2017/12/05

数学が分からなくなる理由

先に、「学問と言語について」という随筆を書いたが、此度のものはその続編みたいなもんだ、遊び半分に見えるかもしれないが、もちろん遊び半分だ。


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さて、誰もが高校や中学で学ぶとおり、10進法とは100, 101, 102, 103,104  …… といった「ケタ論理」と、0, 1, 2, 3, 4, 5, 6, 7, 8. 9 という「表記数字」の積で数字を表す方式。
たとえば10進法で、(101 x 3) という積は30だ、また、(100 x 7) は7だね。
これらを足し合わせる場合には、ケタ論理の大きな項を左側におく風習があるので、37となるわな。
ではこの数を3進法で表記するならば、「ケタ論理」は 30, 31, 32 …… となり、「表記数字」は 0, 1, 2 だけ。
この3進法方式にて、10進法でいう37を翻訳してみると、(33 x 1) + (32 x 1) + (31 x 0) (30 x 1) となり、やはりケタ論理の大きな項を左に据えて並べると 1101 となる。
もちろん、ここでの3進法でいう 1101 を逆に10進法に翻訳すると 37 である。

─ と、こういうふうに説明されて、あれ、おかしいなぁと感じなかった?
3進法は「表記数字」が0, 1, 2 の3つしか持ち合わせていないのに、ケタ論理演算である33 にてはなんと、乗数の表記に3を起用している。
もっと大胆な例として、10進法でいう 2547 を3進法に翻訳する場合はどうか
(37 x 1) + (36 x 0) + (35 x 1) + (34 x 1) + (33 x 1) +  (32 x 1) + (31 x 0) + (30 x 0) で 10111100 とし、これにて翻訳おわりとしているが、ここでは乗数の表記で10進数の3も4も5も6も7も使っているじゃないか。
ここまで考えて、僕は何ともケムに捲かれたような不安感に捉われてしまい、もともと数学センスの発動がトロかったこともあって、学生時代にはずっと訳が分からず仕舞だった。


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とはいえ。
…なーんだこんなもん、乗数の3~7だって3進数で表されうるではないか。
いや、その表現上の数字そのものが「人間の便宜」に過ぎないじゃないか。
そう気づいてしまえば、何のことはないのである。
上の3進法の引用で幻惑されてしまうとしたら、それは「量」と「数値」にて人間が不一致を覚えてしまうからだろう。
でも、不一致でいいのである(いいんでしょう?)

僕がこれに気づいたのは、なんと就職してからで、コンピュータまわりをかじっているうちに、ぱっと分かったのだった。
たとえば ─ コンピュータの物理上の情報認識はあり/なしの2進数ベース、しかし演算のスケール単位は16ビットとか32ビットとか(今や64ビット単位があたりまえだ)、さてそれでは人間側が数理上改編しているのは認識系だろうが演算系だろうか、アセンブル言語は、コーディングやプログラミングは、さらに暗号化にては…
などなどと聞かされ、また自分なりに学んでいるうちに、ああそうか、量認識と数値表現をぴったり歩調を合わせる必然などないのだ、と納得した次第。
むしろ、こう捉えた方が、数学は分かりやすいのではないかしら。
(なお、3進数ベースでのデータ認識も量子コンピュータでは可能な由だが、仔細は知らない。量子ビットとかキュービットにのっとっての並列処理マシンもある由だが、イメージが沸かない。)

さはさりとて、量認識と数値表現を何とか一致させんという意識も、また人間の数学の特性なのではないか。
たとえば、或る次元やベクトルの表現などを以て、新たな次元式や行列演算などを「人間が」描きなおしてみたり、虚数なんかを暫定的においてみたり、これは回帰計算だとかそれは非線形だなどなど人間なりに分析してみたり、と。


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ところで。
或る量への認識とその表記の食い違いが気に入らないというのなら、音楽の楽譜はどうなるんだ?
音楽だって数学的な関係で出来ているというし、絵画だってそうだし、これらは人間による数学的な創作だといえようが、数学表現形式はあまり起用していない。
しなくともよいのだ。
逆にいえば、だぜ。
人間自身がハッキリと量的に定義しきっていない知力なるものについて、人間の数学表現を強引に起用して平均だの分散だの偏差だのというが、これはいったいどういうわけなんだ?
こういうのこそ、人間による数学の誤用じゃないか。


ふと思い出しついでに書くが、有名な落語の演題である「壺算」も、量認識と数値表現の「ずれ」を突いたもの。
尤もここでは、バランスシートにて或る実在量とその数値(ここでは価値)表現をぴったりと対照させれば「経理上は」幻惑させられることはない。


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上にて、何度となく「人間の」という言葉をおいてきたが、それは、もっとでっかく人間離れしたスケールで考えてみたいなと思ってのこと。
たぶん、「人間が数学と呼んでいるサムシング」は、もともとあらゆる実体間の「演算効率」の系として、宇宙にて(自然界にて)どかーーんと存在し続けている。
人間の頭は、それらをあとから認識し、さらに人間風に数学表現している、ということでしょう。
宇宙も電気も生命も、人間に対してやさしく自己主張してくれるわけではないが、それでもそれらが有している「演算効率」系を人間が時おり「発見」しては、「人間側の表現」を随時変更かけつつ、それらを機械化などにて活用してきたわけでしょうな。
だから、数学の公理や定理などは人間が「発見した」というが、「発明した」とはいわないようで。

こんなことをぼやっと考えたきっかけは、やはりコンピュータ関係の仕事においてであった。
コンピュータは実体はあくまで電気と磁気ともろもろのハードウェアですがな、電位変化と磁気変化によって電子回路の動きが変わるものですがな。
それらハードウェア特性と動作変化と情報処理単位の相関において、さまざまな「数学上の効率」があり - そこを人間があとから発見して、表現し、活用しているわけでしょう。

そういえば。
生物の神経伝達における電気信号と、コンピュータのデータ認識は、ともに2進数で表現出来るが、これは偶然ではないという説明を何度も聞いたし、フィボナッチ数列にしたって…
だから、植物にも動物にもなんらかの「演算効率」系があるってことになり、人間の数学がまだそれらと同期をとりきれていないってことじゃないかな。

…などなど、巨大に人間離れしようと思いつくことはあるものの、まったくの不勉強ゆえに、ろくすっぽ書くこともないのである。


以上