2015/08/31

【読書メモ】 「わかる」とは何か

「わかる」とは何か 長尾真・著 岩波新書
2001年に初版のもの、著者の長尾氏は情報工学者として斯界にて広くご活躍、また元・京都大学総長。
本書は、人類がこれまで数理科学にて獲得しまた活用してきた幾多のリーズニングつまり 「推論規則」、その信頼性について探求した軽妙な哲学書である。
「わかるとは何か」とエンタイトルされつつも、本書の大半はむしろ我々が科学や論理を 「誤解するのは何故か」 との問いかけであり、深く遍く展開される論理論考が楽しい。
とはいえ、抽象思考のみならず、前世紀以来ずっと議論喧しい科学/技術論も数多く例示され、それらを斜め読みするだけでも大意は捕捉しうるもの。
(たとえば、クローン技術、原子炉、地球温暖化、クォーク、ダイオキシン、コレステロールなどなど。)

さて本書の核はなんといっても、第2章 『科学的説明とは』 および、第3章 『推論の不完全性』 にて呈される、「推論規則」 への様々な考察そして疑義。
よって、此度の 「読書メモ」 にては、この第2章と第3章を論考の始点とあえて捉えつつ、僕なりの所感交えて要約してみたい。



・自然科学や数学における「説明」は、「なぜ~~であるか」 と根拠を明示するためになされる。
とりわけ物理学や化学は、或る現象の 「生起する理由」 と 「原因」 を説明すべきもので、これらこそが典型的な科学的説明の学問である。

・或る事象 E が生じたことへの説明は、基本的には「演繹モデル」をもってなされる。
これは、或る幾つかの事象(状態) C1, C2, ... と、或る幾つかの 「推論規則」 L1, L2, .. をうまく組み合わせて、事象 E の生起を論理的帰結とする道筋発見のプロセスである。
このなんらかの 「推論規則」 L1, L2 ... はそれぞれ、「A(前件) ならば → B(結論)という形式」 をとっている。

ここで仮に、或る事象 C と ひとつの結論 D を結びつけるにあたり、推論規則として L1を A→B とし、推論記録 L2 を B→D とすると、証明の演繹モデルは以下のようになる。
まず C=A が間違いないものとして、 A→B (推論規則 L1) を適用すると C→B である。
C→B であれば、B→D(推論規則 L2 ) が適用出来、C→D といえる。
これが演繹的証明サイクルの例であり、この C→D のような演繹証明をさらに何通りも何重にも積み重ねていけば、いずれは E に帰結。
この E が当初からの証明目的、かもしれぬが、あるいは新たな発見定理たりうる。

・さらに、「推論規則」 の積み重ねプロセスには「確率的/帰納的モデル」もある。
これは採用する 「推論規則」 L1, L2 ... が先験的なものではなく、人間の経験則に拠った論理であるとし、それぞれ推論規則が或る確率で成立するに過ぎぬとするもの。
上と同様に、たとえば或る事象 C1 と C2 が確かな事象であり、ひとつの結論を D を導くとしても、ここで採用する 「推論規則」 L1, L2 の成立確率がそれぞれ P1, P2 ...(0≧P≧1) に過ぎないならば、ここから導かれるひとつの結論 D の論理的な正しさも P1 x P2 に過ぎないことになる。
※ 養老孟司氏などは、生命現象が統計上の歩留まりに如かず、帰納的推論から「とりあえず」理解されているに過ぎない由を説かれている。

(なお、数学的な帰納法は、ある所与のモノの性質Pが無限の自然数回において成り立つことを証明する思考パッケージでしかない。)
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・問題は、あらゆる事象から結論への説明プロセスにて採用される 「推論規則」 の妥当性や信頼性。
普通、数学における幾何の公理などは、我々にとって先験的に与えられた「推論規則」 ということにされている。
しかし、「本当に」先験的に正しいといえるのだろうか?

18世紀のヒュームによれば、或る複数の事象が連続して確認されるとき、そこに見出しうる公理や法則(つまり推論規則)が真に先験的な因果律であるかどうかは別にして、我々人間は「経験的に」それらを必然化する傾向がある。
ならば本当は、いかなる公理や因果律とて、もともと誰かが過去に経験的に帰納推論したものに過ぎないことになる。
一方、K.ポパーは、科学の論理構築において「事実が法則に合致しない」反証例を示してこそ、それまでの科学が基礎から変えられる、と主張。

とはいえ、自然科学や数学における既得の 「推論規則」 そのものを根拠無きものと切り捨ててしまえば、学問はそこで終わりである。
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いったいどういう判断から、我々は或る 「推論規則」 が正しく採用されていると見做せようか?

たとえ帰納的な(確率上の)推論プロセスであっても、対照実験など実際の検証を繰り返し、「正しい推論規則」 のみ厳選につとめれば、演繹的推論と同じく事実から結論へ正しい道筋をたどった、と信頼されうる。
しかし実際の科学の現場においては、特定の 「推論規則」 が黙殺されやすく、一方では過度に一般化されやすい 「推論規則」 もある。
そのため、或る事実から推論されたはずの或る結果が信用しがたいものとなる場合もある。

そもそも、或る事象C から或る結論への説明において、何らかの A(前件)→B(結論) という 「推論規則」 を適用するためには、その事象C と A(前件)が部分的にでも対応していなければならない。
それでもなお、結論が予期せぬものとなったのであれば ─ それはニュートン力学に量子力学が加わったように新たな 「推論規則」 の発見であり、これが科学の拡大である。

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科学的説明においては 「定性的な推論規則」 ではなく、「定量的な推論規則」 の採用が必須である。
「定性的な推論規則」 ばかり採用すると、科学的説明において論理的な自己回帰、つまり或る推論の結果がまた同じ前提となるか、あるいはその前提自体を否定するものへと至りうる。
(※ これは僕なりにいろいろ思い返すところ、概してソフトウェア関係者は定数的な推論規則を好み、前提と結論の堂々巡りをしがちであったが、ハードウェア関係者は定量的な推論規則を採って結論を導く場合が多かった。)

・ただし、或る世界(系)で定量的に成立する 「推論規則」 が、別の世界(系)でも成立するとは限らない。
そして、その「推論規則」 が 「どこで、どのように成立しえないか」 を理論的に知ることは不可能である。
尤も数学であれば、或る 「推論規則」 がいつでも成り立つか否かは背理法(対偶)によって判断することが出来る。

・なお、或る人が或る推論のプロセスにて、何故に特定の 「推論規則」 を当てはめ更に組み合わせるのか、その本当の理由説明は今のところ不可能である。
これは、或る事象の生起からその結果を説明するプロセス(前向きの推論)であれ、あるいは逆に或る事象結果からその生起原因に遡るプロセス(後向きの推論)であれ、同様である。

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…以上、如何であろうか。
本書はp.90以降にて、或る推論規則の採用理由を専門家が一般社会に理解させるため、どのような工夫が求められるか、と続く。
ここから先は科学と社会の合意や誤解について検証したエッセイであるが、上にまとめた 「推論規則」 選択妥当性への疑念をふまえつつ読み進めることをお勧めしたい。