2015/02/01

『いただきます』 を英語で

英語について、また語ってみる。
ただ、母国語(僕にとっては日本語)こそが自身の意識の大半でもあり、入力・出力情報の大半でもある。
その上で外国語について考えてみよう、となれば、もう混ぜこぜ、だから母国語をもって外国語を「独立した系」として語るのはとてつもなく難しい。
よって、とりあえずの雑記雑感となる。
ただし、雑記なりにも最初にまとめて記しておくが、英語力は連想力が伴わなければならぬと思う。
それも、言葉の連想力以上に観念の連想力であって、だから教養が必要になる。

なおここでは、TOEFL や TOEIC といった資格試験を非難しているのではなく、それらのみをもって「日本人の英語力」と捉えてよいのかと問題提起しているつもり。

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① 日本語の 『いただきます』 を、異文化の人々に英語で伝えきれるか?

「いただきます」は、少なくとも以下の日本人の思念を渾然一体させた言葉だ、と僕なりに連想力を働かせてみた。 
・自然のめぐみよ、私の食材になってくれてありがとう。
・料理してくれた人へ、配膳してくれた人へ、私のためにありがとう。
・この素晴らしき機会よ、ありがとう。
・さあ、私はいまや心身ともに食べる準備ができましたよ。

そこで、今度はこれらをおおぐくりで観念化して英語へ。
たとえば "Thanks to all lives and things !" と言ったことがある。
生きとし生けるもの全てに感謝しつつ、食べましょう、のつもりだった。
ここで"all lives"とおいた僕なりの複合的な真意が、英米人に伝わったかどうか。
なんとなく伝わったような気もしたが、ちょっと大仰でもあるので、"Bless to all lives" と言いなおしてみたり。
お~やおや、"Bless" は神の下でのお祈りフレーズですよ、と指摘する人も多いが、そねなこと分かってんのよ。
その「お祈り」が、どこまで拡張解釈が可能かってところまで連想力を働かせたわけ。

同じく、日本人の根源的な思念である 「わびさび」 にしても、「心技体」にしても、「土俵入り」 「はっけよい」 などにしても、英語で一気にまとめて伝えるには、観念の連想力が必須じゃないかな。
分析的な注釈としてダラダラ描写するのなら、英語でいくらでも可能、しかし、それでは渾然一体とした精神文化を伝えきったことにはならない。
どうしても、観念の連想力が必要になると思っている。

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② 仔細は明かせぬが、ビジネス英語の初歩というべきくだらないエピソードにつき、ちょっとだけ記す。 
ずいぶん以前のことだが、かつて僕は或る海外顧客からこんな英文コレポンを入信したことがある。
"Some of your product features do not meet our technical standards. "
さて、この "not meet our technical standards" は、どういう意図で記された語だろうか?

僕なりにちょいと連想力を働かせて、これを 「技術規格からはずれている」 と解釈し、関係者たちにその旨を伝えた。
すると、一人のTOEICハイスコア男がいわく。
「standard は標準という意味だ、つまり技術的な標準からはずれていると言っているに過ぎず、特定の技術規格など指してはいない。翻訳は正確にしなさい」
いいえ、と僕は反論した。
「"standard(標準)" は完結した観念ではなく、なにがしかの要件=つまりここでは先方の技術規格が有るからこそ standard も定義されているはず。だから、技術的に規格外であるということになる」
なお、自己弁護ではないが、あらためて 「規格」 という日本語を逆に standard と英訳するとキッチリ伝わるケースも多い。

なんだ、くだらない、そんなこと先方に直に問いただせばハッキリするじゃないか、と思われるだろう。
そのとおりで、実際に先方に確認したところ、やはり特定の技術規格要件に則ってのメッセージだった。
だから僕の方が賢いのだ、と主張するつもりはない。
ただ、英語を用いるには、知識量のみならず、連想力(教養力)も大切なのだ ─ との僕なりの念はこの頃からのもの。

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③ 英語力と連想力(=教養力)について、さらにあげておきたい。
以下に記す英文版の日本国憲法前文(preface)のうち、下線部の"all nations" はイスラム国や中国や北朝鮮をも含むか?
We (the Japanese people) believe 
that no nation is responsible to itself alone, 
but that laws of political morality are universal; 
and that obedience to such laws is incumbent upon all nations who would sustain their own sovereignty and justify their sovereign relationship with other nations.

