2016/12/25

ラヴレター

「やぁ、こんにちは!今日はどういったご用件で?」
「はい。じつは、この手紙について、ご相談申し上げたいことが」
「ちょっと拝借 ─ ほぅ、手書きの手紙ですね。これ、読んでも構いませんか?」
「はぁ、どうぞ」
「それでは。えーと…なになに?…貴女が好きです?へぇ、ずっと以前から…ふんふん…貴女は小さなピアノのよう…ははん…僕は貴女の鍵盤になりたい…ははははっ、いや、失礼。しかし、これは面白い、はははは」
「そうでしょうか?あたしは、どうも腑に落ちなくて。だって、この手紙には差出人の名前が無いんですよ」
「へぇ? ─ あぁ本当だ、住所も連絡先も記されていませんね。郵送の消印も無い」
「それ、郵便じゃないんです。じつは昨晩のことですが、仕事帰りのあたしの鞄の中にその手紙が紛れ込んでいたんですよ。ヘンな話でしょう?」
「……うーーーむ。もしかしたらですが、これは内気な男の悪戯かもしれません。しかし、自身の筆跡を残しているあたり、なかなか楽しいことをする奴じゃないですか。サンタクロースみたいで。はっははは」
「あのぅ、あたし、その筆跡に心当たりがあって」
「ほぅ?筆跡に、ですか?」
「以前からの知り合いの男性のものに、すごく似ているんです」
「ははーーん?それじゃあ、その彼が、貴女に忍び寄って、そっと、この手紙を」
「でも…やっぱり、あたし、その手紙の主が許せなくて」
「えっ?許せない?ど、ど、どうしてですか?」
「だって、あたしの名前さえもぜんっぜん記されていないんだもんっ」
「あっ!しまった!」
「ねえっ!もう、いい加減にしたらっ?それ、あなたが書いたんでしょう?だって、あなたの筆跡にそっくり!文体も!ねえ!その手紙を何通も書いて、いろんな女性宛てに片っぱしから届けたんでしょう?!」
「……」
「いったい、どういうことなのよっ? 『内気な男の悪戯かもしれません』 て、何事なの?なにがサンタクロースよ!?ああ、あたし、ぜったいに許せない!」
「……たしかに、これは僕が書いたものです。僕なりの誠意を込めて、手書きで綴ったんですよ。そして、そしてですね、そのことに気づいてくれたのは、貴女だけなんですよ。だから、だから…」
「だから、なに?もう、あなたは一生許さないから!二度とこんな悪戯が出来ないように、あたしはあなたのピアノになって、あなたに毎日同じ曲を弾いてもらうことにするから!さぁっ?返事はっ?」


(おわり)

2016/12/18

フリーダム

人間の知性というものは、いつもリスクから回避する=リスクを先送りするように起動している、と考える。
知力が高い、とは、リスク回避オプションを多く有するってことだろう。
だからこそ、ケダモノより人間の方が知性的だと言われるはず。

自由競争、という言葉はしばしば勘違いされている。
自由競争の能力とは、経済(学)用語でいう 「取捨選択オプション数の多さ」 のことなのだから、もちろん投資の自由や技術開発の選択数でもあるが、また同時に、投資や技術開発や雇用を「回避し放棄する」選択肢の多さでもある。

だから、いわゆる超インテリたちの逃げ隠ればかりの言動を追えば、人間の文明の論理的な寿命がわかる
─ かどうかは知らないが、なにはさて、いかなる個人にも企業にも、市場から撤退する自由があり、技術開発を放棄する自由があり、従業員を解雇する自由だってある。
我々日本人がこれまで頼りかかってきたアメリカ(さま)にだって、撤退する自由があり、孤立する自由がある。

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ところが、だ。
どうも妙なことに、人間がリスク回避の自由権にのっとり、おのれの外縁部にバラ捲いてきたもののち、ある程度のものまでは、むしろ逆に「人間とリスクを近接させてきた」ような気もする。
すぐ思い当たるのは核エネルギーで、戦争を回避するための叡智としての核兵器だったはずなのに、却って戦争を全人類共通の同時的なリスクとしてしまっている。
ほかにも放射線、有毒ガス、電磁波、数学、コンピュータなど。

時々考えること。
情報の電子データ化によって、マテリアル上のリスクと資産運用のリスクを分散することは出来るようにみなされる、が、同時にまた、電子データはネットワーク化と極めて相乗しやすいので、リスクの現実化かつ拡大化をも導く一方ではないか。
ひとたびネットワーク共有化されてしまったデータのうち、ある特定の情報属性のものだけを、選択的に削除出来るだろうか? ─ 否、むしろビッグデータ化にともない、選択的な削除はますます困難になっていくのでは?
却って、全ての電子データを削除してしまうほうが容易な気がしないでもない。

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おっと。
コストの話をしていませんね。
戦争リスクを回避し、被曝リスクを回避し、伝染病リスクを回避し、経済リスクを回避し、ネットとデータの悪用リスクを回避する ─ そんなリスク回避の知性と自由を謳歌するためにこそ、国家があり領域があり、政府や軍隊があり、だから国家連合のような理念だってある。
とすると、これらは自由と知性のためのコストだということになり、これら政府や軍隊が巨大化していればいるほど、我々は自由で知的だということになる……??
いったい、どう考えたらよいのだ?
EUの理念は少なくとも政体としては瓦解しかけており、TPPはアメリカが逃げ腰だが、これらは 「リスク回避」 の放棄なのか、はたまた、「リスク回避という自由競争」 への逃走なのか。
アメリカがいつまでも合衆国であり、単一国家でないのは、どちらを意図してのことなのだろう?

鍵は通貨に在るような気もしている。
通貨とはあらゆるリスク回避のための媒体、と考えられるが、しかしそのリスク回避のために通貨を奪い合うからこそ、あらゆるリスクが増大しているのでもあって。
じゃあインフレになればなるほど、我々は自由で知的だってことかいな。
どこか、おかしい。

以上

2016/12/04

【読書メモ】 意識と本質

ちょっと哲学論考。
ごく最近読んだ不思議な本として、『意識と本質 井筒俊彦・著 岩波文庫 という難書についてざっと触れてみたい。
おそらくは、著者自身のさまざまな見識と哲学研究を大成させた著作(集)であろうか、かなり緻密かつ重層的な随想ゆえ、ここではコンテンツ抜粋/要約は記さないこととする。

ただ、少なくとも導入箇所を読む限り、本書でほぼ一貫されているように見受けられる総論は ─
人間はその本性として、存在するモノや事象に対しておのれの意識を切り込ませ、万物にて”普遍的”であろう”本質”をそこに見出し、それを人間なりに形而化(ターム化)させる」
といったところか。
この人間の意識活動をものすごく大雑把に表現しなおしてみれば、森羅万象を成す瞬間瞬間の偶然のうちに、永遠の必然という公約数を見極める行為」、と言えなくもない。

本書では、東洋人に卑近な宋学や禅にみられる”普遍的本質”への探求活動を、意識が「分節」して万物の”普遍的本質”と一体化する、との技巧表現にてひとつの基調に据えている。
或いはこれを、アリストテレス以来の原子論とイスラーム哲学の苦悩的な邂逅、そしてマーヒーヤ論にも見い出しつつ、ドゥンス=スコトゥス、アヴィセンナ(イヴン=シーナー)などなど、哲学史上の巨星たちの名が続く。
さらには、その”普遍的本質”は美であるとして万物から蒸留せんとしたリルケや、万物の希釈の果てにこそ美が残るとしたマラルメまで紹介。

かつ反面にては、偶然因果律?も中世以来連綿と続いてきた旨、例示されている 。
いかなる事象にても、人間意識の「外部に」神のごとく存在し続ける「随意」が確かに見出せるのだから、たかが人間意識による”本質”の設定に”普遍性”などおけるわけが無い、と。
近代英国最高の哲学者ヒュームでさえこの見方をとった由。

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さて。
本書は人間意識による”普遍的本質”探求についての考察本ゆえか、以下の2つについては踏み込んでいないようにも見受けられた。
① 実在する物質(なんらかの量子)の経時変化やエントロピーと、人間意識とのかかわりについて、動的な関係付けがハッキリしない。
さらに。
② この”普遍的本質”への探求過程にて、人間の意識のうちに何らかの勘違いないし嘘が混じり込んでいるか否か、その見極めについて記されていない。

ここのところ、科学者はどのように解釈するであろうか?
『たしかに既知の物質や事象は確かに動的に変化し続けるし、人間だって移り気な動物にすぎぬ。
それでも人間は、森羅万象に対して、質量や圧力や熱量という共通尺度をもって、元素やイオンや電磁波や粒子などを還元してきたのだから、皆がこれらをいつも「了解」すれば、もう真実も嘘もないじゃないか』
 ─ と、なるのだろうか?

ならば、逆エントロピーとして存続し変化し続ける生命と、その生命としての人間の知性は、いったいどう関係していると考えたらよいのだろうか?
生命に対して”普遍的本質”を探究すること自体、おかしいのだろうか?
もし、この問題を脳意識(情報)と生命と物理環境の連関におきなおしてみたら、たとえば解剖学者の養老孟司氏は如何ように哲学化されるだろうか。

(頭が痛くなってきた。)

以上

2016/11/27

リアル・ディール

男子諸君。
君たちは、ボクシングの世界チャンピオンになりたいか?
それとも、ハリウッドのトップスターになりたいか?
どちらを選ぶ?
こう問われると、ほとんどの男子はハリウッドスターになりたいという。
理由は簡単、お父さんに頬ずりされ接吻されながら育つ男子がものすごく多いからだ。
うふん。
よーしよし、君は可愛い子だ。
あはん。

おふざけは、もういい。
さぁ、聞け。
ここの地下室に、ボクシングリングがあるんだ。
そこでは、おまえのよく知っているお父さんが、いや ─ 実は今までおまえが逃げ続けてきた本当のお父さんが、ひとり汗を流している。
もしかしたらおまえが降りてきて、リング上で相対してくれるのではないかと、かすかに期待している。
かすかに期待しつつ、おまえをブッ飛ばすために、残酷な筋肉をギリギリ研ぎ澄ませながら、もっと残酷な拳をかすかな慈悲のグローブで容赦しながら、おまえを待っている。
瞬発力と加速度でシューズをスパークさせながら、猛獣のように無言の吐息をこらしながら、おまえがリングに降り立つのを待っているんだ。
さぁ、どうする?
戦うか?
それとも、やっぱり逃げるのか?

