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東京都立川市出身、慶應義塾大学卒業、某電機メーカ勤務にてソフトウェアシステムの海外プリセールス等を経て、現在は教育関連に従事

2015/09/25

【読書メモ】 図解・直観でわかる経理のしくみ

企業人にとって常にスリリングかつ悩ましい現実とは、設計、製造、販売、購入する物質マテリアルが、その材質や仕様においては人知と完全な同期をとりえないということ。
しかしながら、あらゆる財貨の通貨額面「だけ」は、人間の論理で設定したものゆえ、人知と完全に同期をとっているのも当たり前。
そもそも社会科系の諸分野からして、人間の論理のみにて完結を図るもの、とりわけ会計分野こそは自然物の無作為性や未知の市場の可能性を徹底排除したという点で、最も人間寄りの学問系といえまいか。
…と、いったことをあらためて考えるきっかけとなったのが、此度紹介の本である。
図解・直観でわかる経理のしくみ 加藤弘道・著 東洋経済新報社
此度読んだものは2014年の新版。

本書は経理・財務会計のコンセプトを、あたかもソフトウェア仕様書におけるメインルーチン/サブルーチンの多重的な体系構造のごとく、びっくりするほど完結的にそして視覚的に説明したもの。
数学教育における最良の教材はタイル図である、とはよく言われるところ、まして財務会計は数学ほどの抽象性は求めないもの、よって本書掲載の多くの図表から基本理念は十分に捕捉出来よう。
なるほど文面にては散発的な説明が随所に見られるものの、筆者も推奨されるとおり、文面よりもまずはコンセプトの図表そのものから直観的な理解を引き出されたい。

思い返せば僕自身、社会人生活の前半期には技術系の方々の指示(や叱責)を仰ぐ経験が多く、その一方で法務や財務の諸知識については商社からの聞きかじりで学んだものの、体系立てた勉強はしたことがなかった。
そんな我流学習の「すっ転がし」のような僕なりに、今さらながら言う ─ たとえば、恐らくは誰もが一度は困惑させられるストックとフロー(資産と費用)の連関、固定資産、棚卸、原価計算(とくに製造業)といったところも、本書から直感的に理解しうると信じる。
会計分野を狙う学生諸君、企業人ことはじめの若い人たち、ほか財務会計についてオーバーオールな理解を期する社会人の皆さんにも是非ともお薦めしたい、大傑作本である。

よって、今回の本ブログにおける【読書メモ】として、特に興味惹かれたコンテンツを、「該当の図表番号」から適宜抜粋、僕自身のリマークもつけて以下に要約しおきたい。


図表番号「04」 パチオリ図と財務四表
パチオリ図とは、会計史上の巨人ルカ=パチオリに始まる複式簿記方式からおいた総称。
本箇所こそが、本書を読みぬくための最も根本的な、そして究極のコンセプトといえようか。
本箇所における総覧図が、B/S(貸借対照表:バランスシート) P/L(損益計算書) の対照性および連関性を直感的に明示。
かつ両者の内訳、つまりB/Sにおける「資産」と「負債」と「純資産」の対置、またP/Lにおける「費用」と「収益」の対置を記す。
さらに、B/SにおけるC/F(キャッシュフロー計算書)S/S(株主資本等変動計算書)の意義付けも略記。
※ 一応、僕なりに基本用語を付記しおく。
企業会計には、外部報告を目的とする財務会計と、企業内部の経営管理や報告のための管理会計があり、本書の対象範囲はあくまで財務会計である
※※ たいていの複式簿記の参考書類は、おおむね、上記の「資産」「負債」「純資産」「費用」「収益」を別個の勘定として複式にエントリー…と概説されている、が、本書の方が全体における意義付けを理解しやすい。

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図表番号「05」 二つの利益の計算法
決算における会計方法に、「財産法」と「損益法」があり、これらが連関している由を本箇所にて明記。
財産法とは、B/S(貸借対照表)は企業の決算日におけるストックからアプローチし、資産-負債の計算にて当期純利益を算出するもの。
一方、損益法とは、P/L(損益計算書)にて企業の通年経営フローにおける期間損益としてアプローチし、収益-費用から当期純利益を出す。
この両アプローチによる当期純利益が同じ額面となること、明示的にわかる。

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図表番号「07」 損益計算書P/L
この箇所では、P/Lにおける期間損益計算の論拠として、売上時の「発生主義」をとる由、また(パチオリ図のとおりに)「勘定式」として表すケースと、各売上アカウントの収益ごとに費用を縦下に列記する「報告式」での表現ケースがある旨を概説。

