給付比率を引用しておいた方が、イギリスとの共通点と差異を考えさせる良問となっただろうに。

問8は最高の出題の部類か。
受益者負担の間接税である消費税について、その負担者と納税者の違いについてリマインドさせるワクワクするほど楽しい問題で、絵表のフローは恐ろしく単純化されているとはいえ冷静な分析力を諮るもの、こういう課題こそ社会科の理想形といえまいか。

第2問
問6、これは先ほどの第1問-問7の続編のような出題で、こちらはイギリスとともにアメリカとスウェーデンのデータ引用しつつ、社会保障給付と貧困率の相関を問いかけており、知識と分析眼をともに試す良問となっている。

第3問
問1は典型的なヒッカケだ。
外国人の人権がどうこうとテキストが展開しつつ、非嫡出子(婚外子)に対する相続権がと出題箇所に入るが、ここでうっかり外国人の非嫡出子の相続権が、ととり違えるとひっかかる。
本出題はあくまで、嫡出子の半分であるとされていた相続権が「民法判断から」03年に最高裁で違憲であるとされた由指摘しているに過ぎず、親の国籍や外国人の人権など安直な連想から国籍法にこだわってはならない。

第4問
問2、これは毎度お馴染みの国際収支についての出題、尤も今回は軽く経常収支の内訳を再確認させるものにとどまっている。
要するに会計バランスシートにおける資産と同じ着想で ─ 既に売買しちゃったか或いは売買が決まっちゃった貿易・サービスの金額、また既に投資済の財貨からリターンされることになっちゃった利益、さらに無償であげちゃったカネ、これらが経常収支の額面の基本だ。
だから対外的な雇用者報酬も無償援助も含まれる(そして直接投資そのものは含まれない)。

問4はなかなかの良問、これまた国家間の経済比較で、特に「成長率」に注意。
90年代前半から経済成長「率」の鈍化が続きマイナス成長にも経験した日本、80年代に高い成長「率」を示したが90年代後半の通貨危機で激しい停滞が始まった韓国、その韓国より経済成長「率」が低く停滞フェーズは似通っているブラジル、一方では2000年代後半以降の世界経済停滞においても成長率だけは高い中国
─ とまあ、世界経済を「ストック(=国富の量)」と「フロー(=増加量およびその率)」とで切り分けて捉える上では、よく出来たトレーニング素材とはいえまいか。

==================================================

<世界史A>
第1問
問8 世界史Aにふさわしい統合型の良問。
ベルリン夏期オリンピックについて、ナチスドイツが積極的に開催したことは知られているが、その開催時期は意外に抑えにくい。
ナチスドイツは軍備が認められぬことに抗議して国際連盟を脱退(1933)したのち、独自の再軍備宣言に基づいて1936年にロカルノ条約を破棄しラインラント進駐、同年のスペイン内戦直後に、ドイツの国力と枢軸力を国内外に知らしめる効果をも狙ってベルリンオリンピック開催、さらにこの年末までには日独防共協定が締結された。
ただし、これら政治史の時系列を詳らかに覚えずとも、ベルリンオリンピックに際してドイツ国内インフラを急速に整備したこと想起すれば、粗鋼生産高が紡績生産高を抜きかつ4で割り切れる西暦年度から1936年と導くことは可能。

第2問
問2のクローン生命技術についての出題も、文明論を多元的に問いかける旨からみて世界史Aに絶好のものといえようか。
クローン羊ドリーの誕生は意外にも?1996年で、直接の関係は無いがちょうど国連が包括的核実験禁止条約(CTBT)を採択した時期である。
(ドリーとCTBT、これらは生と死の無言の交錯と言えなくもないし、両者ともに技術倫理面での世界的合意まだ途上にあるというところ、妙に暗示的に連想出来ないだろうか。)

第3問
問2、メキシコ革命は親米ディアス政権打倒に始まる一連の土地革命で、マデロやサパタが展開し、ディアスはドル外交で知られるタフト政権のアメリカに亡命、ここまでは第一次大戦前に起こっている。
意外にも盲点となりやすいが、アメリカ史とのつながりで覚えれば混乱することもなかろう。