ほぅ?
ファンが見届けてくれるのなら、戦うってか?
彼女が応援してくれるのなら、戦うってのか?
それがおまえのモチベーションだと?
頭悪いのかよ、おまえよ。
いいか、そんな半端な見栄で粋がって、ひとたびリングに立ってみろ。
いよいよ逃げ道が無くなるどころか、もはやファンの前でも彼女の前でも、何のエクスキューズも成立しないんだぞ。
そうやって自ら選択肢を狭めつつ、いざゴングが鳴ってしまったら、お父さんお父さんとむしゃぶりついて許しを斯うつもりだろうが、甘い甘い。

さぁ、どうした。
戦うのか、逃げるのか。
とっとと決断しろ。
女の子だって、自己の宿命に対して、もっと潔いぞ。
ふん!
ま~だ考えていやがる。
おい!もう考えるのはよせ。
考えてばかりいる卑怯な男に、ろくな知恵なんかありゃしないんだ。
男はな、メチャクチャにブッ飛ばされてから、はじめて本当の知恵が付くんだ。

分かってるんだろう。
話はもう、決まってるんだ。
さぁ、行ってこい。
行け!
彼女もファンも見守ってくれない、たったひとりのおまえ、一世一代の勝負、待ったなし。
リングに降り立って、お父さんと、そう、おまえの宿命と正面から対峙しろ。
お父さんはきっと、顔をくしゃくしゃにして、うっすら涙を浮かべつつ、最大限の歓喜をもって、おまえを足腰が立たなくなるまでブチのめしてくれよう。
そうやっておまえは、前後不覚のズタボロになって、やっとおのれのリアリティを呼び醒まし、おまえのさだめを思い出すんだ。
それは ─ それこそが、お前に突きつけられた、たった一つっきりの人生という崇高なビジネスだ。
清算せずともよい、いや、清算なんか出来っこない、堂々と踏み倒すべき、血潮に染まった帳票だ!


おわり

2016/11/13

嘘つき娘

「ねぇ、先生~」
「んーー?なんだ?」
「あたし、先週くらいから眼の前がぼやけてきたような気がするんです。視力が急激に弱まることって、あるんですか~?」
「そうだなぁ、とりあえずは、その前髪をなんとかしろ ─ ねえ、君もそろそろ大人になりかけてきたんだから、人間の意識のいい加減さというものについて理解した方がいいよ」
「はぁ、どういうことですか~?」

「いいかね、人間の意識は、じつは『感覚』 と、『思考』 と、『表現』 から成り立っているんだよ」
「ふぅーん……」
「たとえば、『感覚』 と 『思考』 は、普通はまっすぐつながっている、と思うだろう。しかし、これが食い違っていることがある」
「はぁ~、まあ、そんな気もしますけど~」
「それから、『思考』『表現』 が食い違っていることもあるよね ─ つまり、『感覚』 『思考』『表現』 というこの3者のうち、どれかが食い違っている場合がありうる」
「はぁ~~、なんだか、ややこしいですね~。でも~、先生、そんなふうに分けなくなって、本当の自分と表現する自分という2つで比較すれば十分じゃないんですか~~?
「いや、ある命題が正しいか間違っているかを判断するには、少なくても要素が3つ必要となるってこと」
「ふーーーーん!本当かな~~」
「いいから聞け。要するに、『感覚』 と 『思考』 と 『表現』、この3者のどれか1つが他の2つと異なる場合を、"勘違い"という。どうだ、人間の意識というものは案外いい加減なものだろう」
「そうかも、しれないですねーー」
「さらに、"勘違い" ではなく、意図的な "嘘"という場合もある ─ ねえ、君。さっき僕がちょっと外に出ていた間に、このワインボトル、明らかにワインが減っているんだが…」
「それがどうかしたんですかーーー?」
「おいっ!正直に答えろよ。君!ちょっと飲んだだろう!?」
「はぁーー?あたしが飲むわけ、無いじゃないですかーー!」
「ふん!あんまり甘く見るんじゃないぞ、いいかね、今の君はワインでほんわかとした『感覚』 に包まれている、しかし、バレるわけがないとタカをくくって『思考』 している、でも君はろれつが回らず、『感覚』 のままにぼやっと『表現』 している。つまり、君は 『思考』 だけが食い違っている、だから『嘘』をついているんだよ!」

「なーんだ、あはははは~、嘘なんか、ついてないですよ。あたしは何もかもハッキリしてるんだから!。ね~~先生~~、あたしからもひとつ質問があるんですけど~」
「ほぅ、言ってみろ」
「もしも、『感覚』 と、『思考』 と、『表現』 が、みーーんな食い違っていたら、どういうことになるんですかーーーー?」
「それを 『酔っ払い』 というんだ、ばか、困ったやつだ!」
「あ~~っ、ばかって言った!ばかって言ったら、自分もばか」
「はいはい、分かった分かった」


おわり

2016/11/06

女子大生でも分かる経済学

① 人間による諸々の経済活動につき、その諸要素を思い切って大別すると、たぶん以下の2つのどちらかにおさまる。
1つ目は、能力であり、これはハード/ソフトの科学技術力に依る製品サービスの強度や精度のこと。
だから、知識と可能性と機会の掛け算。
2つ目は、信用であり、これは貸借関係と通貨量と税と利息と所有(権)と担保と給料のこと。
だからこちらは、量と人口のバランス論となる。

いわゆる自称・経済通の話を聞いてみると、どうも、能力信用が混同されがちのようである。
たとえば ─ 「資本投資が3倍になれば技術開発効率も3倍になり生産量も3倍になる」、などと言う経済通まであらわれる。
はて、本当だろうか?
あるいは共産主義によるフィクションなのだろうか?

おっと、待ちなさい、金融機関相互による信用創造が、企業の生産力を…と、自称・経済通はすぐにまぜっかえすし、だいいち学校の政治経済科でもそう説いている。
が、僕はそんなウヤムヤな虚構がどうも腹立ってしょうがないから、ここに経済活動を2大要素つまり能力信用に大別してみたわけ。
そして、日々の人間関係づくりや人間観察に多忙な女子大生であっても分かるように、ミニミニエッセイとしてしたためたわけよ。

問題は、ここで極端に総括した2大要素つまり能力信用につき、どちらがどちらの必要条件であり、あるいは十分条件であるか ─ というところ。

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② そもそも、自然というものは(人体も含め)、バラつくものである。
また人間の精神も自然ゆえ、やはりバラつくものである。
だから、自然物を元手とする人間の能力は、バラつくものであり、そこに製品サービスの精度や強度のバラつきもある。
ところが。
信用というものにとって、バラつきとはリスクでしかない。
だから、能力信用は同期をとりにくい。

いや、それでも人間世界では能力信用が「ある程度まで」は同期をとりつつ、相乗効果も有ったはずだ、と、自称・経済通はすぐに口をはさむだろう。
ふーん。
ある程度までは、というのなら、どの程度までなのかちょっと確認しようじゃないか。

古代エジプトの遺したピラミッドや、古代ローマ帝国の遺した石造の道路や水道は、たしかに素晴らしく、工業と数学がどこまで協業していたかは別としても、立派なものである。
しかし、このピラミッドなり水道を建造した技術的な能力と、その建造時点で王や皇帝が随意に操作していたであろう信用とは、どう関わっていたのであろうか?
なんだ、そんな古代世界のことなど、知ったことか ─ と、自称・経済通はせせら笑うだろう。
ほほぅ。
ならば、国家としていったいどれだけの信用を操作すれば、産業革命、電機産業、石油産業、新素材、抗生物質、原子力や宇宙開発などの能力が向上するのか?
こちらについては、近現代のことゆえ、能力信用の必要十分条件をちゃんと分析データがあるだろう (提示出来ぬのなら経済学者は何にもしてないことになる。)

オーケイ。
つまり、人類史全般を一貫した、能力信用の必要十分関係など、分からないってことだな。
そうだろう ─ だからこそ経済政策は国民の能力信用をともに睨みつつのトライアルアンドエラーの連続なのだ。

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③ さて、それでは。
我々の経済活動の最優先事項は、能力の向上か、信用の維持か。

とりわけ、いわゆる景気変動を観察する場合、自称・経済通は信用のバランシングに終始し、能力については暗い顔をして黙殺しがちである。
なるほど、金融機関やマスメディアや教育サービス業ならば、これも本源的にやむなしか、しかし学校組織でさえもこうであるとしたら、なかなか困った問題ではないか。

国家あるいは世界にあまねくカネをばらまく、あるいはベーシックミニマムを保証する…じゃあGDP伸び率は、消費税は、失業率は、移民は、という政策論争。
そして、TPPによって日本国内で外貨(建て)の金融乱立がすすむ、という統制リスク論。
それもよし。
しかし、そもそも我々の経済活動の目的は、信用の前に能力の追求でなければならぬ。
あわせて、能力向上の可能性のみならず、現状能力の保全にかかる議論でもある
皆にカネさえばらまけば、核関連技術も航空機も病院も絶対に事故を起こすことはない、と本気で信じることが出来るだろうか?