※ ここにて概説のとおり、実際のP/Lでは「報告式」をとるものが多く、損益計算書づくりや分析において意外に悩ましいものである。

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図表番号「13」 会社の活動と経理の業務
本箇所は経理部門の担当者であれば暗記必須。
B/Sにおける資産、負債、純資産それぞれ、そしてP/Lにおける費用と収益それぞれの管理業務につき、総覧明示している。

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図表番号「16」 ダブル・エントリー・システム
図表番号「17」 ダブル・エントリー(仕分)の基本パターン
この2箇所の図表こそは、パチオリに始まったアカウントごとの増加/減少の二面的記録=すなわち複式簿記の表現エッセンスそのもの。
これらこそが観念理解において最も重要な図表である。
B/Sにおける資産とP/Lにおける費用では、左側がプラスとしてのエントリーで右側がマイナスとしてのエントリー。
その一方で、B/Sにおける負債と純資産、およびP/Lにおける収益においては、逆に左側がマイナス、右側がプラスとしてのエントリーとなる。

実際に図表「17」にては ─ 資産の増加ないし減少のパターン、借金のパターン、出資のパターン、売上のパターン、負債交換のパターン、借金返済のパターン、費用発生のパターン、掛仕入のパターンのそれぞれを、B/SとP/Lの総覧図におけるプラスとマイナスのエントリーにて表現。
これほどわかりやすい総覧図は他に目にしたことがない。

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図表番号「22」 売上原価
図表番号「23」 製造業の原価計算
この2箇所はB/SとP/Lの連関を理解する上でとくに重要である。
商品の売上原価つまり費用の計算方式として、とくに「期首繰越」、「今期仕入高」、「期末繰越(在庫)」ごとに充当される売上原価を分けて計算する由。
ここで繰越商品はあくまでB/Sにおける資産計上されているが、実際の仕入→売上の分はP/Lにおける売上原価となる由を理解必須、この期末の資産/売上原価の調整が事業者の誰しもが関わる棚卸である。
とくに製造業の場合、材料、仕掛品、製品とさらに分けてB/Sにて資産計上しおく。

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図表番号「28」 減価償却とは
本箇所にて、減価償却もB/Sにおける資産とP/Lにおける費用を連関させる、経理上の手続きである由を概説。
複数年使用が見込まれる設備などの固定資産を、P/Lにおける費用として最初から過大に計上すると、P/Lの収益が減ること必定、そうなると株主への適正配当も出来なくなる、との見方。
よってその固定資産の取得減価、耐用年数、最終使用時の残存価値までを定義し、B/Sにおける資産から徐々にP/Lにおける費用(と累計額)で提示する由。

※ 減価償却の基本概念については。社会科(とくに政経科)にて国民所得計算の一環として学ぶ、が、そもそも会計上の意義については意外に了察されていない節がある。

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図表「31」 税金
ここでは、法人税申告における課税所得計上のテクニックを記している。
要は、P/Lの左側において期末時点での損金が如何に大きく、右側における収益が如何に少ないか、よって課税所得がどれだけ少ない「はず」かを記す方法論外説。

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図表「38」 利益の動きをパチオリ利益図で分析する
図表「39」 パチオリ利益図で見る黒字と赤字の分岐点
図表「40」 利益計画に必要な利益の逆算思考
図表「41」 利益ツリーでみる単価のインパクト
この4つの図表にては、P/Lにおいて固定費をにらみつつ限界利幅率、そして損益分岐点上の売上目標額をまず定義し、さらに商品単価と数量の最適分析へと進む。
パッと見ると幾つもの数式が列記されているが、実際は中学生でも解るほどの単純な数学計算であること一目瞭然。

<注記>
もちろん、こんな程度の内向きの計算で、企業の新規開発能力や未来の財貨や市場関係がわかるわけがない。
本書はあくまで会計の概説書として了察すべきであり、さらに中盤部から後半部にかけて記された戦略分析論にしても同じことである。

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※ 念のため、財務会計について制度上の一般論を「僕なりに」付記しおく。

・金融証券取引法にて、証券市場における資金提供者(=投資者)の意思決定便宜つまり証券市場効率向上のため、上場企業に対して有価証券報告書の毎期開示を要求。
ここに財務諸表が含まれなければならない。
財務諸表は「財務諸表規則」と略称される内閣府令、「企業会計原則」、「企業会計基準」に従って作成必須。
そして公認会計士または監査法人の監査証明を受けねばならない。