====================================================

<世界史B>
第1問
問7、英連邦における白人5自治領はカナダが最初に成立(1867)、次いでオーストラリア連邦(1901)、さらにニューファンドランド(1907)とニュージーランド(1907)、そして南アフリカ連邦(1910)である。
ちなみに、ブリテン島に直近のアイルランドはさらに遅れて自治領としての自由国となり(1922)、エールを経て、第二次大戦後に英連邦から分離独立した共和国となった。

第2問
問7、江南地方の農業拡大のうち、稲作に不向きな土地では綿花の農地開拓も進んだが、これは木綿の衣類が普及した明代以降に拡大していった。
なお、ジョン=ケイの選択肢はちょっと戸惑わせるが、ケイが発明したのは飛び杼、つまり織り機であって、紡績機ではない。
紡績機の改良で知られるのはクロンプトンによるミュール型など。

第3問
問6
アッティラ大帝国と突厥の前後関係は意外な盲点。
アッティラが率いたフン人はもとは匈奴ともいわれ、その匈奴についで強勢となった柔然と争いつつ、ヨーロッパ侵入のアヴァール人などにつらなっていく。
一方で、柔然のあとからトルキスタンで強力になったのが突厥で、ササン朝ペルシアと組んでエフタルを滅ぼした。

なお、同じ問6には、第一次大戦時の日本における捕虜収容所の地図が掲載されており、ドイツやオーストリア=ハンガリーの将兵を収容、そこでソーセージやバウムクーヘンが
…とあるが、この地図をわざわざ掲載している意図が全く分からない。
日本の地理条件とドイツ産業の技術的な相乗効果云々を問うのならいざ知らず、そうでないのならこの地図は無用である。

問8のハンガリー現代史は盲点。
ハンガリーは第一次大戦後に社会主義革命が起こりソヴィエト共和国となるが、すぐに軍人ホルティらに打倒されている。
ソ連の衛星国としてハンガリーが人民民主主義(共産主義)を採用し人民共和国となった(1949)のは、コミンフォルムによるユーゴスラヴィア除名と入れ替わりのチェコの共産化クーデタよりもあとのこと。
ハンガリーは同年発足のCOMECONにて当初からメンバー国である。
また、ボスニア=ヘルツェゴビナが独立したのは、第二次大戦直後、ユーゴスラヴィア連邦の中の一つの人民共和国として。

===================================================  

<英語>
毎年そうだが、英語の出題文の知的程度は(一部を除いて)小学校4年生の「こくご」と同等か、とまれ英単語が厄介だから読み通すのに往生されられるに過ぎぬ。
こんなものでは、学生の秘められた知力を見い出せるわけがない…いや、知力を見出すためではなく、はたまた能力適正を峻別するためでもなく、あくまで総体的な得点差を点けるために英語センター試験を実施しているとしたら、どうにもせつない。
それでも(別投稿したように)、主として女子のオモテナシスキルとしてこのような外国語の試験をおくのであれば、せめて希望者の自由選択科目にして欲しいもの。

尤も、ごく僅かながら18歳の基本的な思考力を質す良問だってある。
たとえば、第3問の問3における、テレビ局同士の営業上の競合について論じた小問は大人志向の良問だが、"Because of competition ... "以降に続く文面から最初の選択文だけが主旨逸脱していることは分かってしまい、あまり凝ったものとはいえない。

第6問の、いわゆる「民間(市民)科学者」についての稿もなかなか良い、こういうのだけ出題すれば18歳なりの常識力を見極める効用もあろう。
だが、"Following a strict traditional procedure" や "Using a procedure designed by professionals to be more relaxed and enjoyable for volunteers,  a second group spent the same amount of time ...  のくだりは、どうも語法として違和感が残る。
まず、"strict" と "traditional" は概念的に親和性があるだろうか? "tradition"とは文化的な伝統を指し、人工的に強制さるべき規範を指すわけではなかろう、だが"strict"は人工的な強制観念だ。
また、"using a procedure" とはどういう行為だろうか?"under a procedure" とすべきではないのか?
なによりも。
本文では "citizen science projects" が "win-win situations" に在る、としているが、何が"win-win" といえるのか?
確かに、「市民科学者」たちから「プロの科学者」へは、低コストでの幅広いデータ収集と提供がなされ、これが「プロ科学者」たちにとっての効用となっている、が、逆に「プロ科学者」たちから「市民科学者」たちに何がもたらされているというのか?
「市民科学者」たちがデータ収集能力や自然界への知識意欲を向上させるのは自らの努力研鑽によるところであって、「プロ科学者」側から特別な教養を得るわけではない。
出題そのものを左右する疑義ではないものの、どうもおかしな文面との違和感が残る。