─ と、ここまで考えつつ、テクニカルな側面も、すなわち人工知能とビッグデータと学校教育の功罪についても再考してみたい。
みんな、頑張りなさい。

以上

2016/10/31

理想的な経済システムとは

ふと思いついた問題。
『日本は長引く景気停滞にも関わらず、科学技術開発は進む一方であり、知的所有権にかかる収入も増えている。これはいったい何故か?
本問につき、たとえば学生にたずねてみると、一様に混乱した面持ちになり、判然とした回答はなされない。
そうだ、この問題は学生ふぜいには答えられぬものなのだ。
いや、女性たちにとっても回答しにくい設問であるといえよう。
だが、まともに頭を使って働いている男性なら、まあ概ね答えは分かっている。

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① 或る経済ビジネスの系にあたったとき、我々はまず 『何が』 『何を』 『どうする』 『どうなる』 で分析するべきである。
『何が』 『何を』 としては、まずマテリアルを掴む ─ 無機物もあれば有機物もあり、天然物もあれば工業製品もある。
すると、それらの機能としての 『どうする』 『どうなる』 ロジックといえる ー 論理であり数学であり、運動であり反応であり、ソフトウェアである。

さて。
これらマテリアルロジックをもって、人間の経済行為の対象とする。
ならば、人間自身の経済行為はおしなべて何らかの 「創造開発」「供給」「消費」 として単純に定義出来、この連続サイクル(交渉)であることが分かる。
市場経済にて唯一の万国共通の大命題である需要と供給とは、これら 「創造開発」 「供給」 「消費」 の連続サイクル(交渉)における調整要素のことである。

いや、官僚などは 「消費」 だけじゃないか、というかもしれないが、冷静に考えてみて、「消費」 だけの職能が市場経済にて存続するわけがない。
女性はたいてい 『誰が』 『誰を』 から思考をスタート/リスタートする習性があるので、マテリアルロジックに対する探求が滞りがちになり、責任だとか謝罪などと空疎な罵り合いに陥りがち。
と、ここは笑わせて頂こう。

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② ここで、「創造開発」 「供給」 「消費」 の連続サイクル(交渉)とおいたのには、重大な意義がある。
理想的な経済システムは、宿命的な分業の細分化ではなく、むしろ連続的な協業の連続でなければならぬ。

そもそも、新規創造の意欲有る者たちが、ワーとかギャーとか意見交換し、試行錯誤を繰り返すうちに、新規の 「創造開発」 がおこる。
ここで新規に生まれ出てきたマテリアルロジックは、 「供給」 の段に至る過程にて、事業者内部および外部事業者との交渉が続く。
そこで、或るポーションは強力な知的ストックとして品質のフレキシビリティが重視され、更なる「創造開発」 の源泉となる。
一方、別のポーションは単純な量産フローアイテムとして 価格納期の効率化が追求され、大量供給と代金回収が最優先される。

さぁ、ここで交渉が止まりマテリアルロジック「消費」 がどんどん進むにつれて、ポーション別の分業化が徹底され、豊かな者は高く稼ぎ続け、貧しき者は安く駆けずり回るのであった、アーメン
…というのが、たぶん欧米型の経済モデル。
しかし。
理想的な経済システムというのは、「消費」 からまた新規のマテリアルロジックの 「創造開発」 が沸き起こるもの。
ここでまた、売り手も買い手も新たにワーとかギャーとか意見交換し、試行錯誤を繰り返す、そんな連続サイクル(交渉)としての経済システムが望ましいではないか。
たしかに、「供給」 の段にては、分業がいったんは固定化されるにせよ、「創造開発」 「供給」 「消費」 の連続サイクル(交渉)が永続するかぎり、分業は固定化しないだろう。

唯一、これらの連続サイクルを停止させ、交渉を腑抜けにして、分業を固定化させる要因があるとすれば ─ それはカネだけじゃないかな。
いや、カネそのものには意思など無いので、物価と所得を操作して連続サイクルを停止させる外部意思がどこかに在るのだろう。

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③ 以上が、理想的な経済システムについての極めて単純な一稿。
冒頭に挙げた日本経済システムの謎?についての、ひとつの見解たりうると信じる(信じたい)。

なお、とくに製造業に勤めて間もない人たちに、是非伝えたい。
マテリアルロジックの 新たな「創造開発」 は、けして単独の部門部隊のみにてなされるものではなく、だから「供給」の段にて分業化を固定化させてはならない。
開発・設計・製造・部材調達・営業と法務と経理と財務(と金融機関)、物流部門、さらに国内商社と海外代理店と調達パートナー、なにより顧客たち…すべてが、「創造開発」 「供給」 「消費」 の連続サイクル(交渉)の担い手たりえれば、最高である。
たしかに、電気メーカの営業部長のくせに電池の基本も理解出来ず論理回路をいつも読み違えるような、そんなアホだって残留している、が、そんなおかしな思想信条の連中が居座っているような企業が、まともな経済システムにおいて存続するわけがなかろう。

以上

2016/10/25

【読書メモ】 P≠NP 問題

 『 P≠NP 問題 野崎昭弘・著 講談社Blue Backs』
本書を手に取った直接の理由は、何気なく立ち読みしていたさいに不定方程式の解判定のくだりに惹き込まれ、さらに別ページにては、合成数(素数)の計算プログラムにおける非決定性云々に、クスリと笑わされてしまったこと。
ほほぅ、そうかなるほど、と頭から読みとおして…いや、本書はこれまで手にしたどんな新書版よりも難しい、やめときゃよかった!僕の見識ではとても読みとおせるものではない、だいいちサブタイトルは「現代数学の超難問」とな。
それでも僕なりの頭で概括すれば ─ きっと本書が呈する主題は、「数理問題の特性とくに難しさを、そこでのアルゴリズム(計算手順)の論理仕様を以て定量的に判定」 するこころみであり、それらの様々な事例紹介をとおして難問の世界に読者を誘う、というところではないか。

本書のみならず、数学について書かれた本では、面白いことに学術タームの日本語表現があいまいに映り、たとえば 『問題』 と 『解』 とその 『解法アルゴリズム』 の論理上のかかわり、とくに 『…という問題のアルゴリズム』 といった表現における助詞の 「の」 がいつも判り難い。
尤も、これらのかかわりについては、むしろ数式や計算プログラムから直観した方がピンとくる(だから此度の読書メモにても僕なりの直観に則って記してみた、まあ大筋は正しいだろう)。
とくに、数学やコンピュータ設計に通じている読者ならば、引用されている数式などを参照しながら読み進められた方が、主題と真意をいよいよ直観的に汲みやすかろう。
※ とりわけ、数学問題へのアプローチ例のほか、チューリング機械のデータ処理基本フローやループ問題、さらにオイラー路やハミルトン路の図示、そしていわゆる非決定性チューリング機械における数理計算の検証例など、パズリングな引用の数々。

なんにせよ、以下の僕なりの読書メモにては、あくまで総論概括を列記するに留めることとする。


コンピュータの高速化と巨大化を追求のため、特定のハードウェアにもプログラム言語にも限定されない、論理的に最も効率的な「アルゴリズム(計算手順)が追求され続けている。

<現在のアルゴリズムの主な評価尺度>
「時間計測量」: たとえば2つのデータ x,y を x≧y という大小関係として判定するような、特定の計算において、その計算ステップの実行回数を数値化したもの。
「サイズ」: たとえばn元連立1次方程式の n や、n次多項式 f(x)=0 の次数 n など、計算量に影響を及ぼす規模の数値。
「多項式時間」: とくにサイズ n の多項式でおさえられる時間計算量。
「指数関数時間」: サイズ n の指数関数でおさえられる時間計算量。
(※ p.116 に問題のサイズ(オーダー規模)と時間計算量のマトリクスあり。)

<必要なアルゴリズムと計算量に基づいた、問題の難度クラス分け>
クラスL: アルゴリズムが、或るサイズの1次式(対数や平方根ふくむ)に収まり、簡単に解を導ける計算量の問題群。
サイズのみならず、一定時間内に解けること明らかな計算量問題も含まれる。
クラスQ: これはクラスLの問題を含み、さらに、アルゴリズムの計算量が或るサイズの2次式に収まる問題群。
たとえば数値データを整列する問題など。
クラスT: クラスQまでの問題も含みつつ、さらに、アルゴリズムの計算量が或るサイズの3次式に収まる問題群。
クラスP: クラスTまでの問題も含みつつ、さらに、アルゴリズムの計算量が或るサイズの多項式に収まる問題群。
或るアルゴリズムがここまでのクラスに属することが、サイズを問わず解を判定するための必要条件である。

クラスEXP: クラスPまでの問題も含みつつ、さらに、アルゴリズムの計算量が或るサイズの多項式を指数とする関数に収まる問題群。
たとえば、或るサイズの入力を以て指定された入出力関係を満たす、最も簡単な電子回路の設計難度レベルであるが、このクラスになると、サイズ次第では計算量が爆発する恐れアリ。
クラスS クラスEXPまでの問題も含みつつ、計算量はともかくとして、有限時間内に解きうるであろうアルゴリズムの問題群。

※ なお、このクラス階層分類のさらに外縁に、解くためのアルゴリズムが存在しないであろう=つまり一般的にみてどうしても解けないであろう問題群が、無数にある。

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数理計算問題の難しさを、解法アルゴリズムの有/無を以て確認するため、とくに何らかの解の存在判定を目的とする計算問題をおく。
これをいわゆる「決定問題」と称す。
※ とくに任意定数a,b,c,dなどを含む数学的な問題群を、決定問題の論考における足がかりに据えている。
一方、実際の解の算出や最適化の提示を求める問題は、「決定問題」には含めない。

<決定問題と、解法アルゴリズムの関係(例)>
・ヒルベルトによる第10問題。
「指定された不定方程式が整数解を持つか否か、そこを判定する"一般的な"方法はあるか?」
むろん、1次の不定方程式の場合に限れば解法アルゴリズムが在り、必要十分条件の定理として、定数項が係数の最大公約数で割り切れればよい(ユークリッド互助法で確認出来る)。

・一般的な解法アルゴリズムが在る、と見做せる決定問題であれば、1930年代以降のいわゆるチューリング機械の応用系にてそれを定式化=実証出来る ─ ということになっている。

・だが併せて、チューリングによれば、そもそも「ヒルベルト提起の決定問題には、定式化どころか、そもそも原理的に一般化出来ず、解法の有無判定すら出来ない問題も『ありうる』」由
(上の問題クラス分類でいえば、クラスSのさらに外側の問題にあたる。)
チューリング機械においては、或るプログラムが実行停止した際にそれが論理ループによる異常終了か否か、その判定をそのプログラム言語自体で確かめることは出来ない、とされている (プログラムの停止問題)。

なお、不定方程式についていえば、ずっとのちになってマチャセヴィッチが 「不定方程式の解の存在を判定する一般的な解法アルゴリズムは無い」 と定理済み。

・経路図の「グラフ」に関わる問題例。
経路図を節点(node)と辺(edge)を以て表現すると、とくに全ての辺を一度ずつ通る単純経路がいわゆる「オイラー路」で、この存在判定の必要条件は、辺が奇数本集まっている点(奇節点)が0または2個しかないこと
しかし併せて、この経路のどの節点もなんらかの経路で連結されてこそ、オイラー路存在の十分条件を満たすといえ、ここまでは、オイラー路の存在判定のための必要十分条件でとしてアルゴリズムが定理化されている。
なお、特に奇節点が0の図は「オイラー閉路」と呼ばれる。

・だが、やはり経路図のグラフについて、有名な問題に 「ハミルトン路」 がある。
こちらは存在判定のためのアルゴリズムが無く、存在判定には総当たり方式による経路探ししかない。
とくに出発点と終点が同一であるものを、「ハミルトン閉路」という。
この「ハミルトンの閉路」の存在判定アルゴリズムは、上分類のクラスEXP内に属していることは分かっているが、クラスPにまで属しているかどうか分かっていない。