・会社法(2005年に商法から独立分離)では、倒産時の財産剰余金が(有限責任制度に守られる)株主へ過大配当されないよう、株主への分配可能額を規定し、会社の財産にのみ頼るしかない債権者の権利を守っている。
かつ会社法は経営者に対し、株主より受託の資金の運用能力を明示させるため、「会社計算規則」に則った貸借対照表や損益計算書など計算書類の会計報告責任(アカウンタビリティ)を課している。
これによって、株主は経営者に対する業務委託継続の是非判断が可能。

・法人税法では、株主総会によって確定された会社の損益計算書における当期利益をおおむね基礎として、課税所得を算定(確定決算主義)。
このため会社の財務会計もむしろこの算定を意識してなされている。

さらに、法規制枠外としても海外向け英文財務諸表や環境・社会的貢献(CSR)を明示する財務会計もある。

以上

2015/09/15

生体反応リモート検知システム

パッと閃いたことを記す ━ だから確固たる根拠も無いし、スタディもしていない。

さて、多くの犯罪には、自動車が関わっている。
自動車に対する窃盗の類というより、むしろ、自動車の「中に他人を無理やりに連れ込んだ」犯罪、たとえば誘拐、強盗や傷害や殺人など。

ところで ━ 自動車とは本当に個室だろうか。
ホテルの部屋は確かにプライベートな個室空間といえる、が、自動車の場合、公道を走行するかぎり、それ自体がまさに公道と同じじゃないか。
そもそも、公道において自動車の中だけが密室であると考える方が、おかしいのだ。
そして、公道に監視カメラが設置されるのなら、まったく同じ理由で、自動車の中だってリモートに監視されて然るべきだ。

いや、それだと自動車内のプライヴァシーが守られない、と反論ゴウゴウかもしれない。
いやいや、互いに知った者同士で何しようが勝手にどうぞ、そんなことより、「車内に居るはずのない人間が乗り込んでいる車両」を、リモートに検知したらどうかって言ってんのよ。
このくらい、やりゃぁ出来るんでしょう?

まず簡単なやつ。
少なくとも自家用車とレンタカーはすべて必ず、運転者と家族の指紋なり虹彩なりの生体データを初期登録必須とする。
かつ、「それ以外の人間を同乗させる場合も、その人物の生体データを必ず追加登録必須」 というシステムとすればよい。
そして一方では、道路に一定間隔で設置された検知デバイスによって、走行中の一台一台の車内から生体データを常時受信すれば、どの車両に誰が乗車中かがいつでも遠隔検知出来る。

問題は、そんな生体データ登録プロセスを経ずして、どういうわけか乗車人数が増えている自家用車だ。
それこそが、「誰かを強引に連れ込んだ」疑いがあるのだ。
ならば、走行中車両の「車内におけるCO2など何か生化学反応の変化」を検出するよう、相応の検知デバイスを道路に設置すればよい。
車両内の生体反応における明らかな変動=「誰かが強引に乗車させられた」とおぼしき走行車両を、随時追跡が出来ればよいのだ。
(車外排出のCO2の分析に熱心なら、走行中車内のCO2の変化量こそ精密に検知すりゃいいんだ。)

もちろん、同じような生体反応検出システムによって、走行中車両内の人間による麻薬類使用、酔っ払いなども随時検知・追跡ができよう。

…と、ここまで書いていてやっと気づいたが。
そもそも、こんな程度のことはとっくのとぅに実践済かもしれない。
そうであったとしても、とりあえずは知りようがないが。

以上

2015/09/12

ネイチャーとルール (2)

先の投稿にて、人間世界のルール(法)は人間のネイチャーの収斂系ではない、と書いた。
そしたら、ひとつの反論として、アングロサクソンは自然法と判例主義に則っているから、ネイチャーとルールが「一体化」しているぞ、という由があった。
この指摘について、ちょっと考えると確かに正しいような気もするが…
いや、この「一体化」論は、「人間の雑多で不規則なネイチャーのうち、ルールに適合したものだけが法規範→自然法として残った」 という、いわば結果論に過ぎぬのではないか。

もしもアングロサクソン文化圏が、人間のネイチャーと社会秩序ルールを完全無欠に「一体化」させているのなら。
どうして英国議会にわざわざ高等法院をおいて司法判断の論拠機関としているのか?
さらに、どうしてわざわざ判例を残すのか?
また、なぜアメリカ合衆国は司法組織機関の権能の多くを独立させて、三権分立の政治システムを採っている?
むろん、事はアングロサクソンには留まらず、世界の多くの地域では司法権の独立はもとより、成文法主義をも採っている。
それどころか、人間のネイチャーと社会秩序ルールが完全に同一である(ことになっている)厳格なイスラームの世界だって、やっぱり司法機関をちゃんと設置している。
これをどう理解すればよいのか?

