2015/08/28

時を駆ける美女

高校2年生のころ。
英語科の臨時教員として、非常勤の若い女性がとつぜん赴任してきた。
かなり背の高い、颯爽とした美人で、綺麗な瞳はいつも視線がまっすぐ、それよりも身のこなしがもっとまっすぐで、精巧な機械人形のよう。

まだ大学を出たばかりだそうだ、そういえばカナダ国籍らしいぞ、どうりであの風貌といい、あの雰囲気といい、ほらハリウッド女優でミステリーものに出てくる、何だったっけなァ、あの女優…などなど楽しそうな男性教師たちの言。
それらを僕ら生徒の側がさらに楽しくつなぎあわせて、「ボンド・ガール」などというあだ名を付けて面白がった。
着任から1週間と経たぬうちに、彼女は我が校で知らぬ者のない超美人ということになった。

彼女はいつも静謐としていたが、授業はのどかで楽しかった。
あっという間に1学期が終わり、彼女は学校を去っていった。
あの超美人先生、ずっといてくれればいいのになぁ、と僕たちはガッカリした。

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さて。
夏休みシーズンに入ったある朝のこと。
7:00をちょっとまわった早朝であったが、僕はほんの気まぐれから、市のはずれにある総合運動場まで出かけてみた。
陸上トラックに足を踏み入れて、僕はドキリとした。
真夏の朝陽が静かに照りつける、誰もいない孤独なフィールドを、まっしろなトレーニングウエア、綺麗なフォームと大きなストライドで走っているのは…
あっ!あれは超美人教師の彼女ではないか!

ぼやーっと見とれていた僕に、彼女もとっさに気づいたようで、軽く手を挙げて、そのままトラックを一周するとまっすぐに僕のところまで駆け寄ってきた。
「おはよう、山本くん、君も走りに来たの?」
「いえ、そんな…」
「せっかく来たんだから、一緒に走りましょう」
「いえ、遠慮します、僕は走るのは苦手で」
「ハンディ付けてあげるわよ、さあ!」
彼女に腕を引っ張られて、僕はトラックに立っていた。
そして、じっさいにかなりのハンディを付けて競争したのだが、彼女は疾風のように僕の脇をかーるく追い抜いていったのである。

「すごいですね!」 やっと一周し果せた僕は息せき切って大声を挙げていた 「……先生、まるで竜巻みたいだ!…」
「あっははは。あたしはもう、あなたたちの先生じゃないわよ」
彼女のこのような快活な声を聞くのは、初めてだった。
かすかに柑橘系の匂いがした。
「ねえ、走ると気分がいいでしょう?、山本くん」
「はぁ……あのぅ、先生はどうしてこんなランニングを」
「内緒よ」
「……はぁ?」
「ねえ山本くん、あなた、これから毎朝いらっしゃい。一緒に走りましょう!」
僕は弾かれたように頷きかけたが、それから慌てて首を横に振り、「いえ、あのぅ、結構ですから」
そして僕は逃げるように運動場をあとにした。

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翌朝、僕は何度か逡巡したものの、結局は彼女の指示通りに7:00に総合運動場に向かっていた。
もしかしたら、陸上部や野球部の連中が一緒に走っているんじゃないか、そうだとしたら僕なんか相手にならない、いや、相手にされない。
まさか、まさか…とドキドキしながらトラックを見やれば。
彼女はやはり一人で走っていた。
「来たのね山本くん!じゃあ今日も一緒にランニングしましょう!」

こうして、夏休みの早朝の不思議な日課が始まった。
彼女のランニングはとにかく凄まじいもので、トラックを何周も続けて駆け抜けながら、ほとんど疲れた様子を見せない。
僕がハァハァと懸命に走り続けるすぐ脇を、彼女は跳ぶようなストライドで何度もなんども追い越して、すーーっと遠のいていく。
「追いついてごらん!」 彼女が楽しそうに叫ぶ。
「追いつけたら、デートしてあげる!」
「ハイっ…いいえっ…ハイッ!」
肩で息をしながら、僕はそんなふうに答えるのがやっとだった。

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こんなふうに楽しくも厳しい早朝ランニングが小一時間。
それからシャワーを済ませ、二人で上水道沿いの並木道を、ちらりちらりと木漏れ日を正面に浴びながら歩いてゆくのが、決まりのコース。

その道すがら、僕はおそるおそるデートという言葉を思い起こしては、キュッキュッと消し去りつつ、キラキラッと朝陽に輝く彼女の端正な横顔をさりげなく盗み見る。
「あのぅ、先生はどうして日本へやって来たのですか?」
他に呼びようが無かったので、「先生」で通した。
「叔母がこっちに居るからよ、それに、日本が好きだから。あなたたちもみんな好きよ」
「じゃあ、そのぅ…これからずっと日本に」
「さぁ、どうなるかしらね」
「あのぅ、それで、今度はどこの学校へ」
「わからないわ」