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<非決定性アルゴリズム>
「決定問題」にては、その解法アルゴリズムの有/無判断をウヤムヤにしてしまうインチキアルゴリズムも混じり、それを特に「非決定性アルゴリズムNon-determinisitic Algorithm」という。
コンピュータプログラムにて、この非決定性アルゴリズムの介在を直接確かめることが出来る。
(そもそも、乱数を利用しないコンピュータプログラムは、決定性アルゴリズムだけで走る ─ はずである。)

その具体例は、「自然数 n (<2) が合成数かどうか?」を確かめる計算プログラム。
ここで n>k>1 の有限範囲にて任意の k を選ぶさいに、決定的な要件指定ナシに自由な数をおいており、ここは「非決定性」のステップである。
たとえ、その先の条件分け 「n を k で割った余り d が0か否か」 が決定性のステップでなされているにせよ、プログラム全体としてはあくまで「非決定性アルゴリズム」の実行というべきである。

しかも、この非決定性アルゴリズムの実行プログラムにおいて、結果的に最小の「時間計算量」をもって、アルゴリズムの実行力を評価している。
さらに、この同じ計算プログラムにて自然数 n が素数であった場合には、「n を k で割った余り d が0か否か」 のところで答えが No となり、計算が繰り返されることになる、が、このケースを無視してアルゴリズムの実行力を評価している。

以上にみられる不完全さにも拘わらず ─
非決定性アルゴリズムが何らかの解を出力する場合には、これを一応は認めつつ、その最小時間計算量を「非決定性時間計算量」と限定的に定義する。
そして、この非決定性時間計算量が何らかの「サイズ」の「多項式」で収まる問題クラスを、「非決定性アルゴリズム(Non-determinisitic Algorithm)にて多項式時間(Polynomial time)で解ける問題、つまりNP問題という。

このNP問題のクラスは、上の分類にてはクラスPをすべて含みつつクラスEXPの内に存在する─ことにされている。
上に記した「自然数 n (<2) が合成数かどうか?」 の問題は、非決定性アルゴリズム抜きと見做せばクラスPの問題だが、じっさいには非決定性アルゴリズムが含まれていることは明らかなので、クラスNPの問題とされる。
さらに、ハミルトン閉路の問題も、その計算にては非決定性アルゴリズムの要素を無視しつつも、多項式のサイズを勘案すれば、クラスNPに属した問題だといえる。

なお、クラスNPの内におかれつつ、クラスPには無いという、そんな問題は「ひとつも見つかっていない」。
ということは、問題クラスがPと問題クラスNPは、もしかしたら同じ問題なのかもしれない。
この疑義を P≠NP 問題と称している。

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以上

2016/10/02

ビジネス命題

① 所得の高い家計に育った子は、学力も高くなる、という。
教育ビジネスにとって、これは立派なビジネス命題だ。
もちろん、一般消費者を教育への積極投資に誘っているからである。

それだけ教育熱心かつ、科学技術と経済効率における先進国にありながら、どうしていつまでも奨学金が必要なのか、そして、どうして返還出来ない人たちがあとを絶たないのか?
いやいや、愚問だ。
奨学金はあくまで経済全体におけるカネの分配問題であり、教育ビジネスの命題設定範囲を逸脱している。
ほっとけ、そんなもん。
豊かな家計の子弟が素晴らしい秀才に成長し、世界のあらゆるエリート大学組織に進学出来れば、それでミッションコンプリートだ。
どうせ、どんな秀才を育ててみたところで ─ 地震や津波を制御はおろか予測だって不可能だろうし、核戦争を永遠に抑止することも出来ないかもしれぬ。
出来もしない思念を、教育ビジネスの命題俎上に乗せてはならぬ。

…とまあ、このように、ビジネスを「特定の損得のみに絞って絞って絞りぬいて"命題化"」するのが、プロのプロたる所以である。
したがい、量(volume) よりもむしろ率(ratio→rate) での勝負に徹する。
エネルギーではなく、物質でもなく、短期的観測データで素早く勝負。
知識量でも論理勘でもなく、誰かが設定した偏差値で手っとり早く勝負、と言い換えてもよし。
サービス業はおおむねこういうもの、マスメディアも同じ、小口金融もそこを期待しており、左派勢力も同じ、かもしれんよ。
議会政治のありようも似ている。

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② サービス業や議会政治のような短期的事業は、ともかくとして。
大局的に産業全体をみれば、ビジネス命題化の徹底は自己矛盾してもいる。
その 「論理上の最適解」 は、すべての事業者がオンリーワンのサプライヤを目指し、おのれの製品のみに特化し、損得を極限までちっちゃくちっちゃく微分していくこと。
そうするとコストは…と説くのが小口金融の経済学だが、もっと理知的に勘案すべきは、需給のうちとくに供給能力が解体される一方であること。
インテグレータもコーディネータも居なくなってしまい、システム複合型の製品が実現化出来ない方向へ。
こういう供給能力解体の局面が続けば、まあ、少なくとも三井物産や三菱商事や丸紅などは縮小の一途となるでしょうな。
総合電機メーカなどは無くなってしまうだろう。
自衛隊や総合病院、いや、国体は維持出来るだろうか。

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③ もっと苛烈に皮肉を言えば。
ビジネスの命題化を極限まで突き詰めると、むしろ、カネの集積のみを以て何事もなしうるという、本末転倒の錯覚すらまかり通るかもしれない。
たとえば。
或る閉ざされた部屋にて、シャーペンの芯のかたわらに1億円の現金をお供えし、ウァーーーッ、トリャーーーッと念仏を投げかけていれば、それがパッとダイヤモンドに変わっている ─ というような。
そういう論説答案を作成する子が東大や京大に入るようになったら、反日左派メディアは手を叩いて喜ぶ、かもしれない。
しかし、かかるメチャクチャな供給破綻と需要幻想が、教育ビジネス命題化の宿命たりうるだろうか?

いや、グラファイトとダイヤモンドは、これこれこのように組成属性からして似て非なるもの…だからカネだけお供えしても物質が変わるということはないのだよ…我々はいろいろなことを更にさらに検証していくべきなのだよ…
というふうに、供給プロセスのリスタートを何度でも何度でも説いて聞かせる雄大な活動こそが、まともな需要も触発するのでは。
それこそがまともな教育のはずである。

以上

2016/09/17

合意とはなにか

人間が本当に何かを理解し、そしてその当事者同士が本当に合意しているのか、それを物理的に実証することはいまだ不可能である。
もし、人間の万物への理解や合意をその脳神経の活動によって定義できるのなら、他人への移植複製も出来、いつか必ず全ての人間が宇宙の万物について理解共有と合意が出来るはずだ。
だが、実際、そうはなっていない。

或る特定の事項についてでさえ、人間同士が完全に合意したとは誰にも判断出来ぬ。
たとえ合意したようにみえても、それが当事者同士の全面合意か部分合意か、また、同時に合意したのか、合意に時間差があるか、厳密には分からない。
このように合意は非対称である可能性が常に残る。

かつ、合意というからには、あわせてその解除も(あるいは忘却も)定義されなければならぬが、これもやはり厳密には判定出来ない。

とはいえ。
たとえ、おのおのがたの脳神経における活動とその実体が分からずとも、意思表示から察して、各人の理解内容における共有関係の有無および共有方式までは演繹出来る。
その演繹を重ねていくことが、人間同士の合意プロセス ─ つまり民主主義のプロセスだ。
(と考えれば、このチャレンジは数学プロセスに似ていなくもない。)
だからこそ。
人間社会における経済活動や政治意思決定においては、とりあえず合意のルールを作りとりあえず或る瞬間における合意をもって全構成員が合意「したものと見做す」。

それでも、政治や経済活動における合意には大きな課題が少なくとも2つ残されている。

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(1) ひとつは、政治システムにて採られている代議制多数決。
これは無差別に、かつ効率よく、社会構成員の意思を伺い、それを代弁し、合意したと見做すための工夫。
この無差別性について、ひっかかる。
なるほど、無差別なのだから、無記名投票の方式であり、それゆえに、無効票にも棄権にも罰則はない。
これこそ、公正さの追求、にもかかわらず、参政権には年齢制限がある。
おかしいでしょう。
参政権における年齢制限の根拠は、納税額か?資産額か?はたまた、社会の諸問題に対する知識量か?
たとえば、地震と原発について技術的に熟知した「大人」だけに、選挙権が(そして被選挙権が)あるということか?
違うでしょう?
じゃあ、道徳能力か?
でもね、或る人間の道徳能力を判定出来る人間が、世の中に実在するわけがない。

いや、われわれ有権者は道徳能力が高いことに「なっている」、と年輩者は声高に叫ぶだろう。
じゃあ、そんな道徳心満点の有権者の爺さんばあさんが、どうして道徳能力の低いやつを代議士に選んできたのかね?
そんな有権者こそが道徳能力が低いってことじゃん、そいつらこそ当面のあいだ参政権を剥奪してやるべきじゃないのかな?
いや ─ 或いは逆かもしれぬ。
わしらは先祖代々、道徳能力が低いクズなんだ、だからわしらの息子や娘も道徳能力が低いバカに決まってんだ、だから参政権なんか与えちゃなんねぇだ!
そういう判断なのか。

明らかに利害が異なりうる(かもしれない)外国人について、参政権に制限を設けるのは、まだ納得出来る。
だが、同じ国民でありながら、無差別であるべき参政権にて年齢制限が設定されているのは、どうも考えれば考えるほどおかしい。

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(2) もうひとつ。
いかな合意をとりかわそうとも、各人が本心では絶対に譲らないもの、それは所有資産の所在である。

なるほど経済活動は、或る法人や個人の所有資産を収奪し移転させることを目的としている。
だから、技術力で負けたとか入札で負けたという、そのビジネスルールには合意しうる。
としても、だ、資産が常に収奪されうるというスリル意識において、本音のうちではルールの合意など認めたくない。
(だからマフィアやゴルゴ13も必要とされているのだ。)

もっと端的に。
たとえば、私人の資産と国有資産の関係は?
国家なるものが、あくまで私人の集合をさすのなら、国有資産のどの部分をみても、必ず誰か私人の所有のはずである。
そう信じたい、うむ、そうでなければならぬ。
ここで仮に、勤労の機会が無く納税義務すら果たせない、社会保険料も払いきれない、だから行政側が資産を没収 ─、なんて事態に陥ったとしよう。
いやいや、誰と何をどのように合意しようとも、これは納得しきれないのではないか。

俺の資産を国家に没収されるくらいなら、まだクーデタや内戦の方がいい、いや、いっそ戦争になればいい、うむ、そのための国家じゃないか!…という解釈だってあらわれよう。
戦争は穏やかではないとしても、政治システムにて、結局はおのれの資産保有を確約してくれる代議士を選択することになろうか。
だからこそ、資産保有を認めない子供には、参政権も認めないってことになるのではないかな。

以上

2016/09/10

人間言語は不要となるか?