もし仮に、人間のネイチャーと社会秩序ルールが常に完全に一致するのなら、司法システムそのものが素より要らないはず。
むしろ、両者間にズレが起こるという前提があるからこそ、両者の補正機関として司法システムが設置されているのではないか。

そうだ、神といえば。
アングロサクソンほかヨーロピアンは、そしてイスラームは、どうして一神教を信じ、あるいは改編して、現在まで保持し続けているのか?
人間のネイチャーが社会秩序ルールと常に完全に同一のものであるのなら、神の存在などわざわざ設定するはずがない。

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ここでの鍵は、人間のネイチャーと社会秩序ルールを収める中立の第三者の設定 ─ それが、もともとは神であり、それから法規範となり、そして戦争やビジネスでいえば仲裁機能の設置ということになるんでしょうね。
どんな思念においても、Aという与件とBという要件を評定し、相互に補正し折り合いをつけるためには、更なる力点としてCをおかなければならぬのは当然のこと。

ただ、更に残された謎、というか重大な課題がある。
そもそも我々は、社会秩序ルールの側を人間の生来のネイチャーに合わせて補正すべきであったのか、あるいは逆に、人間のネイチャーを無理やりにでも既存の社会秩序ルールに合わせるべきであったのか、というところ。

ちょっと気になるのは儒教。
これなどは、人間のネイチャーの方を既存の社会秩序ルールに強引にアジャストさせてきたのかもしれぬ。
「…かもしれぬ」 などと曖昧に書くのは、じつは僕は儒教精神というものを叩き込まれたことがないし、儒教に神も法も介在しないようだから、主観的も客観的にもほとほと分からないのだ。 
たとえ朱子学や陽明学で、宇宙の理がなんたらかんたらといえども、実際の儒教文化においては、皇帝やボスを筆頭にメンツやカネに則った、いわば「当事者間のみにおける強制力」ばかりが横行しているのでは、と考えてしまうこともある。
おまえは俺に従え、なぜなら俺も先輩に従ったからだ、他に理由など無いんだ ─ うむ、本当にそういう世界であるのなら、人間の生来のネイチャーなど捻じ曲げられる一方ではないか。

儒教には、たとえば 「三歩下がって師の影を踏まず」 などというまことしやかな教えがあり、君臣の義とか長幼の序などと称するらしい。
だが、そんなこと言ってる連中自身、若い頃には師の影を踏まぬどころか師の本体を踏んだり蹴ったりしてたんだろうが。
それでてめぇが老境に差し掛かると、年下の連中に向かって 「師の影を踏んではならぬ」 なんて諭してるんじゃないのかな、ダメだよそんなの、ははは。
そういう人のもとへ、そーっとカネを包んで持っていったら、「おまえは若いのになかなかの人物だ、俺が若いころも同じことをしたもんだ」 なんて目を細めて喜んでたりして。 
これなら、儒教文化圏が贈収賄や粉飾決算と相性がいいのも納得出来る。
(ちょっとイジワルに穿ち過ぎかしら、だけど儒教には超越的な絶対正義が無いようで……)

儒教と共産主義の相性は、どうなんだろう。
共産主義そのものは極めて一神教的、つまり、最終理想形が論理的にはちゃんと定義されている。
あらゆるマテリアルの希少性が克服さえされれば、みなが幸せに生きられることになっており、それを阻害する強欲な利潤競争は悪だということになっている。
とはいえ、その理想論の実現プロセスにおいては「強制力」が必要。
だから儒教と相性がいい、あるいは儒教と徹底的に対決する……どっちかな、中共では儒教は人間的過ぎるとしていったん全否定されてしまったが。

以上

2015/09/06

ネイチャーとルール

① 人間はいつも二重に生きて、二重に死ぬ。
ひとつは 「ネイチャーとしての自己」 として生き、そして死ぬ。
もうひとつは、「ルールにおける自己」 として生き、そして死ぬ。

生には順番がある。
まず 「ネイチャーとしての自己」 が生き、その集合として、「ルールにおける自己」 が生きる。
だから、死にも順番がある。
まず 「ルールにおける自己」 が死に、それから 「ネイチャーとしての自己」が死ぬ。
「ネイチャーとしての自己」 が死んだら、もう社会貢献は何も出来ない。 