以上

2015/01/17

女子が外国語を学ぶ理由 (もしかしたら)

男が外国語を学ぶ理由は、3つしかない。

① ノン・ジャパニーズに対して、何らかの素材、技術、製品、カネ、文化を売り込む営業行為。
同じ技術や製品あたりの担当人数が少なければ少ないほど、技術精度は上がりつつコストは削減出来る。

② ノン・ジャパニーズから、何らかの素材、技術、製品、カネ、文化を買い付ける購買行為。
これも、同じ技術や製品あたりの担当人数が少なければ少ないほど、技術精度は上がりつつコストは削減出来る。

③ ノン・ジャパニーズと我々日本人のトータルベネフィット追求。
彼我間の競争と互いの勉強によって、ヨリ望ましい素材、技術、製品、カネ、文化を新規創出。
ここに至って、担当者を増やしていくことになる。

ところが驚くべきことに、どうも女たちにはもう1つ、外国語を習得する目的があるように思われてならない。
それは ─ ホスピタリティである。
オモテナシリティといってもよい。

そもそも、つくづく思い知らされるのだが、女たちの話には、「起→承→転→結」がない。
「起→承」しかない。
とにかく眼前に起こっているさまざまなこと、頭をよぎるさまざまなイメージが、起こってはつながり、また起こってはつながり。
起→承→起→承→起→承→起→承……
男にとって一番スリリングで燃える論理の「転」、たとえば拡大や飛躍や超越(あるいは黙殺)がない、だから女の話からは「結」が出てこない。
論説を書かせてみれば、男の方がずっと理路整然としている。
女の論説は理路が不明瞭な錯綜電波のごとく判りにくい、それも理系女子がとくに読み取りにくい、だから概して評価は低い。
ああ。
こんなだから、女たちは特定の目的志向の仕事には向かない、それ以前に新規セールスにすら向いていない。
出来ぬとはいわぬが、向いていない。

しかし、だ。
女たちにとっては、万物すべて、起こること、見ること聞くこと、食うものに至るまで、何もかもが出たり消えたりごっちゃまぜ、同時に話題の対象となり会話のテーマになっている。
一方で、自然界をごく素直に捉え直してみれば、この世でおこる物理現象も生命現象も、すべて混交であり同時進行である。
これは売り、これは買い、これが品質、こちらはコストであちらがメリット、これらがベネフィット、などなどという男たちのけじめは、もともと自然界には無い。
であれば、女たちが何でもかんでもピックアップして、話題にして会話ネタにするのは、むしろ自然に忠実ともいえなくもない。
そして、理系女子が(喋りは巧みなくせに)論説文が苦手なのは ─ というか嫌いなのも、物理現象や生命現象の巨大なごっちゃまぜであるこの自然界に忠実なるがゆえ、かもしれぬ。
むしろ、強引にズラズラっと一筆書きで起承転結を押しつけようとする男の方が、不自然なのかもしれない。

「なんでもかんでもごっちゃ混ぜの同時進行」という自然感覚に則るならば、人数もわんさかわんさかと多ければ多いほど楽しかろう。
わんさかと話題を拾っては交差しあい、多重で複雑な世の中をとてつもないマトリクスでつないで、何とか維持しているのかもしれない。
と、まあ、女たちがこういう本性を有しているとする以上、なるほど外国人へのオモテナシリティにも適している。
男だったら、外国人との無目的な会話は30分でもう耐えられなくなるから、お互いに黙ってしまう、だから社交には向いていない。
でも女たちはずっと何かしゃべっている。
こういう本性を女たちも十分に自覚しているからこそ、対外的なオモテナシリティのための手段として、外国語に憧れているのではないか。
ざっと、ここまで考えると、男の損得論理など吹っ飛んでしまう。
だからもう本旨について考えるのはやめた。