① コピー機について、こんな概説をちらっと拝見。
「光電効果で、プラス電子が黒色に成り、マイナス電子は白色と成って、これでドラム側とトナー側に電子が分かれて…」
さて、ここでの 「成って」 や 「分かれて」 といった日本語表現は、主体と客体が分かり難く、だから論理表現か物理表現かも不鮮明だ。
そこでこれをざっと思いつきで英訳すると、 "charge electrons positive/negative to contrast light reflections on drum rolls or ink toners " などなど。
さ~すが、英語は主体と客体を差別的にかつ動的に記すことが出来る ─ ような気がする。

だいたい日本語ってやつは、あいまいに出来ている。
たとえば、「店内でお待ち下さい」 という表現があるが、これは店内から出てはいけないという拘束的な忠告なのだろうか?
……などという思考レベルで留まっているのが、未成年のがきども。

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② しかしながら、だ。
もうちょっと根本的なところまで立ち戻って、考えてみたい。

たとえば、物質の化学反応のもっとも根本である 「酸化」 について、この言語表現のみでは、どっちがどっちに電子をどうするのか、さらに行為なのか状態なのか、どうも判り難い。
さぁてそれでは、英語ではどうなるかといえば。
実は英語でも、酸化 "oxidise" という動詞コマンドは「電子をピシッと放出するアクション」を指しつつ、「受け取るアクション」もまた同じく "oxidise なのである。
どうも、言語表現ではどうしても主体か客体化が峻別しにくい、よって、行為か状態かも分かり難い。
イオン化 (ionise) も同様、さらに上に挙げた "charge" や "contrast" も言語表現としてはあいまいである。

自動詞なのか他動詞なのか、動的行為なのか静的状態なのか、偶然なのか必然なのかという、語法上のこだわり。
これは、あくまで人間意識における微分的な限界なのではないかな。
そして、そんなことには委細構わず、物質そのものは酸化し還元しイオンになりまた触媒にもなりうるし、既になっている。
人知が介在しようがしまいが、エネルギーも物質も "work" を継続しており、明日も明後日も数百万年後もずっと継続する。

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③ 英語にせよ、日本語にせよ。
言語がガチンガチンの厳密ルールにおかれ、とりわけ動詞の峻別化が進められてきたのは、いかにも知的進歩のようでいて ─ 
じつは資産の権利化と差別化を明確にするため、そして工程分業を徹底するためだったのではないかしら。

だが、そんな人間都合とは別に、自然物はもともと存在し続け、シークェンシャルに変化し続けている。

さらに、工業テクノロジーは人間都合の外縁部におこりつつも、人間意識からからどんどんかけ離れて自己完結的にかつ包括的に進化する。
ちらっと思い出すのが、いわゆる単一画素カメラだ。
もともと、デジカメは画素の集積度が増し、これつまり機能単位の精密な差別化であった、が、単一画素カメラとなると、デジタルどころかむしろ一括処理型のデータプロセス。
それから3Dプリンタにしても、その立体オブジェクト出力技術は、さまざまな工業製品の部品差別化を前提としたものにあらず、むしろそれら製品素材の自在な統合化を前提としているのではないかな。

このように、自然物との協調とテクノロジーの統合化が続けば、「人間」と「人間以外」をつなぎとめる表現技法は、いよいよ図案と数式だけになるような気がしてならない。
そうなったら、たとえば大学入試からは現代文と英語が消えるだろう。
文芸はどうなるのだろうか?
と、いうか、カネと法はどうなるのだろう?

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④ ちょっとおかしな例えかもしれないが、数学には 12÷0 のように「解の算出が不能」なものがある。
ここで解の算出不能ギリギリまでを表現せんと奮闘してきたのが、従来の人間言語であった、といえまいか。
しかし、ほわんとした自然物と、人間外部の包括テクノロジーが本当の宇宙のありようであり、それはむしろ 0÷0 のように「解が不定」なのかもしれない。
解が不定なら、数学のみの宇宙ということになり、人間言語は要らぬではないか。
(このあたり、あまり考えないで書いてますよ。)

以上

2016/08/09

【読書メモ】 海の教科書

『海の教科書 講談社Blue Backs  柏野祐二・著
本書はこの6月付で出たばかりの新刊、僕が購入したのは奇しくも?先月の海の日であった。
我が国にとっても世界にとっても最大公約数のコンサーンのひとつ、それがまさに海洋であり、その理科としての解釈本のひとつが本書であろうと察し、ほぅどれどれとパラリパラリ立ち読みしてみれば、なんとか食らいついていけそうな、そんな気がしたので購入した経緯あり。
さて内容を総括するならば、おおむね高校履修範囲の「地学」のうち、海水に係る数多くの自然現象に巨視的に着目、それらの諸元につき物理学/化学の初歩を以て再分析を図ったものといえよう。
のみならず、社会科の一環としての「地理学」への立体的な理解も深めうる、なかなか学際的なコンテンツづくり。
ただ、教科書と銘打った割には、因果・段階的に分かりにくい箇所も散見、とりわけ重要タームである海水の「温度」と「塩分濃度」と「圧力」、これらのすべてに係る「密度」の位置づけは、単線的に一読したのみではやや了察に戸惑いうる。
ゆえに読者はむしろコンパクトな参考書として本書をおきつつ、それこそ広く深く見識を拡大させること念頭におき、理科の総復習の一環として徐々に読み進めては如何だろうか?

さて今回の僕なりの読書メモとして、とりわけ三章「海水の性質」、第五章「海洋大循環はなぜ起こるか」 につき、以下に拙いながらも概括列記を試みた。
なお、第二章における海洋探検史と観測テクノロジー紹介事例は、遍く多くの読者の関心触発を図ったものと察するが、寧ろ本書ひととおり理解しえた上で最終章として読み進めた方が実践的センスをもって楽しめるものではなかろうか?


・水は水分子の水素結合によって成り、これが化学的かつ物理的な諸属性の根元である。

・水は電気的に正負の極をもつ性分子の構造をとっており、これでさまざまな物質を電気的に分離させ、それぞれと結合する ─ つまり溶かす。
水と塩化ナトリウムの関係でみると、塩化物イオンは水分子の水素側と結合、ナトリウムイオンは水分子の酸素側と結合し、こうして両者とも水に溶けこみ、海水と成っている
海水1kgあたり平均で約34.7gの塩分が溶け込んでおり、この塩分量は地域によって(淡水量によって)ややバラついている、が、塩化物イオンとナトリウムイオンの存在比率など物質の「組成比」は、世界どこの海水でもほぼ変わらない
ほか、海水に溶けているイオンとしては、硫酸、マグネシウム、カルシウム、カリウム、重炭素、臭素、ホウ素、ストロンチウム、フッ素などで、極めて微量ながら金銀やレアメタルも。

海水は地球上の二酸化炭素の約1/3を水素イオンと炭酸イオンに分け(=溶かし)、現時点での海水はおおむね弱アルカリでphは8.1程度。
ここで海水が二酸化炭素の吸収量を増やすと、海水中の水素イオン濃度が上がり(=phが下がり)、炭酸イオンが中和されてカルシウムイオンとの反応量が減り、よって海水中の生命体が殻や骨格を生成し難くなる。

・水の融点と沸点は、分子量あたりで比較した場合に他の物質より極めて高い ─ 地球上の常温にては水は液体に留まっており、これが生命誕生と循環にまで重大な効用あり。

・海洋物理学における水圧の単位としては、水深とほぼ値が一致する「デシバール(decibar)」=10,000 N/㎡ がよく用いられ、たとえば水深10mの水圧は10デシバールであり、これが大気一気圧とだいたい等しい
海洋生物学ではメガパスカル(1万ヘクトパスカル)が用いられる。

(純)水は4℃で単位体積あたりの質量=密度」が最大になるが、それ以下の温度となるとむしろ密度が小さく、よって軽くなる。
さらに氷になると水よりも隙間大きな分子構造であるため水に浮き、ゆえに湖水などは表面が結氷しつつも下の側の方が逆に温度が高い状態になる。
ところが海水の場合、温度が下がるとともに密度が増して沈み込んでいく一方なので、下側ほど海水温は低く、また結氷温度も低いため、総じて海水は凍りにくい。

・海水の密度最大となる温度も、また結氷する温度も共に、「塩分濃度」の増加に応じて低くなっていく一方である。
海水の塩分濃度が海水1kgあたり約24.7g以上となると、密度最大となる温度の方が結氷温度より低くなり、通常の海水は塩分が32~36グラムなのでこのケースにあたる。

一方で、海水はたとえば3000メートルの深海部ともなると圧縮のために若干水温が上がる。

以上のように、海水はその密度も温度も、鉛直的にみて必ずしも安定した構造ではない。
そこで、特定箇所/深度の海水温や密度の精査にては、これら物理変化を考慮したポテンシャル温度やポテンシャル密度の尺度が用いられている。

・海面に氷が張ると、海水中から大気への熱「放出」を妨げ、よって大気気温が下がる。

また海水による光の「反射」率(アルベド)は10%だが、海氷では40~60%であり、上に雪がつもるとさらに反射率が高くなり、よって海氷は海水の太陽光「吸収」を妨げる。

・水の「比熱」は4.2ジュール毎グラム毎度(=1カロリー)で、他の物質に比べかなり大きく、陸土の比熱の倍以上、空気の4倍にあたる。
(海水の場合は塩分のためにやや比熱が小さく、4.0ジュール。)
これが海陸間での空気温度変化をもたらし、それが気圧変化と対流風を起こす。
地球上の海水の質量は大気の約250倍、よって海洋全体の「熱容量」は大気全体の1000倍にもなり、海水温度の変化が地球の気象にもたらす影響は極めて大きい。

・水は分子の融解と蒸発およびその逆に要する熱エネルギー=「潜熱」も極めて大きく、たとえば台風は熱帯の海洋で発生した大量の水蒸気の潜熱が大気放出されることによって起こる。
(中緯度にいたると海面温度が低いため潜熱が小さくなる。)

