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東京都立川市出身、慶應義塾大学卒業、某電機メーカ勤務にてソフトウェアシステムの海外プリセールス等を経て、現在は教育関連に従事

2016/09/17

合意とはなにか

人間が本当に何かを理解し、そしてその当事者同士が本当に合意しているのか、それを物理的に実証することはいまだ不可能である。
もし、人間の万物への理解や合意をその脳神経の活動によって定義できるのなら、他人への移植複製も出来、いつか必ず全ての人間が宇宙の万物について理解共有と合意が出来るはずだ。
だが、実際、そうはなっていない。

或る特定の事項についてでさえ、人間同士が完全に合意したとは誰にも判断出来ぬ。
たとえ合意したようにみえても、それが当事者同士の全面合意か部分合意か、また、同時に合意したのか、合意に時間差があるか、厳密には分からない。
このように合意は非対称である可能性が常に残る。

かつ、合意というからには、あわせてその解除も(あるいは忘却も)定義されなければならぬが、これもやはり厳密には判定出来ない。

とはいえ。
たとえ、おのおのがたの脳神経における活動とその実体が分からずとも、意思表示から察して、各人の理解内容における共有関係の有無および共有方式までは演繹出来る。
その演繹を重ねていくことが、人間同士の合意プロセス ─ つまり民主主義のプロセスだ。
(と考えれば、このチャレンジは数学プロセスに似ていなくもない。)
だからこそ。
人間社会における経済活動や政治意思決定においては、とりあえず合意のルールを作りとりあえず或る瞬間における合意をもって全構成員が合意「したものと見做す」。

それでも、政治や経済活動における合意には大きな課題が少なくとも2つ残されている。

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(1) ひとつは、政治システムにて採られている代議制多数決。
これは無差別に、かつ効率よく、社会構成員の意思を伺い、それを代弁し、合意したと見做すための工夫。
この無差別性について、ひっかかる。
なるほど、無差別なのだから、無記名投票の方式であり、それゆえに、無効票にも棄権にも罰則はない。
これこそ、公正さの追求、にもかかわらず、参政権には年齢制限がある。
おかしいでしょう。
参政権における年齢制限の根拠は、納税額か?資産額か?はたまた、社会の諸問題に対する知識量か?
たとえば、地震と原発について技術的に熟知した「大人」だけに、選挙権が(そして被選挙権が)あるということか?
違うでしょう?
じゃあ、道徳能力か?
でもね、或る人間の道徳能力を判定出来る人間が、世の中に実在するわけがない。

いや、われわれ有権者は道徳能力が高いことに「なっている」、と年輩者は声高に叫ぶだろう。
じゃあ、そんな道徳心満点の有権者の爺さんばあさんが、どうして道徳能力の低いやつを代議士に選んできたのかね?
そんな有権者こそが道徳能力が低いってことじゃん、そいつらこそ当面のあいだ参政権を剥奪してやるべきじゃないのかな?
いや ─ 或いは逆かもしれぬ。
わしらは先祖代々、道徳能力が低いクズなんだ、だからわしらの息子や娘も道徳能力が低いバカに決まってんだ、だから参政権なんか与えちゃなんねぇだ!
そういう判断なのか。

明らかに利害が異なりうる(かもしれない)外国人について、参政権に制限を設けるのは、まだ納得出来る。
だが、同じ国民でありながら、無差別であるべき参政権にて年齢制限が設定されているのは、どうも考えれば考えるほどおかしい。

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(2) もうひとつ。
いかな合意をとりかわそうとも、各人が本心では絶対に譲らないもの、それは所有資産の所在である。

なるほど経済活動は、或る法人や個人の所有資産を収奪し移転させることを目的としている。
だから、技術力で負けたとか入札で負けたという、そのビジネスルールには合意しうる。
としても、だ、資産が常に収奪されうるというスリル意識において、本音のうちではルールの合意など認めたくない。
(だからマフィアやゴルゴ13も必要とされているのだ。)

もっと端的に。
たとえば、私人の資産と国有資産の関係は?
国家なるものが、あくまで私人の集合をさすのなら、国有資産のどの部分をみても、必ず誰か私人の所有のはずである。
そう信じたい、うむ、そうでなければならぬ。
ここで仮に、勤労の機会が無く納税義務すら果たせない、社会保険料も払いきれない、だから行政側が資産を没収 ─、なんて事態に陥ったとしよう。
いやいや、誰と何をどのように合意しようとも、これは納得しきれないのではないか。

俺の資産を国家に没収されるくらいなら、まだクーデタや内戦の方がいい、いや、いっそ戦争になればいい、うむ、そのための国家じゃないか!…という解釈だってあらわれよう。
戦争は穏やかではないとしても、政治システムにて、結局はおのれの資産保有を確約してくれる代議士を選択することになろうか。
だからこそ、資産保有を認めない子供には、参政権も認めないってことになるのではないかな。

以上

2016/09/10

人間言語は不要となるか?