以上

2015/01/12

新成人 2015

ちらっと過去投稿を眺め返していたら、毎年このシーズンに新成人について雑感を記していたのね。
だから今年も書いてみよう。


そうだな、まず、今回の新成人たちは1994年度の生まれであって、過去一回りの世代のうちでもとりわけ優秀だとされてきた連中だ。
少なくとも、学力やスポーツなどのように顕在化された能力においては、まこと優秀な子が多いとされてきた。
全てにおいて、そして総体として優秀かどうかは分からないが、頼もしさは十分。

人間が世代を下るとともに能力発揮に優れていくのは、以前の世代を卑怯に矮小化させてきた強欲や迷信が根絶されつつ、エネルギー調達や活用の効率化、そんな好回転が進むからだろう。
まこと、人間はみな動的な存在だなとつくづく納得する。
しかも能力向上は、必ずしも全方位への直線的なプロセスを経るわけではなく、あっちこっちと試行錯誤の行為の連続。
その試行錯誤が誰の意思なのか、さっぱり分からぬところが痛快だ。

行為、能力、意思と並べておいてみれば、行為の内に能力が育ち、行為の外に意思が付く、というべきか。
どんなことでも行為から始まるのであって、未経験の物事に意志を確立することなど出来ない。
若い人たちは、何でもやってみることだ。

☆   ☆

いろいろ試行錯誤してみて、そこで理解出来ない観念に突き当たったとしても、怖気づくことはない。
おのれがどうしても理解出来ないものは、既に誰か先人の意思が紛れ込んで、こびりついている。
それらを全部バリバリと剥ぎ取って、ゴミ箱に捨ててしまおう。
それからあらためて、わけのわからなかったものをクールに観察し直してみれば、中から出てくるものはギラッと輝く素材と事実と論理だけだ。
さぁ、そこまで暴いたら、君たちが好きに料理すりゃいいんだ。

だからこそ、今年も言う。
「誰が」 「何を」 「どうする」 という思念において、まず「誰が」を切り捨てろ。
何が、どうなってんのか、何をどうすればよいか、そこんところを考え続けろ。
誰が、については、自然に定まっていくから。
でもカネはいつでも「誰か」にくっついているじゃないか ─ というのだろうが、それとて錯覚だ。
自由経済圏では、カネはずーっと回り続けるように出来ている、それはあらゆるビジネスがずーっと損得を繰り返して動いているからだ。
一方で、人間は誰だっていずれ死ぬ。
だから、永遠に誰かが専有し続けるカネなど在ったためしがない。

☆   ☆   ☆

日本は領域拡大が許されず、随意の武装すら許されず、日本円は世界の基軸決済通貨には格上げされていない。
つまり物理的条件は制約され、利潤の追求にも制限がおかれ続けている。
このような世界で我々が豊かになってきたのは、まず産業における供給競争に鋭敏だったこと、次に、出来るだけ多くの国民の消費力を尊重してきたから。
日本国民の産業競争力と消費享受、これらを「ともに」発展させるためにはGDP拡大(カネまわしの拡大)といった答えがなされうる。
が、それ以上に世界に打って出る拡張的な答えは、まだ明確ではない。
答えを出さずにじっとしている人たちの話は、きっと、答えが出ないようにという意思がロックを掛けている。
そんな意思はアンロックして、素材と事実と論理に挑んでいこう。

以上

2015/01/11

勉強についての雑感 2015.1

① 僕なりに、海外にいろいろ出かけたこともあり、また、IT産業関連の雑多な翻訳も続けている。
また、社会科とともに英語科教育にも携わっており ─ そんな僕相応にずっと抱えている意見もある。

たとえば、だ。
公的機関での外国語教育は、大学生になってからで十分ではないか。
高校教育までは、理数系と社会科系と文学藝術系の教科履修時間を3倍くらいに増やすべきだ、と考えている。
いくら外国語を学び、留学だMBAだに駆けずり回ってみても、おのれが対外的に発信するコンテンツがスッカスカのままだったら、先方だって 「オゥ、スッカンスッカンジャパニーズ」 と蔑笑しながらスカンスカンのコンテンツしか与えてくれないよ。
ビジネスとは、そういうもの ─ 外国語も留学もMBAもビジネスなのだ。