・海中では、高温あるいは高圧ほど音波を伝えやすくまた減衰しにくく、とくに或る層にて音速が最大となる。
クジラなど生物による遠距離の音波通信能力もこの層を活かしたもの、また潜水艦など工業技術上でもこの層が考慮されている。

・流体の運動は、さまざまにかかる圧力勾配(差)から生じる「圧力傾度力」によって大きく依っており、じっさい、高温ゆえに高圧膨張する海面と、低温ゆえ低圧に留まる海面が、海面の圧力傾度力を決め、等温線と等圧線を成している。
一方、地球スケールで海流を捉えるならば、高緯度ほど強く働く「コリオリ力=正方向の惑星渦度」も考慮要。
これら圧力傾度力とコリオリ力が正対してつり合いつつ、「地衡流」として海流の強さと方向を決定、これらから海流をとらえる。

なお、海水の摩擦粘性は、水分子によるそれよりも海洋中の乱流=渦粘性に依る方が、かつ鉛直スケールより水平スケールの方が、はるかに大きい…。

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ふーーー。
ほんの基礎素養まわりだけをまとめてみたものの、とりあえずここらで僕の限界だ!
本書コンテンツは第五章後半からとくに学術複合的になり、吹風と海流の関係、地学でお馴染みの海流コンベアベルト図、ヨリ現実的な地球海流の子午面循環構造(南極オーバーターン)のコンセプト案内へと。
そして、第六章「海の波の不思議」、第七章「潮汐とそのメカニズム」 にいたっては、波長と位相速度と水深の関係、起潮力と遠心力…と続き、さらに最終章ではエルニーニョ現象と北/南極の凍る海へ。
どれもこれも、断片的には数学や地学知識で理解しえる事項ではあるものの、やはり物理学の基礎素養ある人たちにおススメしたい ─ が、だからといって僕がここで本書を諦めたわけではないのだ、簡単に諦めてたまるか、近々また引っ張り出して挑んでみたい。

以上

2016/08/04

少年期のSF

少年時代、東京都西部の立川市に住んでいた。
自宅から自転車で15分ほど、小さな公民館の脇に(敷地内だったか)、さらに小さな図書館があり、やや薄暗い採光のもとギィギィと木の床が軋むそこには、かなり古ぼけた体裁の子供向けSF本が何冊も置かれていた。
手にとって開いてみれば、装丁も崩れかかっているような、それこそボロボロのシリーズ本だった、と記憶している。
それでも。
どれも海外作家の古典的SFばかり、そして子供でも読める易しい日本語訳、たちまち引き込まれるスマートな論理構成、さらに挿絵も楽しさ抜群。

おお、そうだ、思い出したぞ ─ 
たしか、この図書館は本の返却期限が一週間だった。
あれは小学校4年生(いや3年生だったか)の夏休み、僕がこれらのSF本を5冊くらい小脇に抱え、しかも子どもなりの気恥ずかしさから、読みたくもない小さな図鑑もあわせ、借り出しを申し出たことがあった。
すると、係のおばさんが眼鏡の奥でちょっと可笑しそうに微笑みながら、こんなふうに言ってくれた。
「あなたは返却期限を?印にしておくから、全部読み終わってから返しに来なさい。ページが抜け落ちてもあなたのせいじゃないから、そのままにしておきなさい。それから…その図鑑はこの次にしたら?」 
この言葉に僕は子供ながらも赤面し、またたまらなく嬉しくもあり、もう家に戻ると食事も忘れてこれらSF本を読みふけったものであった。

そんな懐かしのSF本の表紙画を、たまたまネットで見つけた。
もう感慨ひとしお。
話の内容はうろ覚えながらも、これらについてちらりと案内しよう。

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まず、『27世紀の発明王』 は、じっさいは発明王というより冒険家の話、だったような気がする。
宇宙人がひんぱんに地球にやってくる超未来、この物語の主人公の青年は、フィアンセを悪質な宇宙人にさらわれてしまう。
空中戦のすえに、なんとかこの宇宙人を撃墜し、フィアンセを奪回するのだが、彼女は重傷を負っていて、なんとこの青年は飛行中の空中艇の中で彼女の蘇生手術を行う…。
なお、この物語の挿絵はちょっとコミカルでクールな独特の画で、かのイラスト大家・真鍋博氏によるものであったことを、のちに知った。

それから、『宇宙人デカ』、これは伸縮自在な寄生型の宇宙人が細菌のような大きさになって地球にやってくる、そんな旨の設定だったかな。
主人公の少年もじつは地球人ではなく、この宇宙人を追撃して地球にやってきたとされており、こちらもストーリーはあまり覚えていない、が、びっくりした一幕があった。
それは、この主人公の少年が友人の家を訪問したさい、その父親が手袋もせず工具箱の中をかなり乱雑にひっかきまわす場面に出っくわし、体内に宇宙人が寄生していることを見抜く ─ というくだり。
つまり、本体が怪我をしないよう、寄生宇宙人が免疫防御力を発揮している、といったトリックじゃなかったかな(?)

つぎに、ロボットものでこの2冊。
まず、『くるったロボット』 は、いわずとしれたSFの大御所アシモフによる論理的な傑作で、たしか4編が収録されていたと記憶。
人間の生命と命令に絶対にしたがいつつも、おのれの活動も守らねばならぬという"ロボット三原則"の話。
さらに、人間の知性を完全に超えたことになっている"人工知能"が、人間をアホにしないように適度に事故を発生させる、などなど。

一方、『逃げたロボット』 は、論理的のみならず哲学的なストーリーだ。
人間の従属物であったはずのロボットが、いつしか自我を有し、自身も人間であると勘違いし、所有者の少年のもとから逃走、たしか市民権を要求したり、また人間から追い詰められて自暴自棄になったり。
いったい「認識」とは何であるか、実体なのか論理なのか、どこから生じてどこへ帰するものなのか、そこに愛情も伴奏しうるものなのか ─ といったさまざまな哲学的主題が、少年の淡い感傷ともども読者を新次元思考へ導く…。
実は漫画の「鉄腕アトム」をはじめて読んだ時に、この物語と相通じるところ多く、軽く驚いたものである。

以上、思い出せる範囲にてざっと挙げてみた。

他にも、月世界の文明生物と遭遇する話、雪が有機体になって人間を包囲するが日本人の科学技術で打倒する話、死者が念動力で有機物を操作して巨大組織に挑む話、アンドロイドやロボットを伴って宇宙創世期にまで時間遡行する話……などなど。
これらいずれも子供向けの圧縮編集本であったとはいえ、(おそらくは)今でもSF小説や映画の基本モチーフではなかろうか。

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さて。
亡父などからは、もっと立派な日本人の伝記を読めと幾度となく説かれた記憶が有る。
将来、人と人が出会った時、立派な人間の生きざまを語れば信用されるし、そうでなければバカ呼ばわりされる、だから立派な人間について勉強しておけ、架空の作り話なんか読むのはよせ、という。
その忠告を守らなかったせいだろう、僕はたぶん日本の立派な人間にはなれそうもない。
しかし。
少年期からすでに2回り以上も年月が経過し、電機メーカで科学技術の一端を学び、さらに商社から会計や法律などを学ぶにおよんで ─ あらためて考えること。
「人間が出来ることと出来ないこと」 を区分するものは、引き出しの中の名刺の量ではない。
マテリアルとロジックと、それらを合わせたテクノロジーのみである。
現実世界であろうと、架空のSF世界であろうとだ
そして、それゆえにこそ、亡父なりの人生訓も遠回りながら半分は正しかったともいえる。

以上

2016/07/16

【読書メモ】 日本の税金

人間の経済活動にては、財貨サービスの需要が自由、供給も自由、いつも不規則に変動し続け、常に交渉の連続だ。
一方で、税というもの、この世で最も片務的で固定的な賦課制度である。
だから、税についてはおそらく誰もが控除や転嫁ばかり考えているんじゃないか、これじゃ国民にとって最善の税制などおけそうにない、まして国際間の経済利害が絡めば、なおさら込み入ってくるばかり……いや、違う、そこで留っていたら我々と税制はいよいよ乖離していくばかり、本来は税制は自由競争の補正システムたるべきであり、だから政治(富の再分配)の根本機能たるべき、そして我々による参政権の実践形態たるべきだ。
そんな、こんな ─ と考えながら読み進めたのが本書である。
日本の税金 (新版) 三木義一・著 岩波新書』
此度読んだものは2014年6月の発行版。

なるほど、税にかかる最新事情のアップデートは、我々一人ひとりが多くのソースから収集可能 ─ しかしながら、税制における争点とその本源を立体的に把握するに際しては、本書などは実に概括的かつ明瞭なアブストラクトといえよう。
さらに横断的にみれば、本書は税秩序の不完全性を突きつつ、一貫してフェアネスへの探究やまぬ真摯な文脈づくりが、読者の正義意識を掻き立てる。
敢えて難を言えば、そもそも税の問題はかなり複合的なもの多く、だからこそ、例えば税制の法源と合理性、必然性、各経済主体のメリットとデメリット、とヨリ明瞭に場合分け記されていれば、一層読み進め易かった。

ともあれ、税制の問題そして争点は常に事欠かず、直近のニュースでも消費税率据え置き、法人税率引き下げ、社会保障、雇用問題、所得税や法人税回避のタックスヘイヴン、いわゆるパナマ文書、租税条約、さらに輸出優位まで踏まえればTPPまで ─ 
経済システムの無節操化と無国籍化に伴って、税負担の不平等感は募るばかり。
しかし、まさにそれゆえにこそ、我々はこんご一層 「税感覚」 を磨き上げ、さらなる自由と公正を模索続けたいものである。

さて、今般の読書メモにては、あえて概説紹介の意から、本書の「所得税」「法人税」「消費税」の箇所に絞り、以下に僕なりに要約してみた。
これらに則りつつ、さらに本書にて続く相続税、地方税そして国際税についても読み進めてみたい。


<所得税>
所得税は、収入の多寡を問わず所得を得た個人に対して、その個人の負担能力を考慮して課税する ─ つまり応能負担原則
所有資産に課税する法制度ではない。

<所得控除>
「事業所得」は、収入金額-必要経費(実費)で算出。
事業所得者が実際に支出した必要経費(実費)はすべて控除、が原則。
この必要経費には、従業員に支払った給与も含まれる。