① コピー機について、こんな概説をちらっと拝見。
「光電効果で、プラス電子が黒色に成り、マイナス電子は白色と成って、これでドラム側とトナー側に電子が分かれて…」
さて、ここでの 「成って」 や 「分かれて」 といった日本語表現は、主体と客体が分かり難く、だから論理表現か物理表現かも不鮮明だ。
そこでこれをざっと思いつきで英訳すると、 "charge electrons positive/negative to contrast light reflections on drum rolls or ink toners " などなど。
さ~すが、英語は主体と客体を差別的にかつ動的に記すことが出来る ─ ような気がする。

だいたい日本語ってやつは、あいまいに出来ている。
たとえば、「店内でお待ち下さい」 という表現があるが、これは店内から出てはいけないという拘束的な忠告なのだろうか?
……などという思考レベルで留まっているのが、未成年のがきども。

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② しかしながら、だ。
もうちょっと根本的なところまで立ち戻って、考えてみたい。

たとえば、物質の化学反応のもっとも根本である 「酸化」 について、この言語表現のみでは、どっちがどっちに電子をどうするのか、さらに行為なのか状態なのか、どうも判り難い。
さぁてそれでは、英語ではどうなるかといえば。
実は英語でも、酸化 "oxidise" という動詞コマンドは「電子をピシッと放出するアクション」を指しつつ、「受け取るアクション」もまた同じく "oxidise なのである。
どうも、言語表現ではどうしても主体か客体化が峻別しにくい、よって、行為か状態かも分かり難い。
イオン化 (ionise) も同様、さらに上に挙げた "charge" や "contrast" も言語表現としてはあいまいである。

自動詞なのか他動詞なのか、動的行為なのか静的状態なのか、偶然なのか必然なのかという、語法上のこだわり。
これは、あくまで人間意識における微分的な限界なのではないかな。
そして、そんなことには委細構わず、物質そのものは酸化し還元しイオンになりまた触媒にもなりうるし、既になっている。
人知が介在しようがしまいが、エネルギーも物質も "work" を継続しており、明日も明後日も数百万年後もずっと継続する。

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③ 英語にせよ、日本語にせよ。
言語がガチンガチンの厳密ルールにおかれ、とりわけ動詞の峻別化が進められてきたのは、いかにも知的進歩のようでいて ─ 
じつは資産の権利化と差別化を明確にするため、そして工程分業を徹底するためだったのではないかしら。

だが、そんな人間都合とは別に、自然物はもともと存在し続け、シークェンシャルに変化し続けている。

さらに、工業テクノロジーは人間都合の外縁部におこりつつも、人間意識からからどんどんかけ離れて自己完結的にかつ包括的に進化する。
ちらっと思い出すのが、いわゆる単一画素カメラだ。
もともと、デジカメは画素の集積度が増し、これつまり機能単位の精密な差別化であった、が、単一画素カメラとなると、デジタルどころかむしろ一括処理型のデータプロセス。
それから3Dプリンタにしても、その立体オブジェクト出力技術は、さまざまな工業製品の部品差別化を前提としたものにあらず、むしろそれら製品素材の自在な統合化を前提としているのではないかな。

このように、自然物との協調とテクノロジーの統合化が続けば、「人間」と「人間以外」をつなぎとめる表現技法は、いよいよ図案と数式だけになるような気がしてならない。
そうなったら、たとえば大学入試からは現代文と英語が消えるだろう。
文芸はどうなるのだろうか?
と、いうか、カネと法はどうなるのだろう?

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④ ちょっとおかしな例えかもしれないが、数学には 12÷0 のように「解の算出が不能」なものがある。
ここで解の算出不能ギリギリまでを表現せんと奮闘してきたのが、従来の人間言語であった、といえまいか。
しかし、ほわんとした自然物と、人間外部の包括テクノロジーが本当の宇宙のありようであり、それはむしろ 0÷0 のように「解が不定」なのかもしれない。
解が不定なら、数学のみの宇宙ということになり、人間言語は要らぬではないか。
(このあたり、あまり考えないで書いてますよ。)

以上

謝辞

ここに提示の記事は、いずれも私自身の判断責任のもと編集・投稿したものです。

大半の投稿は学生など若年層向けを意図してやや平易な表現にて、通俗性は極力回避しつつ、論旨の明示性を重視しつつ書き綴りました。あわせてまた、社会人の皆様にお読み頂くことも想定しつつ、汎用性高い観念知識を相応に動員しながら記した積もりです。

私なりの思考着想によるささやかな閃きが、皆様の諸活動にて何らかの光源たり得れば、望外の喜びであります。

山本