いや、外国語というのは特殊な思考操作だから、幼いうちから反射神経の強化が必要なのだ…という意見も聞く。
そうかな?
思考操作の能力鍛錬なら、数学とか物理学とか文学藝術とか経済政治などの方がはるかに効果があると思うんだけどな?
わが国、わが国民の外国語教育の在り方については、外国語教育への従事者 「以外」 の人たちが論じるべきだ、と考えるんだけどなァ。

なお、こんなような「外国語観」は、僕なりに過去のソフトウェア関連システムの国内外営業経験から組み上げられた発想に拠っている。
すなわち ─ 英語など外国語を、パソコンやスマホのアプリケーションサービスに例えれば…ネットワークのトポロジーや通信のメソドロジーにあたるのが数学であり、有線や無線の通信エンティティにあたるのが理科であり、コンテンツの経済性や道義性を探求するのが社会科ではないか。
あくまで「システム事業者としての構図」でとらえると、一番表層的な「アプリケーション=外国語」にのみ通じた人たちは、あくまでシステムに「便乗」しているに過ぎず、新たなシステムの創発は導けない、だからコストとして終わってしまうんじゃないかな、ということ。

これは僕なりの捉え方に過ぎぬかもしれぬ、それに、かつての職業センスをいまだに引き摺っていることも否定しない、それでもあながちデタラメではなかろう。

====================================================

② そういえば。
「ゆとり教育」 などというもの、学生や父兄が要求してきたわけがない。
勉強の途上に居ることを自覚している学生が 「ゆとり!もっと、ゆとり!」 などと求めるわけがない ─ すなわち 「ゆとり教育」 というのは教える側の要求であったに決まっている。

教職員の高齢化が進んだ、一方では理科や社会科で説くべきコンテンツは増えていく、ああもう無理だ教えきれない、いっそ、授業数もカリキュラムも減らしちゃおうよ、そうねそうしましょう、ってことなんじゃないの?
学習指導の能力への限界を自覚したのなら、「ごめんさない、我々はもう教壇に立ち続ける体力も気力も無いし、理科や社会科の新事実にもついていけないのです」 と堂々と宣言すればいい。
これを聞いた学生たちは、「ヘェそうかい、分かったわかった、じゃあ俺たちは好き勝手に勉強するから、センセは時々アドバイスしてくれりゃいいよ」 と納得してくれる ─ かもしれないし、それで新たな教育形態だっておこりうる。 

そもそも、「ゆとり」 によってすべての大学も、すべての高校もみな右へ倣えしてきたというわけでもない。
もしみなが本当にゆとりゆとりしてきたのなら、少なくとも知識量においては高校間の格差が縮小に向かったはずでしょ。
しかし実際には、むしろ高校別の大学進学格差は拡大してきたし、当の大学間で入学難度差が縮まってきたわけでもない。

いや、「ゆとり」教育は、学生の能力を知識一辺倒ではなく多元的に鍛えるのが目標だったのです、というかもしれぬ。
ほほぅ、それはそれで素晴らしきこと ─ それなら今になって 「ゆとり」 廃止に向かうのはなぜ?
それはね、左翼系の教職員がドサっと減って、かつ教職員全般が若返ったから、だからまた知識重視の長時間教育ガンガンいくぞ!
…とは穿ちすぎだろうか?
学生をなんだと思ってんだ、勉強しているのは彼らなんだぞ。

以上

2015/01/08

日本 vs 世界?

① かつて勤めていた電機メーカは、欧米人からどんな恨みを買っていたのか仔細はあずかり知らぬものの、なにがしかの間接的な手段を通じてずいぶんイジメられていた。
経営陣がどさっと替えられたり、大怪我させられり気がヘンになる役職者もいて、自殺は…まあそこまでは触れぬとしても、もちろんカネも脅し取られたし、その額にしたって5億や10億の騒ぎではない。
このように欧米人(それもかなりワルイやつら)と仲間たちによって無抵抗にイジメぬかれ、耐え難きを耐え忍び難きを忍びつつ。
それでも近頃は、日本の大人は日本!日本!といよいよ声を張り上げている。
ここまで僕なりにふまえて、ふと考えることがある。

もし、日本が主導権をとって、かつての満州国のような統一的な経済圏を新たにつくれば、地域全体で経済紛争を抑えつつ大発展するんじゃないかな。
かつ、日本円を世界の決済基軸通貨として認めさせ、企業経営と輸入と輸出と財政をすべて日本円で一貫させれば、かなり安定した事業展開を実現出来る。

