2017/03/25

さよならキッス

高校卒業式の前日、夕刻のこと。
僕は、美術教室に立ち寄っていた。
ひそかにずっと恋焦がれていた女教師に、せめて別れの挨拶を、と思い立ってのことだった。

彼女は20代半ばの美術教師、すらっとした体型で、それでいて気さくな性格が絶妙にいい。
でも、なんといっても素晴らしいのが、そのドキリとするほど端正な顔のつくり。
涼やかな目、くっきりとした眉筋、意思の強そうな顎と口元、賢そうに整えられたややショートな髪形。
それでいて、横顔はロココ風の有名な裸婦にやや似ており、想起するたびに僕はいつも心中で赤面したり、かっとなったり。
高く張った鼻梁はむしろちょっとだけ愛嬌が有ったが、それでもはやり、ため息が出るほどの美人女教師。



美術室のドアをノックをしても返事が無いので、無造作に入室し、軽くため息まじりに、室内を見まわしていると。
あっ。
とつぜん僕の目に飛び込んできたのが、彼女の自画像!
それは真っ白な画用紙にコンテと鉛筆で描かれた、彼女の上半身の肖像であった。
明色のブラウスは肩のラインが微妙に尖がっており、ちょっと肌けた胸元にはリボンが音符のように舞い、そして、そして、光彩の中に輝く彼女の美貌、ああ、この瞳、気高い鼻筋、きれいな首筋、まるで女神のような…。
うわぁ、と心中で喝采しながら、僕はそれを手にとって、真正面から無遠慮に見つめてみる。
自画像の中の彼女が、つい、と僕を見つめ返している。
そっと息を吹きかけると、くすぐったそうに微笑んで…

いや ─ しかし ─ もしかしたら。
もしかしたら、この画は自画像などではなく、誰かに描かせたものかもしれぬ。
そんな邪推が湧いてきたとたん、うぬ、もう、わくわくドキドキは一転して猛烈な怒りへと。
そうだ、と僕はひとりごちていた、この絵、そーっと持ち去ってしまおう、それとも、破り捨ててしまおうか。
いや。
せめて、もっと楽しいエンディングに帰着させよう、僕だけのひそかな恋慕の思い。
そんなふうにようやく自制して、ふ、と見回すと、作業机の上に赤いクレヨンが。
これだ、これだ。
これで ─ こうしてやるんだ!
彼女の、向かって右の頬に、真っ赤なキスマークを……

はっ、と振り返ると、そこに彼女がすっくと立っていた。
つられて、僕も弾かれたように立ちあがった。


☆    ☆

「ねえ、山本くん!それは何のつもりなの?」
「はぁ」
「あたしの絵に、バカなことして!何考えてるの?!」
「はぁ、そのぅ、たいしたことは、考えていないんですけど」
「答えになってない!」
彼女は鋭くそして厳しく言い放ち、それは彼女が初めて見せた激しさではありつつも、じつに不思議なことに、きっと彼女ほどの美人ならこんなふうに怒るのだろうなと、僕は何年も前から分かっていたような気がしていた。
彼女は荒々しい語調で続けた 「山本くんはこんな悪さするのなら、卒業する資格は無いわね!卒業取り消し!」
「そんな、バカな…」
「バカはどっちなの!?」
僕は黙りこくり、彼女もしばし沈黙した。

それで僕はやっと、おずおずと口を開いた。
「あのぅ、この絵は先生の自画像なんですか、それとも、誰かに描いてもらったものなんですか?」
この問いかけに、彼女はふっと穏やかに口調をあらためながら、「さぁ、君はどっちだと思う?」
「分かりません、だから…なんだか悔しくて!」
僕は抑揚の無い声で続けた、つもりだったのだが、次第に泣き声まじりになっていたのも、どうにも不思議な心の波動ではあった。
彼女は、黙って数歩、窓際に歩み寄り、それからさっと振り返ると、ぱーんと勢いよく手を打ち鳴らした。
「ねえ、山本くん、そこに座りなさい!」
「はい?」
「そこに座るのよ。窓の横に。ねえ、今から君の肖像画を描いてあげる」
「え?」
「あたしの描く人物画が、どんなものなのか、実演して見せてあげるってこと」
まさに、うって代わって、彼女は楽しげな口調になっており、鉛筆を数本手にとると、さぁ早く、と急かすのであった。


☆  ☆  ☆

彼女に謂われるがままに、僕は窓の脇に位置を落ちつけた。
頬に夕陽がぽっと射してくる。
「あのぅ、先生、どのくらい時間がかかるもんですか?」
「すぐに済むわよ。さあ、ちょっと黙ってて」
「はい…」
夢!夢のような時間!僕は今まさにこんなふうに憧れの美人先生と差し向かい、ほら、彼女が僕を見つめている、あっ、また見つめている、そして、画用紙にさらさらと、すごいスピード、すっすっすっと、彼女の手が魔法のように ─ ああ、魔法は夢か、夢が魔法なのか…
僕はのどがカラカラになって。

「出来たわよ。ほら」
それは ─ まさに、そっくり。
「ねえ、山本くん、どう?…ほら、こうして…あたしの絵と並べてみれば、ね、全く同じ画質、同じ構図、同じ光と同じ影、ふふふ、わかった?君が悪戯したこのあたしの絵も、あたしが描いたってこと
「はい、あの、よーく分かりました」
僕は上ずった声で、やっとそれだけ答えていた。
「あ!そうだ!ひとつ忘れてた」
彼女は急に高い声をあげて、つ、と手を伸ばすと、さっきの赤いクレヨンをつまみあげて、僕の肖像にキスマークを。
「あははは、これでいよいよ、同じ芸術家の作品証明ってわけね。面白いわね~、賢いお姉さまと、バカな弟くん、といったところかしら」
僕は黙りこくっていた。
「さあ、山本くん!どっちの絵が欲しいの?自分の絵?それとも両方?」
「どっちも要りません!」
自分でも信じられないほどの大声で、僕はとつぜん立ちあがり、それから美術室のドアを荒々しく開け放ち、廊下を走り去っていた。
どうして、どうして、と僕は心中で喚いていた ─ どうして僕はこんなに荒れ狂っているんだろう、どうしてこんなふうに玄関を駆け抜け、今こうして夕陽を追いかけるように校庭を疾走し…分からない、分からない、やはりこれはささやかなエンディングだったのか、それとも……。

やがて。
陽がほとんど暮れた帰宅路を、僕はうつむき加減で歩いていた。
どういうわけか、それまではいつも素通りしてきた小さな喫茶店が、ぽつりと目に留まった。
ふらっと立ち入ってみれば、リストの 『愛の夢』 が静かに流れていて。
僕はたちまち其処を飛び出し、ふたたび走り続けているのだった。


☆  ☆  ☆  ☆



翌日の卒業式は、風の強い日だった。
式次第の進行中、ちらり、ちらりと、彼女と目を交わしたが、ついに一言も交わすことなく、僕は高校をあとにしたのである。
ただ一つだけ最後に留め記すならば。
翌日、僕宛てに2枚の絵が届けられたのだが、言うまでもなくそれは彼女の自画像と僕の肖像であり、さらに言うまでもなくキスマークなど付いていなかった。


おわり