それでは ─ 人間は必ず 「ネイチャーとしての自己」 が 「ルールにおける自己」 に優先されるべきなのか?
どんなルールだって、もともとは誰かのネイチャーだった、それがたまたまルールになっただけさ…とみれば、なおさらルールなどは虚構であって、人間の本源は各人のネイチャーだということになる。
だが、現実世界はそうではないですね。
経緯はよく分からないが、人間はルールなるものを発明し、まずは 「ルールにおける自己」 があり、その制約下で 「ネイチャーとしての自己」 もある。

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② おもいきって学問について考えると。
少なくとも 「ルールにおける自己」 のための数学があるね。
それは全世界の皆が、ハード/ソフトの共有と効率化のために習得しなければならぬもの。
だが、「ネイチャーとしての自己」 の数学だってある、かもしれないぞ。
特定の個人だけが抱く数学、のような思念体系だ。
それが社会システムにおける 「ルール」 に貢献しうるかどうかはわからない。

音楽は、楽譜という「ルール」があるからこそ、その「ルールにおける自己」 として我々が音楽を構成出来る。
また、絶対音感という「ルール」もある。
だが、楽譜が無くても音はネイチャーとして実際に存在しており、「ネイチャーとしての自己」 がそれを活かして新たな音楽を創造しうる。
みながそれを聴くかどうかは分からない。

経済は、通貨という「ルール」があるからこそ、財貨の価値尺度もおくことができる。
また、時には通貨そのものが金や銀といった貴金属と特定のルール(レート)で交換しえる。
だが、かりに通貨が無くても、財貨の価値というものは 「ネイチャーとしての自己」 の嗜好によって随意設定、だから物物交換がいくらでも可能。
ただ、皆がその経済系に参入するかどうかは分からない。

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③ 「ネイチャーとしての自己」 と 「ルールにおける自己」 は、社会集団においてこそいよいよ区別が希薄になる。

法や代議制というのは、 「ルールにおける自己」 が集まった社会にて、みなに何らかのコストを課すシステムルールだ。
安全保障、原発なども、「ルールにおける自己」 が集まって、能力を移譲しつつコストも負担しあう社会システム。
だが、「ネイチャーとしての自己」 から見れば、各人の生理的なスペックは千差万別だ、となり、社会のルールのためにコスト負担などしてられっか、となる。
だからといってルールの存在を否定し始めたら、現状の社会システム系は成り立たない。

そこで ─ 仮に社会の全構成員の 「ネイチャーとしての自己」 は安保反対、原発反対であったとしても、「ルールにおける自己」 は国連安保や原発に賛成票、ということがおこりますね。
もちろん今にはじまった現象ではなくて、たとえば江戸時代の忠臣蔵事件だって「ネイチャー」と「ルール」の矛盾が悲劇を生んだ。

或る大手総合電機メーカが、市場経済における投資者の意思決定を公然と阻害し続けてきた。
少なくともこれは、金融証券取引法において違法行為。
あわせて、株主と経営者の利害調整をも損ね続けている。
こちらは会社法からみて違法行為。
「ルールにおける自己」 の集団が二重の違法行為を続けてきたことになる。
法の根本を理解していなかったのですよ、というのならバカであり、もちろん理解はしていたが誤魔化したんだというのなら卑劣である。
(いや、実は我々の「ルール」では収まりがつかないもっと支配的な「ルール」があって…というかもしれぬが、そんなこと言ってるからバカか卑劣のどっちかなのだ。)

それにも拘らず。
彼らが製造・供給してきた財貨は、量からみても質的な信頼性からみても、立派なもの。
とすると。
従業員一人ひとりの 「ネイチャーとしての自己」 には科学技術や市場経済への良識がある ─ と理解するしかない。

こういうふうに、「ルール」と「ネイチャー」は曖昧に併存しているから、「とりあえず」法があり、ゆえに、きっと法は各人のネイチャーそのもの収斂ではない。

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④ ただし、少なくともスポーツは 「ネイチャーとしての自己」 と 「ルールにおける自己」 がひとつに完結している
One for all かつ、All for one などという。

たとえ自分のチームがボロ負けしているとしても、「ネイチャーとしての自己」 は、「ルールにおける自己」 を実現するため全力疾走しなければならない。
それが人間の本能じゃないか。
もし、チームみんなで示し合わせて手抜きするというのなら、それは 「ルールにおける自己」 への裏切り。
かつ、「ネイチャーとしての自己」 への裏切りでもある。
つまり二重の裏切りであるから、全員を二回づつぶっ飛ばすべきなのでは?
…とはならず、それらの自己は一つに完結しているのだから、一回でよい。

