2017/11/19

コペルニクス


「おい!君、どこに行くんだよ?そんなでっかい瓶なんか抱えてさ」
「この先の泉に行くのよ、水を汲みに。だって、うちの井戸から水が出なくなっちゃったから! ─ ほらっ、どいてよ」
「なあ、君さぁ、そんな格好で歩いてたら、じきに腰の曲がったばあさんになっちゃうぞ」
「もう!どいてよ、日が暮れる前に水を汲んでおきたいんだから!しっ、しっ」
「なんでそんなに急ぐのさ、若さはもっと楽しまなくっちゃ」
「うるさいなぁ……ねえ、あんたさぁ、そんなにヒマなら、この瓶にいっぱい水を汲んできてよ、ほらっ!」
「なんで、俺が、あははは、イヤだよそんなの」
「ふーん、男のくせに弱いのね」
「べつに…弱いってことはないよ」
弱いわよ、あー、本当に情けないわ。痩せ犬みたい。女の子の労働すら引き受けられなんて、あんたのお父さんが見たら顔を真っ赤にして怒るだろうなぁ、こんな弱っちい息子だったのかって。ふっふふふ」
「そんなことはない!なんだ、そんな瓶くらい!おら、貸せ!いいか、俺は痩せ犬じゃないぞ。泉の水を入れてくりゃいいんだろ、ここで待ってろ、すぐ持ってくるから!」


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「はぁ…はぁ……ほらっ、どうだ!?」
「うわー、早かったのね、走ってきたの?ご苦労さま、ふっふふふふ」
「…俺は、痩せ犬じゃなかっただろう…」
「うん、見直したわ。ちゃんとした犬だってことがよく分かった」
「犬じゃないぞ!バカにすんな!」
「感謝しているのよ、ありがとう」
「…なあ、君、こんなこと毎日続けてたら、すぐに腰の曲がったばぁさんに」


「ねえ!」
「ん?」
「ほら、きれいな夕陽!どうしてあんなに真っ赤なんだろう」
「夕陽だと?…さぁ、どうしてかな」
「ああ ─ いつまでもこんな素敵な日々が続きますように」
「さぁ、どうだろうかね。それより、さっきまで走っていて気づいたんだけど、いつの日か、俺たちがこんなことしなくてもいいように、もっともっと便利なことが起こっているんじゃないのかな」
「あたしは、今のままでも楽しいんだけど…」
「でも、いつか、君や俺みたいな若い連中が、もっと楽をしてもっといろいろなことを学べるような時代が、くるかもしれないよ」


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「ねえ、影を見て」
「え?」
「影って、不思議ね…何もかも教えてくれるもん、影って」
「へぇ?そんなもんかね」 
「数学の本に載っているでしょう。あらゆる形を三角形として捉えてみれば、或るところから別のところまでの角度と距離を計算出来る、とかなんとか。あたし、影を見るたびにそんなことを思い出すのよ」
「ふーん、それって凄いことなのかな
「どうかしらね……ねえ、それよりあたしの影を見て。さぁ、あたしが何を考えているのか、わかる?」
「分かんねぇよそんなもん」 
「そうね、あんたの影も『わからない』って言っているわ」
「なんだそりゃ ─ それじゃ、俺が何を考えているのか、君に分かるのかよ?」
「ふふふふっ、馬鹿ね。あんたの影は『俺はいま何を考えているのか分からない』って言っているわよ」
「訳の分からないことを言うなって。こんがらがってくる」
「でも、影はこんがらがってないわよ。何もかもお見通しなの。ふふふっ、あんたって、やっぱり犬みたい」
「ふん、そう思いたければ思え ─ じゃあここでお別れだ」
「そうね。さようなら。それからありがとう。あ、そうじゃなくて、ありがとう、それからさようなら、かな?ねえ、どっちがいい?」
「どっちでも」
「…ねえ、明日も会ってくれる?」
「気が向いたら」


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気が向いたら、と言い放つやいなや、少年はとつぜん踵を返し、猛然と走り始めた。
ああ、遅い、遅い、俺はあまりにも遅い。
犬でさえも、遥かに速く走るぞ。
何をモタモタしているんだ!
人間はもっと、もっと速く!
いま駆け抜けるこの草原と、地下を流れる水脈と、あの沈みゆく太陽は、きっとどこかでつながっている。
その何か、そのかかわりを、いつか巧みに結び付ければ、きっと巨大な世界がはじまる、彼女が喜ぶ世界が出来る、みなが喜ぶ世界が興る。
俺にも、なにかが、出来そうだ。
おのれにそう言い聞かせながら、少年はいよいよ膝高く疾走していく。
どんな闇よりも速く!
明日の太陽よりも強く!


(ずっと続く)