しかし、納税の義務者と生計を一にする親族が事業にて受ける対価は、この納税義務者自身にとっては必要経費ではなく所得とされ、課税対象となる。
一方で、この親族は自己の給与所得が無きものとみなされ、課税対象とされない。
この原則をおいたままでは課税対象者と所得が非対応なので、修正も進んでいる。
(納税義務者の親族が事業専従の青色申告者となれば、納税義務者自身の給与所得控除がみとめられる、など)

概して、所得税の課税対象(単位)は統一的な定義が難しい。
たとえば、家族における課税対象は、欧米では夫婦単位で選択性、フランスでは家族単位、だが欧米よりも個人主義意識が希薄なはずの日本にては、徹底した個人課税主義がとられている。
また、民法上の夫婦間財産契約との優先順位はどうなるのか、さらに、専業主婦は無所得か(だから基礎控除も無いのか)、など。

・次に、サラリーマンなどの「給与所得」は、収入金額-給与所得控除額で算出。
ここでの控除額は、収入金額に応じた法定概算額とされている。
サラリーマン=給与所得者とその家族だけに限って、所得税負担を国際比較した場合、日本のサラリーマンは優遇されている 「ように見えてしまう」
他国では給与所得者への給与所得控除額をほとんど設定せずに経費(実費)だけを控除、これに比べると日本の給与所得控除額が多いため。
よって日本では、給与所得控除額の上限をもっと引き下げろ(もっと課税せよ)という議論がなされ続け、また措置も講じられている。
※ ちなみに来年度からまた引き下げられる。

・しかし、ヨリ根本としては、憲法25条にて保障の生存権、かつ所得税の根本である応能負担原則の実現として、課税対象所得の最低限額を、基礎控除としてすべての納税者に保障 (この額に満たない所得は課税しない旨)
この基礎控除額は、日本では現在わずか38万円であり、生活扶助基準額の50%にすぎない。
所得税負担の国際比較をまともに行うならば、基礎控除まで含め合わせての検証がなされるべきである。
そうすると、日本の所得税における控除額は総じてアメリカと並んで「少ない」、つまり国際比較でみれば優遇されているどころかヨリ多く課税されているのである。

一方では、給与所得控除額を現行の法定概算額と経費(実費)との選択制にすべき、との議論もあるが、経費(実費)を明確化し難いとの理由からまだ決着していない。
そもそも、給与所得者の所得額は源泉徴収で捕捉し易いが、他の事業所得者の場合は所得額が申告制であり捕捉し難い。

<課税所得>
総所得から、上記のさまざまな所得控除を差し引いた残りが、課税所得である。
この課税所得の多さに準じて累進税率が適用されており、この累進税率が過度に大きいと高所得者の勤労意欲を損なうとして、累進度は時代が下るごとに弱まっている。
しかし今でも、課税所得の最高税率は、住民税の課税分まで加えると50%にもなっている。
累進課税に則って課税所得を鑑みた場合、所得控除が多くなればなるほど高所得者に対して有利ではある。

なお、課税所得への税率計算にては、一般には「超過累進税率」方式が適用されている。
これは、同一人の課税所得にて「金額レンジ帯ごとに別々の累進する所得税率」が掛けられ、それら「おのおのが合算されて」課税されるもの。
一方、累進課税と聞いて勘違いしやすいが、課税所得の「総額のみに一括で」所得税率を掛ける課税計算が別にある。
これは「単純累進課税」方式といい、この場合には納税者が税率に応じて課税所得を操作しうるなどの欠陥が明らかである。

<税額控除>
・ここまでの所得税額から、さらに税額控除がなされる。
税額控除としては、配当控除、外国税額控除、住宅借入金(取得)等特別控除…など。
概して低所得者ほど、所得控除よりも税額控除の方が効果は大きい。

<手当て金>
・課税対象「以下」の低所得者まで皆平等に扱うべく、控除ではなく「手当て」制度の充実が図られてきた。
その一環が、民主党政権時代に進められた「子ども手当て」であり、これは所得控除のひとつであり高所得者ほど優遇される「扶養控除」を廃止し、それによって増えた財源を割り当てようとの構想。
しかしながらこの制度は、財源があいまいなまま所得制限を設けずにばら撒きを行うものと非難され、廃止に向かうこととなった。

子ども手当を不平等感なく実践進めるのならば、財源と手当て対象を出来るだけ一元化することが望ましい。
たとえば ─ 対象の所得多寡を問わずこの手当て金を供し、これを課税所得に加えてトータルの税収を増やし、その上で高額所得者の納税分を充当すれば、手当て金システムとしては簡便である。

<公正な所得税の追求>
・所得税は、国民が得る経済的利益の大部分を課税対象としている ─ はずだが、利子・配当・不動産・譲渡といった「資産性」の所得をどう扱うべきなのか。
どれも総合課税ではなく、課税方法や率や所得区分が個別設定のままである。

・所得税の公正さを追求する上でのひとつの試案として、「支出税」構想もあった。
これは所得そのものを課税対象とするのではなく、収入から必要経費と貯蓄額を控除した「支出額」に課税せんとするもの。
尤もこれは所得額と貯蓄額と支出額がどれも個々人によって大きく異なり、応能負担の原則におよそ沿ったものではないとして、採用されるにはいたっていない。

・北欧などでは、「資本所得」と「勤労所得」を別個の税率適用とすることで、所得税負担の平等を追求する試みもある、がこれでも資本取得の分は低税率を適用するなど、やはり完全には機能していない。

・なにより、経済のグローバル化にともない、所得者とその国籍が一致しない事態が進行の一途。
富裕な個人が国外に移動しその地元に企業設立、そこを拠点に日本で事業活動を行うなど。
ここまで踏まえれば、民主主義の大目的である「所得再分配」と応分コストの負担共有が、実現どころか逆行していることになる。
日本では所得税の多くをサラリーマンが負担している、そして国際競争に晒されてもいる。
だからこそ、サラリーマンの自覚が多く求められ続けている。

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<法人税>
・法人税は、会社の活動がすべて営利目的に基づくとの前提をおいている。
そして、(所得税同様に) 所得を課税対象としている。
ただし、法人税法上の課税所得は、商法上の企業会計の確定決算利益とは一致しない。
たとえば、企業再編、融資元と融資先、役員報酬、その親族の報酬、受取配当、交際費、寄付…の行為にて、これらが会社の所得なのか或いは経費なのかと論理峻別するに際しては、企業会計の確定決算利益のみからでは不可能である。

<課税所得>
そこで企業会計とは別個に、課税所得計算プロセスを経て会社の事業年度毎の所得を算出する。
このプロセスにて、法人税法上の益金算入額を加算、かつ益金不算入額を減算、こうして「益金」を算出する。
更に、やはり企業会計ベースに、今度は法人税法上の損金算入額を加算、かつ損金不算入額を減算、こうして「損金」を算出する。
こうして個別に算出した「益金」から「損金」を控除し、課税所得が確定される。

※ なお本2016年度時点で、課税所得に対する法人税率は23.4%であり、これに法人住民税率や地方法人税率まで加味した法定実効税率は29.97%である。
こんご更に法人税率が切り下げられていくことが予想されている。

・特に、日本の全会社の95%を占める同族会社の場合、その活動が会社としての営利目的であるのか、支配的個人のみによる行為であるのか。
ここのところ、同族会社自身に任せておいても判別し難いとの理由から、税務署がいわゆる「行為計算否認規定」を随時発動し、独自に判断し得ることになっている。

<擬制説と実在説>
法人擬制説とは、会社の所得は結局のところ個人株主の所得であると見做し、ゆえに本当はその個人株主に対して事業所得税として課税すべきとする見方。
仮に法人税として一時的に法人に課税しても、これは個人株主の所得税との二重課税となるため、別段にて調整すべきであるとする。

日本はこの法人擬制説を採っており、徴税時点にて個人株主が課税調整を不要とするならば確定申告不要もしくは申告分離課税を選択、また株式配当への控除を求めるならば総合課税を選択することが出来る。
一方で、日本の法人間の配当は課税所得計算にて「益金不算入」が原則 (持株比率に準じてこの不算入率が異なる。)

法人擬制説に則った国として。
たとえばイギリスでは(部分的)インピュテーション方式を採用、これはまずその株主個人の配当に事業所得税が課され、そこから配当における法人税分を別途控除する課税システム、一方で法人間の配当は全額が「益金不算入」。
またドイツでも法人擬制説を採り、個人株主への配当などについて一律25%を法人税分とみなし、これを申告不要で控除、そして法人間の配当は95%が「益金不算入」。
フランスも法人擬制説で、個人株主への配当は法人税と所得税の分離課税か或いは総合課税かを選択可、また法人間の配当はすべて「益金不算入」。

・一方、アメリカなどが採っているのが法人実在説
これは法人と個人事業者が別個独立とみなし、それぞれ課税対象とみなすもので、したがい個人株主へは法人税と事業所得税が別個に課され、控除調整はナシ。

<軽減税率>
本書発行の時点で ─ 
日本の資本金1億円以下の中小企業の場合、課税所得のうち800万円以下の部分には18%の軽減税率を適用、それ以上の課税所得分については通常の法人税率が適用されている。
なお、公益法人、協同組合、特定医療法人に対しては、その事業目的が公益であると見做されれば、課税所得の多寡にかかわらず軽減税率18%が適用されている (公益法人の7割は宗教法人)。
さらに、公益法人による出版や旅館の課税所得も、やはり軽減税率が適用される。
一方では、NPOによる収益事業の課税所得に対しては、軽減税率は適用されていない。

<法人税課税の実態>
・日本にて、法人税を負担している(=所得のある)企業は、過半に満たない。
そして資本金1億円以上の企業、数にして全法人のわずか0.1%が、その半分は赤字にありつつも、日本の法人税収の6割以上を負担している (H14年データによる)
むろんこの税収額の偏差は、各法人の自由意思のはずがなく、所得格差そのものを表わすと捉えるべきである。

・なお、日本は法人数が多く(本書データの時点で)約260万社、特に中小・零細の法人数が極めて多い。
そして、個人が税制上の利便を図って「法人成り」しているケースが多い。
なお、ドイツやイギリスでは法人数が63万社、フランスが94万社、人口が日本の3倍近いアメリカでさえも225万社である。

<法人税への批判>
・法人税の負担額をおしなべて見れば、会社の株主か、労働者の賃金か、或いは消費者の購入価格に転嫁されていることになり、よって本当の法人税(分)の負担者が誰かは極めて峻別し難い。
この判り難さから、どの経済主体も自己の負担分の控除ばかり狙うことになり、この無責任意識の蔓延ゆえにこそ無節操な増税手段ともなりうる。
また法人には参政権が無いため、法人への課税は政治システムにおいて歯止めがかからない。