しばらく歩いて、並木道を右に曲がり、通りに面したファミリーレストランへ。 
そこで、ちょっとお茶を、となる。
レストランの時計を確かめれば、朝9時をまわっている。
「あのぅ、先生、以前から訊きたかったんですけど」
「なぁに?」
「先生の、その腕時計。いろんな文字みたいなのがいつもチラチラと光ってますけど、いったい何なのですか?ランニングと関係が…」
「ああ、これね。うっふふふ、もし分かったら、ちゃんとデートしてあげるわよ。でもね、あなたには言えないものなの」
「なんだか、その時計を見ていると、時間が経つのがちょっと遅くなるような気がします」
などと、子供っぽい僕なりにちょっと工夫を凝らした会話のつもり。
それでも彼女は、 「あら、そうかしらね」 などと。
いつも誤魔化される。
そんな時、彼女の腕時計は悪戯っぽく点滅するのだった。

そして昼前にはレストランをあとにして、じゃあまた明日もね、ハイもちろんですと、簡単に声を掛け合って、そこで別れるのだった。

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本当の別れは、とつぜんやってきた。
その朝は素晴らしい快晴であったが、彼女はいつになく張り詰めた表情で、無言でトラックを走り続けていた。
そして、30分ほど走った頃だろうか。
風がにわかに強く吹きはじめていた。

ふと立ち止まった彼女は、いつもの不思議な腕時計を、やにわに僕の眼前に掲げた。
「ねえ、この時計」
「はぁ?」
「光が停まっているでしょう」
「はぁ」
「たった今、すべてが位相からはずれたところなのよ」
「へぇ」
そっけない口調でこんな言葉のやりとり ─ だが、ここから彼女は驚くほど鋭い口調に切り替え、僕の眼をまっすぐと覗きこみ、そして決然と言い放ったんである。
「ねえ、山本くん!一度だけしか見せないから、ちゃんと見届けてね!」
「えっ、何が?何を?えっ」 僕は狼狽していた。
「これから 『時間』 に挑戦するのよ!ねえ、お願いだから見てて!」
言いおくやいなや、彼女はジャージを脱ぎ捨て、レーシングスーツ姿となった。

初めてまともに目にした肢体に唖然としている僕の、ほんのすぐ前に、彼女は敢然と逆風に向かい立ち ─ びっくりするほどの速度で一気に疾走し始めた!
美しくも可憐なほどの獣性をもって、彼女の身体は宙空を突き抜けるようにいよいよ加速、あっという間に200mを駆け抜けていた。
その瞬間、彼女は大声で叫んでいた 「やった!我が新記録!向かい風!」
それからしゃくりあげて、泣き出した。
僕はしばらくは固唾を飲んで立ちすくんでいた。

やがて。
彼女は真っ白な顔で、僕のもとへ無言で歩み寄ってきた。
さっきよりももっと決然とした、けわしい表情が僕のたましいをキュンと締め上げ…
あっ、まさにこのせつな、彼女の腕時計がまた光り始めたのだった。
高貴なかがやき、残酷なほどに。
そして、彼女はその腕時計を静かに腕からはずし、なんと僕に突きつけたのである。
はずみで僕はそれを我が手に受け取ろうとして、否、僕は何か大きな力が体内に吹き荒れるような不思議なあせりを覚え、あっと拒みつつ後ずさりしていていたのだった。
すると、彼女はほんの一瞬だけ笑ったような、いや、笑い泣きのようなせつない表情を浮かべ ─ だがそれもすぐさま一転、今度は教師の顔を取り戻すと、思案げに僕の顔を見つめ直していた。
それから、彼女は僕を制しつつ、さよならと小声でささやくと、一人でトラックを去っていった。
去り際に、彼女の腕時計がひときわ眩く輝いたように見え、彼女はもう一度こちらをちらりと振り返り、何かを呟いたようだった。

それが彼女を見た最後になった。

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その夜、彼女の名前と「200m走」でネット検索して、彼女がカナダの大学在籍時に州の代表候補であったことを初めて知った。
彼女の家に電話を入れてみたが、既にカナダへの帰国の途についているとのことだった。
僕は半泣きのまま、彼女が残した幾つかの記録をあらためて確かめてみた。
そのどれもが、惜しくも 「追い風参考値」 に留められたものであったが、もっと驚かされたのは、それぞれの記録年月日と彼女の年齢表記に微かな矛盾が見出されたこと。

あの不思議な腕時計。
あらためて回想すれば、彼女とともに過ごした真夏の日々はつい先日のことのようでもあり、はるか昔のことのようでもあって。
それでは ─ 彼女が僕の眼前でやってのけた、逆風での奇跡的な快走は、いったいどこに位置づければよいのだろう。
僕はいよいよ訳が分からず仕舞いである。

おわり