以上

2015/09/05

サバイバル


政治不安定の地域から、政治難民が経済先進国に押し寄せる。
たぶん経済難民も一緒くたになって、やってくる。

経済先進国で煽られる危機意識は、ほっといたら労働市場全体が低賃金と低劣技術の連中であふれかえり、生産部門や政府部門の余計なコストばかり増大し、だからインフレになる、というもの。
だから日本などのように、経済難民だけは受け入れない、という理屈もなりたつ。

一方、社会主義陣営の極論は、たとえ無知無学の文盲連中であっても食わせてやるのが人の道、製造過程でネジが曲がって工業製品の事故が頻発しても仕方がないよ、というもの。

で、妥協案としては、とりあえず政治難民を人道的に食わせてはやってもいい、だが生産部門での採用は単純労働以外は極力みとめない、というものか。

ただ、ひとつだけぼやっと考えるのだが。
政治難民たちのうちせめて30歳以下の連中は、受け入れ国であらためて高等技術教育を施したらどうか?
(あまり年上になると新規概念や社会環境へのリスペクト精神が希薄になってしまうため、若い世代限定の方がよい。)

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…と、まあ、こんな程度のところまでは誰でもぱっと思いつく。
さてそれでは、そもそも経済に理想状態はあるのか、となると、たぶん誰にも答えられない。

もちろんありますよ、GDPが年率2%で成長すれば、投資も貯蓄も最適となり ─ という程度の定説は、大学の経済学部に入りたての子でも暗唱出来る。
しかし、それはこれまでの経済システムを結果的に俯瞰すれば、たまたまそういう時期があったというだけのこと。
だいいち、そのGDP2%成長ラインを守った「立派な人たち」の生存する諸地域で、どうして失業率が高止まりのままなのか?

また、社会主義者がいうように、経済をあくまで「生産と分配の量的な再分配」として捉えるのなら、それら最適量を定義しなければならぬが、本当に定義出来るのか?

最適なカネの利率と生産/分配量の定義が無いのに、最適な経済システムというものを定義できようか?

いや、供給の「質」こそが問題だ、とまた混ぜっかえす声があがる。
じゃあ、ハードウェア供給やソフトウェア供給の「最適な質」とはなにか、定義してみろ。
最適「量」の定義がないのに、「質」の最適化など定義出来るわけないでしょう ─ 少なくとも物理学や化学にのっとれば。
それでも強引に人間論理で定義するのなら、ハード/ソフトの「質」とは、それらの「精度=安定性」、よって、自分以外がみんなコンピュータとロボットに成り代わっている世界、となる……

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もうこういう議論はほとほとイヤになった。

最適な生産/分配量も、利率も、品質も定義しきれていない経済という系
それでも「バカが増えたら製品が劣化してカネばかり食う、だからインフレになる!」 とコストばかりを危惧するのなら、だ。
「インフレじゃない状態」 とは、自分たちの人生が十分に充実し、カネの心配をしなくても良かった「これまでのはっぴぃな状態」に決まっておる。
定量的にはなんにも定義出来ないが、ともかくも「精神的に」そういうハードとソフトとカネの量をさす。

かくして。
俺(たち)だけがはっぴぃな充足状態 vs バカが増えてインフレでもいいじゃないか 「最適解なき対立」 は続く。
それは最適解なきままのコスト論だ、そして、コスト論というものはインフレ恐怖にのっとっている。
インフレ恐怖なのだから、どこまでも暫時的なサバイバルゲームでしかない、つまり、俺たちだけはのカネカネ競争、そして、他人任せの代議制。
このサバイバルゲームはインフレ恐怖が全世界から根絶されるまで続くだろう、が、そんな日が本当に来るのだろうか?

以上

謝辞

ここに提示の記事は、いずれも私自身の判断責任のもと編集・投稿したものです。

大半の投稿は学生など若年層向けを意図してやや平易な表現にて、通俗性は極力回避しつつ、論旨の明示性を重視しつつ書き綴りました。あわせてまた、社会人の皆様にお読み頂くことも想定しつつ、汎用性高い観念知識を相応に動員しながら記した積もりです。

私なりの思考着想によるささやかな閃きが、皆様の諸活動にて何らかの光源たり得れば、望外の喜びであります。

山本