むろん、日本国憲法は日本人が解釈し、また具体的な法規の理念的な大本に留めるもの。さはさりとて、ここでの sovereignty (独立主権)はイスラム国にも有り、かつ他の主権国家と併存しているといえるのだろうか?
観念理解に留めるべきものに過ぎず、厳密解釈はあえて不要であろうか?

…などなど、多元的に連想力を働かせつつ、本旨について考えてみたい。

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④ 以上から、あらためて言いたい。
観念の連想力(=教養力)があってこそ、英語というアプリケーションを活かすこと「も」出来る。
逆は、ないと思う。
英語教育推進派は一貫して、コミュニケーション能力なるものを論拠に押し出すが、じゃあそのコミュニケーションとはなんだ?
おのれに観念の連想力なくして、異文化ピープルとのコミュニケーションなど出来ようか。
だから日本では、英語は18歳以上になってから、あるいは大学生になってから学べばよろし、と言っているのだ。
(18歳にもなれば、どんな子だって知力は中学生よりも格段に高くなっているので、英文法だ単語だいうのも習得は遥かに早い)。

なお以前に書いたが、女性はホスピタリティ能力として英語(ほか外国語)を習得したいとの念が強いようだ。
ただ、女性は拡散思考型の人が多く、だから携帯で話しながら百人一首でバシバシと札をかっさらっていくのだろう。
だが痛快なことに、女性たちは連想力はあまり高くはないようにも察せされる。
そんな女性たちには、教養学識にのっとった多元的な連想力を磨き上げた上で、異文化ピープルとの楽しいコミュニケーションを盛り上げてくれることを願っている。
(僕は楽しいコミュニケーションなど嫌いだけど。)

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⑤ ついでに。
最近は英会話スクールについていろいろ聞く機会が有ったので、ちらりと記す。

これまでの英会話スクールでは、英単語の連想力については教えてきたが、観念の連想力(=教養)については教えてこなかった。
どのような教養分野=産業分野のため、どんな教材開発をしかけているか、全く明らかにしていない。
じっさい、電話かけて訊いてみれば、うちはTOEFLやTOEICといった資格試験を全力でサポートします、との云いだが、依拠する教養分野=産業分野が無いのに資格取得をサポートするとは、いったい何のためなのだ?
どうも、主要産業への売り込みはほとんど行っておらず、どこまでいっても短期顧客のぶん取り合戦で存続しているに過ぎないようだ。
でもうちは事業基盤は磐石ですよ、などと言うが、どうもカネだけの話 (にもかかわらず、そのカネをどこに運用委託しているのかはハッキリさせていない)。
経営は人材会社や金融機関の筋が取り仕切っているケースが多いそうで、短期顧客の奪い合いとカネの運用「だけ」ならばそういう人たちが向いているのだろう。

とはいえ、良さそうな未来像についても、所感ながら記しておく。
これから英会話スクールがどのように変わっていくか、実はひそかに楽しみにしているのだ。
どう変わるかを決めるのは、経営層ではない、客層だ。
これから増えていく客層は圧倒的に高齢者だともいう。
高齢者の受講生は人生経験も就労経験も豊富な方々ばかり、そんな受講生がどんどん増えていけば、英会話スクールとしてもいつまでも教養面を黙殺してはいられまい。
もしかしたら、英会話スクールこそが大学にさきがけて 「精神文化の交差点」 「教養最前線」のような存在になるかもしれない ─ 必然的に。

以上