供給面においては、とりあえず日本の業者がリーダシップをとるのが一番合理的。 そして需要は地域の人口で決まる。
そのうち供給面におけるライバルだってたくさん出てくるし、資源から技術までの分業だって進むだろうから、財貨やサービスのヴァラエティも富み、需要量だって増える。
この供給と需要の両方をくっつけて、とりあえず日本円でつないじゃえ ─ という発想で、特段不思議でもなんでもないし、もちろん支配だの植民地だのとはまったく真逆の大市場構想。

…こんなふうな日本主導の超国家的市場拡大の話って、いまのところあまり勇ましくないのね。
国際化というと、むしろアメリカ主導TPPへの警戒感のお話になっちゃったり。

=====================================================

② 日本よ!日本が!という勇ましい掛け声は、超国家市場への創造志向ではなく、やはり特許における対外黒字などを頼みとしたものかしら?
でも、技術力のみを追求するのなら、これは「質の問題」、だから国籍などむしろ足枷になるのでは?
同じ国民だという「だけ」の理由で、みんなに仕事を按分などしていたら、あらゆる財貨全般の品質がバラつき、納期もバラつき、だから利潤確保のコストが高くなる…と、技術サイドとしては考えるでしょう?
特殊技術に頼っていけば、得をする同胞はどんどん減っていく一方だと思うんだけどな。
それじゃあ、日本!日本!と叫んでいるのは誰で、それは誰のためなんだろう?
いつも、ここで考えが止まってしまう。

ただ、さらに一つ、質よりもむしろ「量の問題」として思い当たることがある。
国防だ。
軍事というのは、 遅かれ早かれ、相手の生命活動を停止させ得る能力が前提 ─ ということは、特殊技術といった質のみではなく、生命活動を停止させるエネルギー量でしょう。
ならば、こちらのリスクを最小に抑えつつの完全無欠の勝利とは、狙撃だ爆撃だ核兵器だではなく、電力でも石油ガスでもなく、相手側の全食糧を絶って餓死させることじゃないかな。

こっちは何の損害も被らず、相手が勝手に消えてくれる。
(逆にいえば、食糧を絶たれて全滅した、というのは最も一方的な負け方か。)
そうすると、日本!日本!という掛け声は量としての団結を訴えるもので、それは国防!国防!つまるところ食糧!食糧!ということかもしれない。

以上

2015/01/06

正論のつくりかた

2015年というと、どうも感覚として本格的に21世紀に浸かってしまったような気がする。
15という数字が四捨五入して20であり、そこで2020年とおくと、もう前世紀とは完全に一線を画した気になるから、じゃないかしら。

そんなことはどうでもいいが、依然として僕なりに「ほわん」と考えていることがある。
それは。
もしかしたら、人間の説くいろいろな論理方便のほとんどは、以下の3つの判断基準を克服することであまねく正論となっているのかもしれない ─ というところ。

① 無限か、有限か…何もかもすべて有限である。
② 必然か、偶然か…どこかで不可知(偶然)がおこる。
③ 体感か、情報か…自身が体感している。

===================================================

まず①の無限か有限かについて。
もし、この宇宙にたった一つでも無限に続く存在が確認されるとしたら、他にも無限に続く存在があるかもしれない。
であるのなら、全てのものや事象だって無限に存在し続ける「かもしれない」。
もっとも我々は、実際にはすべてが有限であり、変わり続けていると「信じている」からこそ、なんでも定量的に捉えている。
定量的にとらえるからこそ、或るものAが別のものBを含み、AがBの存在理由となるなどと因果論を説けるはず。

==================================================

次に、②の必然か偶然かについて。
もし宇宙のすべての事象が必然的にのみ展開するとしたら、人間は数学も科学も法も生み出してきたはずがない。
何がどうなるか、すべて予め決まっているのだから。
じっさいは、何か人知で推し量れない偶然が起こるはずだ、と我々が信じているからこそ、その偶然をちょっとでも回避するために数学や科学がおこり、法が必要になったのでは。