・だが一方では、法人企業の経済社会におけるプレゼンスの大きさこそを危惧すべきとの見方も根強い。
会社法の改正に応じてただちに法人税法も改正され、政府の各種委員会には法人企業の代表者が多く入り込み、法人企業による政党への政治献金は継続されている。
このように法人企業は個人以上に社会的影響力を行使し、担税力も巨大なはずであるが、法人税負担は法人擬制説に則って個人株主に押しつけうる。

・じっさい、日本の法人税率は90年代以降下がり続けている。
また、税収全体における法人税の比率も下がっている。
それでも、地方税における事業(所得)税まで合わせると、日本の実質的な法人税率はアメリカと並んで高いことになる。
しかも、国際比較はけして単純ではなく、利益計算や所得算出方式が国ごとに異なっている。

法人税引き下げ競争はいまや世界各国のトレンドであり、論理的には限りなくゼロに近づくことになる。
同時にまた各国は、大企業向けの税制優遇措置をとりつづける。このトレンドは、税制の公正化とは真逆の不公正・不明瞭な事態をさらに世界経済にもたらしうる。

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<消費税>
消費税法によれば、事業者が対価を得て行うすべての資産譲渡等において、消費税が課税対象となる。
この普遍性の高さから、こんご更に税率引き上げが続きうる。
1%の消費増税は国と地方税収の3%分に相当、かつ、現時点での日本の消費税率は国際比でみて極めて低い。
(なお、対価を得ない資産移動、たとえば給料、寄付金、祝金、試供品提供、資産滅失、保険金、損害賠償金などは、消費税が不課税である。)

・消費税納付額を算出するにさいし、関係事業者すべての仕入と販売売上にかかる税込額を累積計算すると複雑に重複してしまう。
しかし、すべての事業者が中間財の仕入にて消費税額を一括控除するものと見做せば、重複ナシに計算出来る。
そこで事業者の消費税額を (課税売上額-課税仕入額) x 消費税率 と一律化。
この売上-仕入は経済額用語でいう付加価値に相当、よってこの消費税課税は付加価値税(VAT)とも略称され、フランスに始まって欧米へ広まっていった。

・消費税導入以前は、各品目について個別に課税率を定める物品税が採用されていた、が、これでは遍く全ての商品や新たな商品の課税率を個別に定めることが不可能とされていた。
ゆえに、全商品品目に対する一律課税を前提とする消費税が採用された次第。

<間接税ゆえの逆進性>
そもそも消費税は、納税義務者と税負担者の一致しない、間接税の典型である。
そして納税義務はあくまで事業者に在るとされている。
それゆえ、事業者が中間財の仕入れにて一時負担の消費税額を販売価格に転嫁すること随意である。

・こうして捉えれば、消費税課税品目がどのような取引経緯を経ても、結局は税負担分がひろく消費者に転嫁されることとなりうる。
したがい、税制の基本たる応能負担原則には合致しにくく、購買力の弱い低所得層ほど不利な逆進的課税システムともいえる。
とりわけ、資産と所得の格差大きい高齢者が人口比で増えていくならば、全国民通しての経済力格差も拡大することになるため、消費税の逆進性が高まっていくことになる。

理念的には、最低生活水準維持の消費支出にかかる消費税分を、所得税額から控除する、という方式が考えられる。

<益税の問題>
いわゆる中小企業特例にては、事業者ではあっても前々年度の課税対象売上高が1000万円以下の場合、確定申告不要で免税事業者となる - この金額の一線を免税点と称す。
この免税事業者は自身の販売価格にて消費税分を上乗せしうる、しかしながら実際にどれだけの金額を上乗せしているかは消費者には判らず、この免税事業者だけが利益膨らませうる…これが益税の問題

・この免税点の条件は年々厳しくなり、免税事業者の数も減りつつあるが、いまだ個人/法人事業者の4割近くが課税売上額にて免税点に達していないとされている。
また国際比では、日本の事業者への1000万円以下という免税点は条件が緩すぎるとし、EU並みに(日本円相当で)100万円前後にまで引き下げるべきとも指摘されている。
日本の免税点がいまだ緩すぎるのは、もともと消費税導入時に、自身の負担増を危惧した中小零細事業者と段階的な妥協を図ったため。

・また、簡易課税制度も益税問題をもたらしている。
事業者が中間財の仕入れ額と商品売上額ともに正確な消費税納付分を精査せず、課税額が一定割合にあると「みなす」 ─ これを認めて、消費税納付額の算出便宜を図るもの。
実際の商取引にてはさまざまな業種や事業形態が輻輳しているため、この簡易な納税額計算が採用されてきた。
事業者が前々年度の課税売上5000万円以下の場合、この簡易課税制度の自由選択が可能。
ここで、たとえば仕入れ額における消費税「みなし」額が、事業者の雑益たりうる場合もある。

・販売商品における(消費税含みの)総額表示方式がとられてから、その販売価格の妥当性についての消費者意識が高められてはきた。

<消費税の控除>
・事業者が中間財仕入における消費税額を控除するにあたり、欧米の付加価値税(VAT)システムではいわゆるインボイス方式を採用。
これは各事業者が、それぞれの仕入取引における商品送り状や請求書にて、消費税額を分離・明記し、これによって最終的に事業者が消費税の控除申請するもの。
ただしこのインボイス方式にては、免税事業者は事業間取引外にあるとされ、控除請求は出来ない。

一方、日本ではいわゆる帳簿方式を採っており、たとえ免税事業者であっても仕入れ額の帳簿を提示すれば消費税額を控除請求可能。
とはいえ、この帳簿内容は所得税(および法人税)の課税計算と合致しているはずであり、別途提示の必要性が不明瞭ではある。

・法人税と消費税の違いが、事業者による雇用契約判断をも変えてきた。
法人税に則った課税所得計算では、事業者による給与支払い分は損金となり、法人税の控除が出来る。
一方で消費税では、事業者は仕入れ行為の多くを控除図りつつ、自社の給与支払いは仕入れ行為とは見做されないため、その消費税負担の控除請求が出来ない。
だがここで派遣会社を使えば、労働力は確保しつつも、ここで支払う派遣料は仕入れ行為と見做されるので、その消費税分を控除請求が出来るのである。
こうしてみれば、消費税率を引き上げることが派遣労働を増やすことにもつながりかねない(労働法もあわせて改正の必要あり)。

<非課税取引の矛盾>
・消費税採用後も、現在に至るまで、消費税の課税例外となる「非課税取引」が別表にて税率定義されている。
たとえば ─ 土地の譲渡、住宅貸付、有価証券の譲渡、貸付金等の利子、保険料、切手類や印紙の譲渡、行政手数料、外為、医療、社会福祉事業、授業料、入学検定料、入学金、助産、埋葬や火葬…
これら行為区分が仔細に亘るため、業者は仕入れ時点にて選択的な節税策も可能となる。

・事業者が販売する或る商品への消費税を非課税としつつ、その一方で仕入れの際の品目は課税対象である、とする。
この場合、事業者は仕入れの際に発生した消費税分を控除請求出来ない。
仕方がないのでその事業者は、その仕入れ分の消費税額を販売価格に転嫁するしかない。
…という具合にして、どの事業者も販売価格に仕入れ分消費税をオンしていけば、あらゆる商品の売価が上がっていくことになる。
とりわけ、必需品が非課税となりつつも仕入れ分は課税対象のままとなったら、必需品の売価がどんどん上昇していくことになり、これを「非課税の矛盾」と称す。

<ゼロ税率、軽減税率>
・上に挙げた非課税の矛盾を拡大させないよう、消費税にてゼロ税率や軽減税率の制度をもって、事業者の税負担を回避している。
たとえばゼロ税率とは、「事業者が販売する消費税非課税の品目にもゼロ%の消費税が賦課されている」と見做し、仕入れ時の税負担分の控除を認める(還付がなされる)制度。

消費税率は国によって異なる場合もあり、その場合には消費税率の低い国々が販売価格競争で有利となる。
この輸出競争力維持のためにこそ、日本はじめ先進国の税制では、輸出(類似)取引に消費税免税を認め、輸出価格競争力を維持しつつ、あわせて販売事業者の負担回避を図っている。

・しかしながら、消費税率の掛け方とその対象品目は国ごとにかなり異なっており、また各国間での商品仕入れ(輸入)と輸出はかなり入り組んだものである。
よって、輸出品目へのゼロ税率適用のみが自国の輸出優位と事業者保護を必ずしも約束するとは限らない。

ちなみに、2011年時点にての主要国別の消費税負担 ─ 
軽減税率の対象品目: 日本はナシ、フランスとドイツとスウェーデンでは食料品と水道水と肥料と書籍と旅客輸送と宿泊施設利用と医薬品などに軽減税率適用、イギリスは家庭用燃料と電力に軽減税率適用。
ゼロ税率の対象品目: 日本はナシ、フランスもナシ、ドイツもナシ、スウェーデンでは医薬品はゼロ税率適用、イギリスでは食料品と水道水と書籍と旅客輸送と医薬品と建物建築などがゼロ税率適用。
輸出(類似取引)免税: これら各国が適用。
非課税品目は、これら各国につき、おしなべて上述のとおり。 

なにより、消費税への軽減税率ないしゼロ税率適用が進行していけば、各国にとって確実に税収減少につながってしまう。

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※ ところで。
税について語るにあたっては日本語はあまり向いていない気もする。
たとえば、課税するのか/されるのか、既に課税されたのか/これからされるのか、制度を指すのか対象品目を指すのかはたまた金額を指すのか、といった論理峻別は、ちょっと物理学や化学にも似て日本語ではやや難しく、英文の方が理解し易いような気もする。
そしてこの日本語表現の不明瞭さが、実社会にて世代間の意思疎通を滞らせる遠因ともなっている。
尤も、本書の文面はかなり理知的である。

以上

謝辞

ここに提示の記事は、いずれも私自身の判断責任のもと編集・投稿したものです。

大半の投稿は学生など若年層向けを意図してやや平易な表現にて、通俗性は極力回避しつつ、論旨の明示性を重視しつつ書き綴りました。あわせてまた、社会人の皆様にお読み頂くことも想定しつつ、汎用性高い観念知識を相応に動員しながら記した積もりです。

私なりの思考着想によるささやかな閃きが、皆様の諸活動にて何らかの光源たり得れば、望外の喜びであります。

山本