================================================

さらに、③の体感か情報かについて。
我々がなにごとかを考えるにさいしては、それを自分と切り離した存在=情報としてとらえ、因果を語ることが多い。
我々は超然と固定的に存在し、対象のみが流転していくのだと。
しかし実際は、そんなことを考えそんなふうに語っている我々自身も、一緒に流転している。
だからこそ、対象と一体化して一緒に動いていれば、なんでも体感し、おのれなりに体得することもできる。
いや、むしろ体感も体得も、一人ひとりが自分で為すしかない。
(哲学はもとより、解剖学者の養老孟司先生が一貫して仰っていることもここにあるような気がしている。)

そういえば、水泳が出来ない子に水泳を教えるには、補助器材をあてがってでも、引っ張ってでも、なんでもいいからまずは泳がせるに限る。
それで、浮かんだまま前方に推進するという行為が可能であるということをその本人に直接体感させるのである。
スキーを教えるのも、相撲を教えるのも、数学やビジネススキルを教えるのも同じで、分析は体感させたあとの方がよい。

==================================================

これら①有限である、②なんらかの偶然がおこりうる、③自身が体感している、との3つの前提をおさえれば、たいていの正論は成り立つのではないかな?

例として :
『なぜ、自由競争経済ではみなが豊かになる、といえるのか?』
(なぜ統制経済や配分経済では豊かになれないのか?)
それは、人間のあらゆる財貨は有限の物質であり、しかも世界では何か不可知の偶然が必ずおこり、そんなこと言っている我々自身だってそのうち死んじまうから
─ つまり、どんな需要が新規に起こるかは誰にも分からないが、自由競争経済なればこそ、みなが命あるかぎり需要をおって供給の競争に励み続けるからだ。

さらに例として :
『なぜ、どんな企業のいかなるビジネスも永続しないのか?』
いかなる素材も有限で、無からは生み出せぬため、どんな企業だって他者の財貨やサービスをもとに改良し創造し、さらにまた他者を顧客としてビジネスを拡大する、が、需要も変わり続けていくから、どんな企業や事業にもいずれ出番ナシの局面がきて忘却の彼方へ
─ しかしまた別のどこかの誰かが、別のかたちをとって新たなビジネスを始め、事業が拡大、これを、我々の種族が続くかぎりずっと繰り返す。

さらに:
『なぜ、既得の所有権が正当化されるのか?』
それは、いかなる財貨も有限の量的な存在であり、その価値を決める我々も不確定な有限の存在であり、しかも世界では何らかの偶発的事象がおこりうるから
─ だから、今ある人が所有する財貨はその人が存命のうちはその人のものだとし、何らかの価格をつける…さもなければ、みなが独自に価値の論拠を主張しあい、奪い合いや殺し合いになる。

さらに:
『なぜ安楽死は許されないのか?(あるいは許されるのか?)』
それは、我々人間の生命活動が有限であり、全ての生死が必然的に解釈された訳でもなく、また生きているかいないかはその当人の意思にも委ねられるからだ、うんぬんと。
もっとも、これは難解すぎて何が正論は分からぬが、やはり有限であること、偶然が起こりうること、当事者の主体的体感が問われること、の3つにのっとって論じられているのではないかしら。

===============================================

『なぜ万能細胞はあるといえるのか(あるいは言えないのか)』
『なぜ日本は領域を拡大せぬままカネを蓄積出来たのか』
『なぜ日本円は全世界の決済基軸通貨とならないのか』

これらの論題にしても、ざっと同じように①有限である、②なんらかの偶然がある、そして③自身が体感している、と論じ通すことによって、何らかの正論とは立つのではないか…同じように反論も立つとはいえ。

以上
まあ、こんなもの思いつきなので、あとになってからああやっぱりなどと考え直すかもしれない。
そしたら削除だ。

謝辞

ここに提示の記事は、いずれも私自身の判断責任のもと編集・投稿したものです。

大半の投稿は学生など若年層向けを意図してやや平易な表現にて、通俗性は極力回避しつつ、論旨の明示性を重視しつつ書き綴りました。あわせてまた、社会人の皆様にお読み頂くことも想定しつつ、汎用性高い観念知識を相応に動員しながら記した積もりです。

私なりの思考着想によるささやかな閃きが、皆様の諸活動にて何らかの光源たり得れば、望外の喜びであります。

山本